「染料屋の娘の手など、王家にふさわしくありませんわね」
冬の朝、戴冠式準備室に運び込まれた絹を見て、王太子殿下が息を呑まれたそうです。
わたくしは南方の港町ポルト・ロサの工房で、新しい絹を染色槽から引き上げていました。窓の外、地中海の陽光が白壁に跳ね、染料の蒸気が桃色に光ります。マチェイが息せき切って文を持ってきたのは、ちょうど絹を陰干しの竿に渡した瞬間でした。
「先生、王宮から早馬です」
わたくしは絹を撫でる手を止めず、視線だけを文に落としました。封蝋の薔薇紋——王太子家の徽章。
「殿下が、こちらへ向かわれているそうです。三日後に到着予定」
左様でございますか。
わたくしはそうお答えして、絹の最後の一辺を整えてから、紫に染まった指で文を受け取ったのでした。
——あの夜会から、ちょうど半年が経ったのだと、ふと思い至りました。
窓の外、海鳥が一羽、白壁に影を落として通り過ぎていきます。
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あれは、春の夜会のことでございました。
王宮の絹の間。天井から吊られた燭台の数が、ちょうど百二十。床は黒檀の寄せ木、壁にはわたくしの祖母が四十年前に染めた壁掛けが下がっておりました。深い菫色に、光の角度で葡萄色に変わる、ヴァルテリス紫の壁掛け。それが、その夜の絹の間に張りつめた緊張を、静かに見守っていたのでございます。
わたくしは王太子殿下の婚約者として、後列の席を与えられておりました。
長い手袋。肘までを覆う白絹の手袋でございます。わたくしの両手は、手のひらから指の根元まで、薄紫に染まっております。何度洗っても抜けない、皮膚に染み込んだ紫——千年の家業の証。爪の根元には、媒染剤の銀粉がきらりと光ります。
夜会の場では、その手は隠す習いでございました。
席が始まり、舞曲が流れ、貴婦人方が王太子殿下の周りに集まります。その中央に、側妃ベルナデッタ・ファルニエーゼ侯爵令嬢がおられました。
ベルナデッタ様は、その春に側妃の座を得たばかりでございました。輝くような金茶の髪を高く結い上げ、宝石付きの簪を幾本も挿しておられました。お召し物は緋色の絹——わたくしの目から見れば、染めの粗い、東方からの輸入絹でございました。
ベルナデッタ様はわたくしの席の前に立ち止まり、扇を口元に当てて、笑いながら申されました。
「ヴィオラ様、その白い手袋、いつも長くてございますわね」
わたくしはお辞儀を返しました。
「染料の蒸気で皮膚が荒れますの。お見苦しいので、ご容赦くださいませ」
「まあ、手のひらが染まっていらっしゃるのでしょう? どんな色ですの」
わたくしは答えませんでした。答えずとも、その問いが侮辱を含んでいることは、その場の誰もが察しておりました。
ベルナデッタ様は王太子殿下の腕に手を絡め、声を一段高くなさいました。
「染料屋の娘の手など、王家にふさわしくありませんわね」
絹の間が、一瞬、静まり返りました。
燭台の蝋燭が一本、ぱちりと爆ぜました。
わたくしは席から立ち上がり、ベルナデッタ様の方へ進みました。視線は伏せたままでございます。卓の前に立ち止まり、ゆっくりと右手の手袋を外しました。
肘から手首、手首から指。
現れた手のひらは、深い紫に染まっておりました。手のひらの中央、生命線の溝に沿って、紫の濃淡が層を成しております。爪の根元では、銀粉のような媒染剤の粒が光ります。十六年、染色槽を見続けた手でございます。
わたくしはその手を、卓の上に静かに置きました。
左様でございますか。
言葉はそれだけ。
わたくしは懐から、小さな硝子瓶を一つ取り出し、卓の中央に置きました。封蝋にカンパネラ家の紋——絡み合う三つの貝。
「これは、王宮の染料蔵に保管されておりました、わたくしの家の媒染剤瓶でございます。本日、わたくしは染料蔵から自家の素材を全て持ち帰ります。瓶の中身は、わたくしの一族以外には開けられませぬ。封を破れば、媒染剤は空気に触れて瞬時に劣化いたします。お試しになりませぬよう、お願い申し上げます」
