雑記 有と無について
ごちゃ混ぜにすることが嫌いだ。
哲学と科学。哲学とオカルト。科学とオカルト。それらをごちゃ混ぜにして、より高い足場を得ていると得意になっている人間が、とみに嫌いだ。(下手の考え休むに似たり!)
しかし、ひとつの問題が、私にごちゃ混ぜを強いる
有と無についてである。
パルメニデスは言った。有は有にのみ接続する。
ウィトゲンシュタインは、概念に実体を認めなかった。(認めればラッセルのパラドックスに陥る!)
e = mc^2
e = mc^2は困難を生じない。エネルギーも光も有である、それだけ。
南部陽一郎以来、真空は何もないのではなくエネルギーが凪いだ状態だとされているのも、有は有にのみ接続する、を補強するものだ。
問題は無の側にある。
有に満ちたこの世界において、いったい何が無であるのか。
人間の用いる概念だけは無であり、他はすべて有、などと断じるのはご都合主義ではないのか。
八方塞がりだったが、あるとき光明がさした。「論理哲学論考を読む」という著作に以下のような内容がある。
“テーブルの上にパンダはいない、という絵を描くことはできない。何も乗っていないテーブルは描ける。しかしそれではダチョウがいない、イノシシがいない、などと言うこともできる。
テーブルの上にパンダが載った絵を描き、パンダにばってんを書けばどうか。これも問題がある。ばってんを書いたところで、その下にパンダはいるのである。
では、いない、とは何か。端的に言って仕舞えば期待に反することである。テーブルの上にパンダがいる、と期待する人だけが、何もないテーブルを見た時、パンダがいない、と言うことができる”
これは否定の論理語を説明した箇所だが、無、に対しても同じアプローチが可能であろう。
魂があると期待してはじめて、魂がない、という主張も成立する。
真善美のイデアが存在すると期待すればこそ、それらの否定も行いうる。
ウィトゲンシュタインいわく、
語は命題の中ではじめて意味を持つ。語に実体はない。
これは語に実体があると期待し、パラドックスを生み出してしまったラッセルへのカウンターとして初めて成立する。




