第二話‐01
フェンネルを村まで送り届けるなり、ヴィックスは、行くところがあると言って早々に立ち去って行ってしまった。
雨のせいか村には人がほとんど見当たらず、知り合いの姿もない。とにかく急いで家に戻ろうと歩を進めて、フェンネルはふと違和感を覚えた。辺りを見回し、その違和感が気のせいではないことを知る。村は、フェンネルの知るそれではなかった。もちろん別の場所というのではない。彼の住む村はエッジ村というのだが、ここは位置的に見ても間違いなくエッジ村だし、昨夜誕生日パーティーの開かれた酒場だって確かにある。ただ、あるはずの建物がなかったり、見覚えのない店が並んでいたりと、ところどころ様子が違うのだ。
フェンネルは足を止め、しばらくの間考えを巡らせていた。先ほどからおかしいことばかりだ。夢なのだろうか、それとも自分の記憶が間違っているのか――。
「ねえ、そこのあなた」
道の真ん中で立ち尽くすフェンネルの頭上から、女性の声が降ってきた。フェンネルははっとして声の方を見上げる。そこは村で唯一の芝居小屋で、その二階の窓から一人の若い女性が身を乗り出してこちらを見下ろしていた。
「そんなところにいたら危ないよ。それに、雨に当たっちゃう」
フェンネルが言うと、彼女は楽しそうに笑ってこう返した。
「あなたに言われるなんて心外ね。そんなところで何をしているの? ずぶ濡れだわ。この辺では見ない顔だし、家は遠いのでしょう。今下に降りるから、どうぞ上がっていって」
ほとんどフェンネルに返事をさせる隙を与えず、女性は言い終わるなり窓際から姿を消した。と思うとすぐに目の前の扉が開き、彼女は現れた。動くたびにひらひらと揺れる、短いドレスのような衣装を身に纏っている。とても華奢だが、裾の広がったスカートがよく映える体型だ。
「ほら、入って」
にこりと笑い、軽くフェンネルの腕を引いて、彼女は芝居小屋の中へと引き入れた。
言われるがままに中へと入ると、そこには彼女と同じような格好をした女性が他にも数名いた。中にはまだ十歳かそこらの子どもまでいる。
「お目当ての子でもいた?」
先ほどの女性が、そう言って毛布を差し出してきた。フェンネルはありがたく受け取り、笑いながら首を振る。
「たまに踊り子が通りに立っているのは見るけど、中に入るのは初めてだったから、珍しくて。それに、君が一番可愛いと思うな」
「お客さんはみんなそう言うわ。誰にでもね」
フェンネルの言うことなどまるで本気にせず、彼女はそう返した。
「僕は客じゃないよ。ねえ君、名前は?」
「パセルシアよ。ここの踊り子。あなたは?」
「フェンネル。毛布、ありがとう。雨が弱まるまで、ここにいさせてもらっても?」
「もちろん。そのつもりだったわ」
パセルシアはその細い両腕をテーブルに立てて頬を乗せ、にこりと笑ってそう言った。
それからフェンネルは出された紅茶を飲みながら芝居を眺め、時おり窓の外に目線を移しては、やまない雨にため息を漏らした。雨足は強くなるばかりである。道にできた水溜りはどんどん広がり、たまに通る馬車に踏まれて飛沫を上げる。泥が跳ね、石ころは沈み、草花は力なく頭を下げる。
フェンネルの脳裏に、ふと、グレゴリーの顔が浮かんだ。いつもならきっと、ステージ上で芝居を繰り広げる女性たちに見惚れて時間を経つのも忘れていただろう。しかし今は、美しい女性ではなく、しわくちゃのグレゴリーの顔を見たいという思いが強かった。
そんなときである。どかどか、ぎしぎしと足音を立てて、誰かが階段を下りてきた。
「まったく、悪いことというのは、どうしてこうも重なって起こるものなのか」
「重なって? 他にも何か?」
「うむ、実は知人の村が盗賊の被害に遭ってのう……」
足音とともに聞こえてきたその二つの声は、どちらもフェンネルの知るものであった。思わず立ち上がり、階段の方を振り向く。そこにいたのは背の高い白髪の老人と、つい先ほど別れたばかりのヴィックスであった。