008 名前の輪郭
五時間目の国語の授業が終わると、教室は一気にざわつき出した。
午後の光が窓のカーテンをぼんやり透かし、机の上に柔らかな影を落としていた。
ミナトはまだ席を立たず、教科書を閉じることもなく、ただ静かに座っていた。
別に何を考えていたわけでもない。ただ、頭の中が水の底のように静まり返っていた。
前の席では、三人の女子がノートを見比べながら話していた。
「凪葉さんって、ほんとノートすごいよね。字もきれいだし、内容も見やすいし……なんか“几帳面”って言うのも追いつかないっていうか……ちょっと憧れる」
その名前が、ふいに耳に届いた。
──凪葉。
何気なく聞き流すはずだった会話の、その一語だけが、
まるで耳の奥に鋭く入り込んで、思考の流れを止めた。
ミナトは、視線を下げたまま、指先に力を込めた。
閉じかけていた教科書のページを、意味もなくめくる。
──凪葉。
その名前が、妙に心に残る。
単なる音のはずなのに、胸の内側をやわらかく撫でていくようだった。
名前を持たなかった誰かに、輪郭が与えられたような感覚。
中庭のベンチ。風に髪を揺らし、本を読んでいた少女。
静かで、遠くて、どこか透明な存在だったあの子に……“凪葉”という音が重なる。
顔を思い出す。
視線が一瞬だけ交わったときの、あの、言葉のいらない間。
「……座る?」
「……ここ、落ち着くよね」
あの短い言葉たちが、胸の中で何度も繰り返される。
まるで、それを裏付けるように“名前”が加わってしまったことで、
昨日までの曖昧な存在が、にわかに“現実の誰か”として、目の前に立ち上がってくる。
──凪葉。
どこか、風の音に似ていた。
誰の記憶にも残らず、でも確かにそこにある、静かな名。
その名前を、口に出すことはなかった。
けれど、ミナトは胸の内で、もう何度もその音を繰り返していた。
聞いただけのはずなのに、不思議と覚えて離れない。
それは、ミナトにとって――
“初めて名前を知った誰か”だった。
翌日。
昼休みの教室。
ざわめきの波が、天井の蛍光灯を揺らしているようだった。
ミナトは教科書を閉じ、ふと前方の列に目を向けた。
何気なく視線の先にいたのは、静かにノートを眺めている一人の少女──凪葉だった。
教科書を開いてはいるが、ペン先は止まっていた。
視線はページのどこにも焦点を結ばず、ほんの少しだけ、空中に浮いていた。
そのまま、彼女は小さく息を吐いた。
誰にも届かないくらいの、ため息。
肩がわずかに落ちる。
それだけの動きなのに、なぜか目を引かれた。
乱れた制服の襟を直すでもなく、机に置かれた筆箱のチャックを、ゆっくりと指先でなぞっている。
ぼんやりとした仕草──けれど、何かを堪えているようにも見えた。
別に、何かが起きているわけじゃない。
誰かにいじめられているわけでも、体調が悪そうなわけでもない。
でも。
……何かが、少しだけ、崩れているように見えた
ミナトは、胸の奥で言葉にならない感触を抱えたまま、視線をそっと外した。