ベルナデッタ様は眉を寄せられました。意味を測りかねておられるご様子。
わたくしは王太子殿下の方へ目を上げ、深く一礼を申し上げました。
殿下は何もおっしゃいませんでした。
わたくしは絹の間を退出いたしました。退出の途中、壁掛けの紫が、わずかに揺れたように見えたのは、わたくしの目の錯覚でございましょう。
その夜のうちに、わたくしは王宮の染料蔵から自家の媒染剤瓶を全て——百二十三本——馬車に積みました。貝紫の粉末、計四十二壺。下染め用の絹見本帳、祖母の比率表が縫い込まれた絹布、そして祖母の指貫。
全て、馬車に積みました。
翌朝、家業を畳む手続きを済ませ、父に一礼して、わたくしは南方の港町ポルト・ロサへ向かう街道に立ちました。
振り返りませんでした。
街道の両脇、菜の花が黄色く咲いておりました。風が東から吹いて、わたくしの長い髪を後ろへ流していきました。馬車の御者が、振り返りながら申しました。
「お嬢様、本当にお戻りにならぬのですか」
わたくしは黙って前を見つめておりました。
黙っているのが、答えでございました。
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馬車の上で、わたくしは祖母のことを思い出しておりました。
祖母エレオノーラ・カンパネラ。十八歳の時に他界されました。わたくしが家業を継いだのは、その年の冬でございます。
祖母は、わたくしが六歳の時から、染料調合の手ほどきをしてくださいました。最初に教わったのは、色の名でございました。深い菫、淡い藤、葡萄、桔梗、菖蒲、紫陽花。紫だけで二十四種——祖母はそれを瞳で見分けられました。
わたくしも、十二歳の頃には二十四種を判別できるようになっておりました。瞳が色を覚える、と祖母は申されました。
「ヴィオラ、紫を読む目を、お前は持っている。これは血よ。千年の血よ」
地下作業場——プールプラ川の隣、岩盤を掘り抜いた染色工房——の壁一面に、染色槽が八つ並んでおりました。それぞれに違う温度、違うpH、違う媒染剤の比率の液が満たされております。
ミョウバン四、鉄漿三、木灰三。
ただし、これは原則でございます。プールプラ川の水は秋に酸性に傾きます——そのときは木灰を増やします。夏は鉄漿の発酵が早うございます——そのときは量を減らします。冬は氷の溶ける速さが違うので、染色槽の温度を六時間ごとではなく十二時間ごとに見ます。
配合は、絹と水と季節の三角の交点で、毎日変わるのでございました。
祖母の比率表は、紙ではございません。絹の切れ端に染色見本として残されております。一つ一つの切れ端に、季節と水質と気温が記され、それに対応する媒染剤比率が、染色見本そのもので示されているのです。
文字ではなく、色そのもので記された表。
その表は、わたくしの瞳でしか読み解けません。
わたくしの一族以外には、永遠に読めない表でございます。
幾度か、宮廷合理化評議会から査察団がまいられました。「比率を文書化されよ」「秘伝の科学的検証を許可されよ」と。わたくしは、お断り申し上げてまいりました。文書化された比率は、その日のプールプラ川の水質を含みませぬ。瞳が見る色を、含みませぬ。指先が知る絹の温度を、含みませぬ。文書化した瞬間、それは死んだ知識になり、二度と生きた紫を生まぬのでございます。
祖母は申されました。
「色は、急がせると褪せる。書き留めようとした瞬間、もう、それは過去の色なのよ、ヴィオラ」
わたくしの瞳は、毎日、新しい紫を読み続けねばなりませぬ。
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貝紫の調達は、十歳の頃から学びました。
祖母に連れられて、初めてポルト・ロサへ参りましたのは、十歳の春でございました。馬車で六日。最後の一日は海岸沿いを下り、夕暮れに港町に到着いたしました。
白壁の家並みが、赤い屋根を連ねて坂を下っていきます。海は青く、夕陽で金色に縁取られ、漁師の船が次々と港へ戻ってまいりました。空気は塩と魚と、何かもう一つ——わたくしには嗅いだことのない、独特の発酵臭が混じっておりました。
