第一話‐03
外はすっかり藍色に染まっていた。酒場から漏れる賑やかな声、音楽の他には、草むらから虫の涼やかな鳴き声が聞こえてくるだけである。
フェンネルとグレゴリーは、道の脇に置かれた木の長椅子に並んで腰かけた。
「いいところじゃ、ここは」
どこか遠くを見つめるような眼差しで、グレゴリーは静かに言った。
「色々なところを見てきたが、この村が一番いい。わしには合っとる」
「色々なところって?」
「大陸中、ありとあらゆる場所じゃ。このフマンの国だけじゃない、ガンガル、マカフ、アダールの国にも行った」
「へえ、すごい! どんなだった?」
フェンネルは思わず身を乗り出し、大きな声を上げた。うんうんとグレゴリーは頷く。
「ガンガルの国は広く、巨大な峡谷がいくつもあった。雨の少ない、乾燥した地域が多くてな、いつもマカフの商人が作物を売り歩いておったのう。マカフの国は本当に豊かな場所じゃ。作物も、人の心もな。争いを望まず、音楽を好み、仕事に追われることもない。放浪しておったわしを、快く迎えてくれたものじゃ」
目を細め、懐かしむようにグレゴリーは語る。
「そしてアダール。この国は、それはそれは美しかった。他の種族の目に付かない、森の奥深くに彼らは住んでおる。森の中に国があるのではなく、森そのものが国なのじゃ。森の声を聞けぬ者は、都に辿り着くこともできない。王都ラグロンドはまったく、この世のものとは思えない美しさじゃったよ。大きな樹々がアーチをつくり、その下には立派な王宮があってのう。本当に神秘的なところじゃった」
「へえ、僕も行ってみたいなあ。けど、アダールは今も他国と交易がないよね。どうしてそんなに閉鎖的なんだろう」
フェンネルは訊ねた。うむ、と小さくうなり、グレゴリーはこう話した。
「アダールは難しい種族でな。彼らは優れた頭脳を持っておる。その叡智を利用しようとする者が、昔から後を絶たなかったのじゃ。それで次第に彼らは、他の種族を信用しなくなってしまった。そうでなくても、誇り高きアダールは元々、あまり他種族と関わることをしなかったのに……」
そこでグレゴリーは一息つくと、パイプをくわえ、煙を吐き出し、それから再びゆっくりと、言葉をつむぎ始めた。
「今から二十二年前のことじゃ。新たに即位した王が、他種族と手を取り合って生きてゆくと明言した。すると、それに反発する勢力が現れたのじゃ。やつらは王に、考え直すよう抗議した。それでも王の意志が変わらないとわかると、今度は王そのものを変えようとした。革命という名の、戦争じゃ。王には妻がおったのだが、彼女はフマンでな。王は危険を感じ、彼女を国外に逃がした。故郷に帰った彼女は、しかし、村人たちには歓迎されなかった。アダールの国で起こっている革命のことは彼らの耳にも入っておったからのう、彼女と関わることで自分たちにも危害が及ぶと思ったのじゃろう。彼女は村の外れでひっそりと暮らした。孤独じゃった。孤独は、人を死に導く病。彼女は弱ってゆき、やがて命を落とした」
つらそうに顔を歪めながら、グレゴリーはそう語った。その様子を見て、フェンネルは訊ねる。
「その女の人、グレゴリーの知り合いだったの?」
するとグレゴリーは悲痛な面持ちでフェンネルを見つめ、そして、ひとつ息を吐いてこう告げた。
「彼女は――お前の母じゃ」
え、と、フェンネルの口から声が漏れる。グレゴリーは大きくため息をつき、弱々しくかすれた声で言った。
「彼女はお前を生んだが、それは衰弱した身体には大きな負担となってしまった。――お前はな、フェンネル、フマンじゃない。アダールとの混血児なのじゃよ。それも、王族の血を引いておる。黙っていて……すまなかった。お前がこの国で暮らすには、純粋なフマンになりきることが必要だったのじゃ。そうでなければ、お前まであの子と同じ道をたどってしまうかもしれん、そう思った。フェンネル、お前を立派に育ててやることが、あの子を救えなかったわしの、あの子に対する償いじゃと思って……」
言葉を詰まらせるグレゴリー。フェンネルはしばらくの間、呆気にとられていたが、やがて小さく笑ってこう言った。
「ありがとう、グレゴリー」
グレゴリーが顔を上げる。
「二十年間、僕を育ててくれてありがとう。気にしてないさ、僕にとっての親はグレゴリーなんだから。もう僕は子どもじゃないんだよ」
グレゴリーは視線を逸らし、しわくちゃの指で目頭を押さえた。そして大きく深呼吸をすると、再びフェンネルに向き直った。
「あの子は三日月湖の底で眠っておる。行ってやりなさい、フェンネル。立派に成長した姿を、母に見せてやるのじゃ」
「――うん」
フェンネルが頷いてみせると、グレゴリーはさてと、と立ち上がり、言った。
「わしは中に戻って飲み直してくるとするわい。まったく、主役がいないというのにみんな、馬鹿みたいに騒ぎおって……」
ぶつぶつと文句を漏らしながら、酒場へと戻ってゆくグレゴリー。その背中を、フェンネルはぼんやりとした眼差しで見送った。頭上では、大きな白い月が儚げに輝いていた。