第一話‐04
よく晴れた朝だった。フェンネルは、昨晩酔いつぶれて寝てしまった人々がまだ起き出さないうちに酒場を出ると、村の北の小山を越え、静かに水面を揺らす三日月湖へとやって来た。
三日月湖は、大陸の中心にある小高い丘を囲う大きな湖で、その名の通り三日月の形をしているが、人の目でそれを確認することはできない。なにせこの湖はフマン、マカフ、そしてアダールの三つの国を繋ぐほど巨大なものなのだ。見渡すと、湖面の下では人魚が泳いでいた。長く黒い髪の毛を揺らし、魚を追いかけている。言葉は持たないが、人間と同等の知能を持つ生き物だ。しかし同時に彼らは獣のごとく獰猛で、時には溺れた人間を襲うことすらある。そのため、昔から人魚は神殿を守る神聖な生き物として畏怖されてきた。
そんな人魚も、眺める分には美しい。フェンネルは人魚たちの泳ぐ様を横目に湖畔の花を集めると、蔓でそれをひと括りにし、手製の花束をつくった。立派とは言えない出来栄えだったが、見てくれのいい物をつくるのが目的ではない。フェンネルはそれを片手に水辺に立ち、そして湖に向かって投げ入れた。花束がゆっくりと、花弁を散らしながら弧を描いて湖面に落ち、波紋が音もなく円状に広がる。人魚たちがふらりと寄って来たが、獲物ではないとわかるとすぐに離れて行った。
この湖の底に、自分の母が眠っている。そう考えても、フェンネルには実感がわかなかった。一度もそのぬくもりに触れたことのない彼は、母に対する愛情や懐かしさなど持っていないのだ。それよりも二十年間育ててくれたグレゴリーのほうが、よっぽど愛おしかった。
フェンネルは小さくため息をついた。悠々と泳ぐ人魚がうらやましいと思った。何も思い悩むことなく毎日を過ごせたらいいのに。そんなことを考えながらぼんやりと景色を眺めていたフェンネルだったが、ふと、湖の向こうにぽつりと建つ神殿に目をとめた。それは純白と言う言葉がふさわしいほどに白く、青い空と緑の丘の狭間で堂々とその存在を主張している。特に何をするでもなかったフェンネルは、好奇心の赴くままにそちらへと足を向けた。
三日月湖の上には細い橋がかかっており、国と丘、丘と国とを行き来することができるようになっていた。主にマカフの商人たちが利用するためか、ずいぶんと頼りない造りである。彼らは四種族の中で最も小柄な種族なのだ。フェンネルも細身とはいえ、足を踏み出すたびにぎしりと悲鳴を上げるのでは慎重にならざるを得ない。橋の真ん中を越えたあたりで彼は橋を渡ろうとしたことを後悔したが、しかしここまで来れば渡りきるしかないと心を決め、神経をすり減らした後、ついに丘へと辿り着いたのであった。
いくら湖が大きいとはいえ、たかだか橋を渡るだけだというのに、フェンネルは疲れ切ってしまった。彼はごろりと横になり、大きく深呼吸をする。背中にやわらかな感触が広がり、草花のかおりが身体を包む。眼前には澄んだ青い空と、煙のようにたゆたう白い雲。フェンネルはまるで、この世に自分ひとりしか存在していないかのような錯覚に陥った。そして、それもいい、と思った。
頬をなでる風の心地よさに目を閉じようとしたとき、彼の視界の端に、神殿が逆さまに映り込んだ。脳裏に、あの荘厳な姿が浮かぶ。フェンネルは立ち上がり、引き寄せられるように丘を登った。
神殿は現れた。初めて間近で見るそれは彼が想像していたよりも遥かに大きく、そして美しかった。遠くから見るとただ白いだけの壁面は、細部にいたるまで細やかな装飾が施され、立ち並ぶ柱の一本一本も、それぞれが異なった形、模様を持っており、まるで彫刻のような姿をしている。敷き詰められた白い石畳の上で、フェンネルはしばし呆然と、そのたたずまいに見惚れていた。
それから少しして、フェンネルは、自分のいるところが正面ではないことに気が付いた。側面か背面か、とにかくそこには入口らしきものが見当たらないのだ。彼は壁に沿ってぐるりと周ってみた。すると、最初にフェンネルが着いた場所のちょうど反対側、つまり北側に、二体の巨大な神獣の彫刻に挟まれるようにして神殿の入り口はあった。背後にはやはり三日月湖が、そしてその向こうには深い森がある。アダールの国だ。フェンネルは辺りを見回して誰もいないことを確認すると、少しためらいがちな足取りで内部へと足を踏み入れた。