貝の発酵臭でございます。
翌朝、わたくしと祖母はカルロ翁の船に乗りました。当時、カルロ翁は五十二歳。今では六十三歳のはずでございます。
翁の船は、潮の引く時刻に合わせて、プープラ岩礁へ向かいました。岩礁は港から船で半日。潮が引くと、岩棚が露出し、その岩棚に紫貝——巻貝の一種——が密生しております。
漁師たちは素手で貝を岩から剥がし、船の籠に放り込んでいきます。剥がす時に貝の鰓下腺から漏れる粘液が、岩を紫に染めていきます。
翁が祖母に申されました。
「エレオノーラ様。今年は当たり年でございます。岩棚の貝が肥えております」
祖母は頷いて、わたくしの肩に手を置かれました。
「ヴィオラ。この海と、この貝と、この岩礁を、よく見ておきなさい。お前の一生の半分は、ここで決まるのだから」
わたくしは岩礁を、岩棚を、貝を、漁師の手を、見つめました。
潮の引く時刻——午前十時から正午まで、その二時間だけが、貝紫の漁の許される時間でございます。それを過ぎると、潮が満ちて岩棚が水没いたします。世界中で、この岩礁の貝以外、あの紫を出せる貝はおりません。
貝紫の鰓下腺は、四十八時間発酵させます。海水と一緒に硝子瓶に詰め、温暖な納屋で寝かせます。最初は乳白色、やがて青みを帯び、最後には濃紫の濁液になります。それを乾燥させて粉末化したものが、染色に用いる貝紫粉でございます。
乾燥に三日。粉砕に一日。瓶詰めに半日。
一壺の貝紫粉を作るのに、貝が三百個と、五日の時間が必要でございます。
ヴァルテリス紫の絹一反を染めるには、貝紫粉が二壺と二分の一——貝にして七百五十個。
戴冠式の絹は、王家の儀式に用いる長尺。十二反——貝にして九千個でございます。
千年前、初代王の戴冠式のために、わたくしの祖、フィオーラ・カンパネラはこの岩礁で九千個の貝を集めたのでございました。
その血脈が、わたくしの瞳と手に流れております。
帰り道、祖母は船の舳先に立ち、海風に長い髪を流しながら、わたくしに申されました。
「ヴィオラ。貝紫は、海そのものを染料にしている、と思いなさい。漁師は海から色を借りる者。我らは漁師から色を受け取る者。受け取った色は、絹に返す。絹はそれを記憶する。海から、漁師から、我らから、絹へ——色は四つの手を渡って、ようやく王家の儀式に届く。途中の一つでも手を抜けば、紫は死ぬのよ」
わたくしはその時、紫が死ぬ、という言葉の意味を、まだよく理解しておりませんでした。
二十一歳の今、わたくしはそれを、誰よりもよく知っております。
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染色工程は、九日でございます。
下染め七十二時間。中染め七十二時間。上染め七十二時間。
下染めでは、絹を媒染剤の浅い液に浸します。摂氏二十度を保つ。氷で温度を調整する——夏季は六時間ごと、冬季は十二時間ごと、染色槽に氷を補充します。氷はプールプラ川の上流の氷室から運ばれてまいります。
夜中、工房で氷の溶ける音だけが響きます。
ぴち、ぽち、ぴち。
その音を聞きながら、わたくしは染色槽を見続けます。色が偏らぬよう、絹を二時間に一度、ゆっくりと回します。手袋はいたしません。指先で絹の温度を測り、染料の浸透具合を見るためでございます。
手のひらが、その時に染まるのでございます。
中染めでは、貝紫液に絹を浸します。鉄漿の比率で青みを調整いたします。摂氏二十二度——下染めより少し高い。鉄漿の発酵を促すための温度。
絹が、徐々に紫に染まっていきます。最初は灰がかった藤色、やがて葡萄色、最後に深い菫色。
上染めは、最も繊細でございます。二度目の貝紫液に絹を浸し、木灰のアルカリ液で中和しながら、色を定着させてまいります。摂氏二十度に戻す。氷の補充を六時間ごとに。木灰の量は、絹の重量と水質pHから計算する——その日のプールプラ川の水を、わたくし自身の瞳で見て決めるのでございます。
最後の工程は、鞣しでございます。
絹を染色槽から引き上げ、陰干しの竿に渡します。一日かけて陰干しした後、絹の繊維を一本ずつ指捌きで整えます。
