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ことばにふれる  作者: こいくち
第一章 沈黙のなかの詩(ことば)
9/11

008 名前の輪郭

 五時間目の国語の授業が終わると、教室は一気にざわつき出した。

 午後の光が窓のカーテンをぼんやり透かし、机の上に柔らかな影を落としていた。


 


 ミナトはまだ席を立たず、教科書を閉じることもなく、ただ静かに座っていた。

 別に何を考えていたわけでもない。ただ、頭の中が水の底のように静まり返っていた。


 


 前の席では、三人の女子がノートを見比べながら話していた。


 「凪葉さんって、ほんとノートすごいよね。字もきれいだし、内容も見やすいし……なんか“几帳面”って言うのも追いつかないっていうか……ちょっと憧れる」


 


 その名前が、ふいに耳に届いた。


 


 ──凪葉。


 


 何気なく聞き流すはずだった会話の、その一語だけが、

 まるで耳の奥に鋭く入り込んで、思考の流れを止めた。

 


 ミナトは、視線を下げたまま、指先に力を込めた。

 閉じかけていた教科書のページを、意味もなくめくる。


 


 ──凪葉。

 その名前が、妙に心に残る。

 単なる音のはずなのに、胸の内側をやわらかく撫でていくようだった。


 


 名前を持たなかった誰かに、輪郭が与えられたような感覚。


 中庭のベンチ。風に髪を揺らし、本を読んでいた少女。

 静かで、遠くて、どこか透明な存在だったあの子に……“凪葉”という音が重なる。


 


 顔を思い出す。

 視線が一瞬だけ交わったときの、あの、言葉のいらない間。


 


 「……座る?」



 「……ここ、落ち着くよね」


 


 あの短い言葉たちが、胸の中で何度も繰り返される。

 まるで、それを裏付けるように“名前”が加わってしまったことで、

 昨日までの曖昧な存在が、にわかに“現実の誰か”として、目の前に立ち上がってくる。


 


 ──凪葉。


 


 どこか、風の音に似ていた。

 誰の記憶にも残らず、でも確かにそこにある、静かな名。


 


 その名前を、口に出すことはなかった。

 けれど、ミナトは胸の内で、もう何度もその音を繰り返していた。


 聞いただけのはずなのに、不思議と覚えて離れない。

 それは、ミナトにとって――

 “初めて名前を知った誰か”だった。










 翌日。


 

 昼休みの教室。

 ざわめきの波が、天井の蛍光灯を揺らしているようだった。


 


 ミナトは教科書を閉じ、ふと前方の列に目を向けた。

 何気なく視線の先にいたのは、静かにノートを眺めている一人の少女──凪葉だった。


 


 教科書を開いてはいるが、ペン先は止まっていた。

 視線はページのどこにも焦点を結ばず、ほんの少しだけ、空中に浮いていた。


 


 そのまま、彼女は小さく息を吐いた。

 誰にも届かないくらいの、ため息。


 


 肩がわずかに落ちる。


 それだけの動きなのに、なぜか目を引かれた。


 


 乱れた制服の襟を直すでもなく、机に置かれた筆箱のチャックを、ゆっくりと指先でなぞっている。

 ぼんやりとした仕草──けれど、何かを堪えているようにも見えた。


 


 別に、何かが起きているわけじゃない。

 誰かにいじめられているわけでも、体調が悪そうなわけでもない。


 


 でも。


 


 ……何かが、少しだけ、崩れているように見えた


 


 ミナトは、胸の奥で言葉にならない感触を抱えたまま、視線をそっと外した。



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