これを怠ると、三ヶ月で褪色が始まり、半年で粉になります。
絹は紫を「定着」させるのではなく、「記憶」させるのでございます。記憶は、繊維を整える指捌きの優しさで、決まります。
最後の上染めの仕上げに、染め手が自分の指先で絹を撫でる——千年続く儀式でございます。指先の温度が、絹に宿る。
「指先の温度が、絹に宿るのよ、ヴィオラ」
祖母の声が、今でもわたくしの耳に残っております。
わたくしは、その指先で、十六年、絹を撫で続けてまいりました。
戴冠式の絹は、もとより十年前から下染めが始められておりました。祖母と、母と、わたくしの三代の手が下染めから中染めまでを担い、上染めだけが、戴冠の年の春に残されておりました。
あの夜会の夜、わたくしは染料蔵の戴冠式絹を、馬車に積みませんでした。あの絹はすでに王家の絹蔵にあり、王宮の管理下にあったからでございます。わたくしが持ち去ったのは、あくまで自家の媒染剤瓶と貝紫粉でございました。
残された戴冠式絹に、ファレル商会の職人が上染めを施しました。媒染剤の比率は推測。鞣しは省略。指先の温度はおりませぬ。彼らは、絹を「染めた」つもりでおられました。けれど絹は、染め手の手を覚えませぬ。粗雑に、急がせて、温度を高めて、色は確かに乗ったように見えました——半年だけ。
半年で、紫は粉になりました。
絹は、恥をかかぬよう、短期間で自らを灰にして、千年の権威を守ろうとしたのかもしれませぬ。
けれど、それを「絹の意志」と呼ぶのは、信仰でございましょう。わたくしはただ、媒染剤の比率と鞣しの不備が、半年で繊維を弱らせる——そういう、職人の言葉でしか申せませぬ。
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ポルト・ロサに到着したのは、馬車の旅の七日目でございました。
白壁の家並みが、夕陽に染まっておりました。海は静か。漁師の船が港に戻ってまいります。
わたくしはヴィオレッティ家の門の前に立ちました。
門は石造りの古いもので、上に小さな貝の彫刻が施されております。紋は、絡み合う三つの貝——カンパネラ家と同じ紋でございました。
門を叩くと、若い男性が出てまいられました。
日に焼けた褐色の肌、黒髪を短く整え、首の後ろに一房だけ伸ばした髷。瞳は深い琥珀色、陽の角度で金色に光ります。袖をまくった白麻の上衣の袖口に、紫の染みが少しありました。
マチェイ・ヴィオレッティ様。二十七歳。ヴィオレッティ家の長男でございました。
わたくしは祖母の紹介状を差し出しました。
マチェイ様は紹介状を読まれました。読みながら、紙を持つ指がわずかに止まり、それから深く息を吸われました。
顔を上げて、わたくしを見つめられました。
「カンパネラのお家の方を、五年お待ちしておりました」
声が、低く落ちておりました。
わたくしは静かにお辞儀を返しました。
「祖父の遺言でございます。『いつか南へ来てくださる日のために、契約を切らさずに保て』と。私が二十二の時に祖父は亡くなりましたが、貝紫漁師の組合との契約は、毎年更新を確認してまいりました」
「ありがとうございます」
わたくしの声は、自分でも驚くほど静かでございました。
馬車の荷を、ヴィオレッティ家の蔵に運び込みました。媒染剤瓶百二十三本、貝紫粉四十二壺、祖母の比率表の絹布、染色槽の図面、祖母の指貫。
マチェイ様は、それらを一つ一つ、丁寧に見つめておられました。
「これは、千年の家業ですね」
「はい」
「ここから、新しい染色を始められるのですね」
「はい」
マチェイ様は微かに笑われました。
「お手伝いさせてください、先生」
先生——年下のわたくしを、そう呼ばれました。
わたくしは答えに迷い、しばし黙ってから、深く頷いたのでございました。
マチェイ様はその夜、ヴィオレッティ家の蔵の鍵を、わたくしに預けてくださいました。鉄でできた古い鍵で、握り部分に貝の彫刻が施されておりました。手のひらに収めると、ひんやりと冷たく、しかし重みは確かでございました。
「父はもう亡くなり、家業は私が継いでおります。蔵は、先生のものとお考えください」
「お言葉に甘えさせていただきます」
わたくしの声は、まだ硬うございました。半年前まで、わたくしは王宮の染料蔵の鍵を持っておりました。あの鍵は、朱色の絹紐がついた金の鍵でございました。比べる気はございませぬが、手のひらの温度は、こちらの鉄の鍵の方が、ずっと正直でございました。
その夜、わたくしはヴィオレッティ家の客間で、初めて深い眠りに就いたのでございました。
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ポルト・ロサでの最初の半年、三つの仕事をいたしました。
一つ目は、貝紫漁師組合との契約締結でございます。
組合長カルロ翁を訪ねました。翁は六十三歳になっておられました。背は曲がり、髪は白く、しかし眼差しは岩のように揺るがず、声は深い海のようでございました。
翁はわたくしを抱き寄せ、わたくしの顔を両手で挟んで、言われました。
「エレオノーラの孫娘か。瞳が、エレオノーラと同じだ」
わたくしの瞳に、初めて軽く水気が差しました。
翁は申されました。
「五十年契約は、カンパネラ家のお嬢様にこそ繋がっている。王宮には繋がっていない。お前の祖母エレオノーラ様は、わしらが不漁で飢えた年に、三百金をお貸しくださった。利息も取らず、返済も急かさず、ただ『漁村が立ち直るまで』とおっしゃった。あの三百金で、わしらの父祖は子供を死なせずに済んだ。あの時の恩義は、金では返せぬ。だから、紫貝は、カンパネラ家のお嬢様にしか売らぬ」
わたくしは契約書に新しい署名を入れました。
ヴィオラ・カンパネラ。
千年の血脈が、ポルト・ロサの港町で繋ぎ直されました。
二つ目は、ポルト・ロサの修道院の祭服でございました。
陽光神教の修道院。修道女三十名分の祭服を、わたくしは染めました。王宮の絹より細い糸、絹自体は質素なもの。しかし、紫の深さは変わりませぬ。
最後の鞣しの後、修道院長が祭服を一枚手にとり、光に透かされました。
「これは、祈りの色だ」
修道院長は涙を流されました。
「神が、人の手を通して降ろされる色だ」
わたくしは、祈りという言葉を、初めて自分の染料に重ねた気がいたしました。
三つ目は、ポルト・ロサの織物職人組合への染色技法伝授でございました。
ただし、ヴァルテリス紫の核心——媒染剤の三層比率と、上染めの儀式と、鞣しの指捌き——は、お教えしませんでした。それは祖母から受け継いだ秘訣であり、わたくしが新しい弟子を取るまで、継承の判断は保留するものでございます。
お教えしましたのは、簡易の貝紫染めの方法。それでも、ポルト・ロサの絹が、一段階上の色を持つようになりました。
町が、紫を持ち始めたのでございます。
修道院から、わたくしのもとに、白絹に紫の糸で刺繍された薔薇が一輪、贈られてまいりました。修道女の方々のお手紙には、こう記されておりました。
「祭服を頂戴した夜、修道院の祭壇に陽が差し、紫の絹がほのかに浮かび上がりました。神の御心が降りたかと、皆で長く祈りました。あなた様の手を通して、神は色を降ろされたのです」
わたくしは手紙を二度読み、それから、引き出しの奥にそっと仕舞いました。
信仰の言葉は、わたくしには重うございます。けれど、修道女の方々の真心は、わたくしの胸の奥に、温かく沈んでまいりました。
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ある夜、染色工房の地下作業場で、わたくしは上染めの最後の仕上げをしておりました。
夜の十時。工房の窓から月光が差し込み、染色槽の表面に銀の波紋が立っておりました。氷の溶ける音、ぴち、ぽち。プールプラ川——いえ、ここはポルト・ロサ。氷はピレネー山脈の氷室から運ばれます。音だけは、王宮の地下作業場と同じでございました。
マチェイ様が、お茶を持って降りてこられました。
「先生、お疲れでしょう」
わたくしは絹を撫でる指を止めずに、答えました。
「あと半時間で上染めが終わります。それから鞣しに入ります」
「私が見守りますから、少しだけお茶を」
わたくしはようやく顔を上げ、マチェイ様の方を向きました。
マチェイ様の瞳が、わたくしの手を見つめておられました。
紫に染まった指。爪の根元の銀粉。手の甲の皮膚、薄紫の地肌。十六年、染色槽を見続けた手。
「先生、その手は——」
マチェイ様の声が、いつもより低く落ちておりました。
「千年の絹を覚えている手だ」
胸の奥で、何かが微かに揺れました。
誰かにそう言われたのは、祖母が亡くなって以来、初めてでございました。
わたくしは答えませんでした。答えのかわりに、染色槽の中の絹を、もう一度、指先で撫でました。
絹が、わずかに温度を上げたように感じました。
月の光が、地下作業場の壁に、揺れる紫の影を落としておりました。
マチェイ様は何もおっしゃらず、ただ、染色槽の縁に肘をかけて、絹が染まる過程を見つめておられました。商人の家系の方ですから、絹を見る目は確かでございました。けれど、商人の目ではなく、職人を見守る目で、見つめておられました。
半時間が経ち、上染めが終わりました。
わたくしが鞣しに入る前、絹を竿に渡そうとした時、マチェイ様が手を伸ばしてくださいました。竿の高さがわたくしの背では届かぬところを、マチェイ様が支えてくださったのです。
「ありがとうございます」
「先生」
マチェイ様の声は、もうただ低いだけではございませんでした。微かに、一つ言葉を選ぶような間が、あったのでございます。
「私は、商人として、染料を運び、売る家に育ちました。けれど、こうして絹が染まる過程を見るのは、初めてです」
「左様でございますか」
「色がこうして生まれる場所を、私は知らずに、染料を売っておりました」
マチェイ様の瞳に、わたくしを見つめる温度が、いつもより深くなっておりました。
わたくしは絹を竿に渡し終え、手を引き、わずかにマチェイ様の方を見上げました。
「色は、急がせると褪せます」
「はい」
「色を売る商人もまた、急がせると、何かを褪せさせてしまうのかもしれませぬ」
マチェイ様は微かに苦笑なさいました。
「それは、商人への戒めですか、先生」
「いえ」
わたくしは目を伏せました。
「自分への戒めでございます」
マチェイ様は答えず、ただ、わたくしの手元に置いた染色槽の縁の桶を、一つ動かしてくださいました。月光が桶の水面に揺れて、紫の影が壁に伸びました。
---
半年が経ちました。冬になりました。
王宮の戴冠式準備室で、絹が褪色した——その報せが、ポルト・ロサに届いたのでございます。
マチェイ様の文を読み終えてから、わたくしは染色槽の前に立ち、しばし黙っておりました。
絹は陰干しの竿で揺れております。深い菫色の絹。
わたくしは祖母の比率表の絹布を取り出し、机の上に広げました。
祖母の手書きの注釈——千年の蓄積。
その隣に、もう一枚の絹を置きました。先日、ファレル商会の手配で輸入された絹見本——これはマチェイ様が、王宮への伝手を通して入手してくださったもの。
二枚の絹。
見比べるまでもございません。
左の絹——千年の比率で染めた、ヴァルテリス紫。深い菫色、光の角度で葡萄色に変わる。
右の絹——ファレル商会の輸入紫。一見同じ色に見えるが、青みがわずかに弱く、灰がかっている。
右の絹の繊維を、わたくしは指先で確かめました。鞣しが省かれている。媒染剤の三層比率が違う。鉄漿が薄く、木灰が多すぎる。これは半年で褪色する絹でございます。
いえ、もう半年が経ったのでございます——褪色は、すでに始まっているはず。
わたくしは机の上に二枚の絹を残し、マチェイ様にお茶をお願いいたしました。
三日後、王太子殿下がポルト・ロサにご到着されました。
---
工房の応接間。窓の外、地中海の冬の海が、灰色に揺れておりました。
王太子殿下は、供を外に残し、ご自身だけで部屋に入ってこられました。
お顔は、半年前より痩せておられました。金髪は乱れ、目の下に薄く隈が浮いております。
わたくしは深く一礼をいたしました。
「ヴァルテリス紫のことで参った」
殿下のお声は、低くございました。
「戴冠式の絹が、褪色した。新しく染めようとしたが、ファレル商会の職人には媒染剤の比率がわからぬ。貝紫漁師組合は……」
「カンパネラ家の紹介状なしには売らぬ、と申されたのでございますね」
「そうだ」
わたくしは机の上に、二枚の絹を並べました。
「殿下、どちらが本物のヴァルテリス紫でございますか」
殿下は二枚の絹を見比べられました。長い時間。沈黙が、応接間に降りておりました。
窓の外、海鳥の影が、白壁を斜めに横切りました。
ようやく、殿下は口を開かれました。
「……わからぬ」
「左様でございますか」
わたくしはゆっくりと、左の絹を持ち上げました。
「左が、千年の比率で染めた絹でございます。右が、ファレル商会が宮廷に納めた絹。右の絹は、半年で褪色いたしました。媒染剤の三層比率が違うからでございます。鞣しを省いている。指先の温度が、宿っていない」
殿下のお手が、震えておられました。
わたくしは絹を机に戻し、殿下の方を見上げました。
「殿下」
殿下が顔を上げられました。
わたくしは、机の引き出しから、もう一つの絹布を取り出し、殿下の前に置きました。
祖母の比率表の絹布——千年の蓄積を、染色見本そのもので記したもの。
「これが、わたくしの祖母エレオノーラから、わたくしへ託された、ヴァルテリス紫の比率表でございます。この絹布の色を読めば、媒染剤の三層比率と、染色温度と、季節別の補正がすべて分かります」
殿下は絹布を見つめ、しばらくの後、首を横に振られました。
「……読めぬ」
「左様でございますか」
「色が、二十、三十、並んでいるが、私には皆、同じ紫に見える」
「それで、よろしいのでございます」
わたくしは絹布を引き出しに戻しました。
「この表は、瞳が育たぬ者には永遠に読めませぬ。瞳は、六歳から始め、十六年かけて育てるものでございます。文書化はできませぬ。書き記そうとした瞬間、もう、それは過去の色になります」
殿下のお手が、震えておられました。机の上の二枚の絹に手を伸ばしかけ、しかし途中で止められました。手のひらを、ご自身の膝の上に戻されました。
「ヴィオラ」
殿下のお声は、低うございました。
「私は……あの夜、ベルナデッタの言葉を、止めなかった」
「左様でございました」
「止めるべきだった」
「それは、もう、過ぎたことでございます」
「私は、お前が何を持っていたか、知らなかった」
「殿下」
わたくしは、初めて、殿下のお目をまっすぐに見つめました。
「紫は——」
「染める者が誰かを、絹が覚えているのです」
殿下は深く、深く、頭を垂れられました。
その姿勢のまま、しばらく動かれませんでした。
応接間の柱時計が、時を刻む音だけが、聞こえました。
ようやく顔を上げられた時、殿下の瞳に、初めての光が宿っておりました。後悔と、理解と、それから何かもう一つ——わたくしには判じかねる光でございました。
「ヴィオラ。戴冠式の絹を……もう一度、頼めないだろうか」
わたくしは静かに首を振りました。
「家業は畳みました。ヴァルテリス紫は、もう王家のためには染めませぬ」
「……そうか」
「ただ」
わたくしは続けました。
「ポルト・ロサの修道女のための祭服と、新しい紫を、わたくしは染めております。殿下が望まれるなら、一枚だけ、お送りいたします。戴冠式のためではなく——殿下が今日ここで学ばれたものへの、わたくしからの代償として」
殿下は深く、長い一礼をなさいました。
「ありがとう、ヴィオラ」
その日、ベルナデッタ様の運命も、すでに決しておられたそうでございます。後で聞きましたところ、紫が出せなかった責で側妃位を剝奪され、ファルニエーゼ侯爵家からも廃嫡されたと。ファレル商会は宮廷出入りを禁じられ、解散したと。
戴冠式は、絹を新調することなく、王家の絹蔵に古くから残されていた小幅の祭祀絹——百年前の絹——を、簡略な装束に仕立て直して用いられたそうでございます。古い絹は、千年もつのでございました。新しい絹は、十年もたぬのでございました。
王太子殿下は、戴冠式の日、長い演説の途中で、一つだけ、職人と漁師への謝意を述べられたと聞きました。
「我らの紫は、海と岩礁と、漁師の手と、染め手の指先から、千年をかけて届けられたものである」
その一文だけ、王太子殿下のお手によって付け加えられたと、宮廷の便りは伝えてまいりました。
わたくしは、それらの報せを聞きながら、新しい絹の上染めを続けておりました。
わたくしの手は、震えませんでした。
ただ、染色槽の前で、絹を撫でる指先の温度が、いつもより少し低かったような気がいたします。
それは、寒さでしょうか。それとも、別の何かでしょうか。
わたくしには、判じ得ませぬでした。
---
翌春。
ポルト・ロサの染料工房の中庭で、わたくしは新しい絹を上染めしておりました。
春の陽が、白壁に強く跳ね返り、染色槽の表面で銀色に光っております。庭の隅、夏蜜柑の木が花をつけ、白い花弁が風に散っておりました。海風には、塩と、貝の発酵臭と、夏蜜柑の甘い香りが混じっております。
絹が染まっていきます。深い菫色、海風で青みがわずかに揺れる。
マチェイ様が、日傘を差してこられました。
「先生、陽が強い。染料が傷みます」
わたくしの頭の上に、白い日傘が広がりました。
わたくしは指先を止めずに、絹を撫で続けました。マチェイ様も、何もおっしゃらず、ただ日傘を差したまま、隣に立っておられました。
その時、わたくしは机の引き出しに、祖母の遺品の中から見つかった一通の手紙のことを思い出しておりました。
ヴィオラへ。
紫は、千年染めても、新しい色になる。
古い比率を守りながら、お前の指先で新しい色を生め。
それが、千年の意味だ。
祖母 エレオノーラ
手紙を見つけた時、わたくしは初めて泣きました。祖母が亡くなって、三年。三年ぶりの涙でございました。
今、染色槽の前で、わたくしの目尻が、静かに温かくなりました。
マチェイ様は気づいておられたのか、いなかったのか。
ただ、日傘を少しだけ動かして、わたくしの目元に陽が当たらぬようにしてくださいました。
絹が染め上がりました。
新しい紫——王家のためではなく、ポルト・ロサの陽光のための紫。深い菫色、海風で青みがわずかに揺れる、千年の比率を守りながらも、わたくしの指先で生まれた新しい色。
わたくしは絹を竿に渡し、最後の鞣しに入る前に、しばし陽の中で立ち止まりました。
振り返らない、と決めておりました。
あの夜会の夜、馬車に荷を積んだ時に、振り返らない、と決めたのでございます。
けれど。
振り返らずに済む紫を、わたくしは、染め続けているのでございました。
日傘の下、マチェイ様の影が、わたくしの足元に静かに重なっておりました。
夏蜜柑の白い花弁が、染色槽の縁に一枚、舞い落ちました。
わたくしの指先が、絹に最後の温度を、ゆっくりと宿してまいりました。
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# あとがき
歩人と申します。「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ、九十三作目をお届けいたしました。
今回は「裏方型ざまぁ」です。紫という色そのものが王家の権威を表す——その色を作る職人の手こそが、権威の本体であった。千年続く家業を「染料屋」と侮辱した者は、自分が誰に守られていたかを知らない、という構造で書きました。
貝紫は史実に存在する染料で、地中海沿岸のアッキガイから採取されます。一頭の貝から取れる染料はごくわずかで、紫の絹一着を染めるのに数千個の貝が必要だったと伝わります。古代ローマで皇帝の紫として珍重され、中世以降も王家の色として独占されてまいりました。「ヴァルテリス紫」のモデルは、この貝紫の歴史にあります。
千年の職人技は、文献ではなく、人の手と瞳で受け継がれます。紙の比率表ではなく、絹の切れ端に染色見本そのものが残る——これは祖母から孫へ、瞳が瞳を覚える継承です。ヴィオラの「左様でございますか」が、その継承の重みを背負った静かな抵抗となれば幸いです。
既刊の「捨てられ令嬢」シリーズ、よろしければ作者ページからお立ち寄りくださいませ。星評価とブックマーク、誠にありがたく頂戴いたします。
歩人




