005 すれ違う静寂の中で
その日も、放課後は変わらなかった。
誰もが、当たり前のように誰かと話し、笑い、急ぎ足で廊下を駆けていく。
ミナトは教室の隅で静かに鞄を肩にかけ、席を立った。
目を合わせる相手もいないまま、教室を後にする。
扉の前には、何人かの生徒が立ち話をしていたが、ミナトが近づくと自然と道が空いた。
――たぶん、避けられているわけではない。
でも、話しかけられることも、きっとない。
いつものように廊下を歩き、階段へ向かう。
その途中、校舎の端にある旧図書室の前を通りかかったときだった。
ふいに、視界の端に、誰かの姿が映った。
扉の前で、うつむいて立つ人影。
その髪は肩よりも少し長く、黒に近い焦げ茶の色が静かに光を受けていた。
何かを考えているように、ほんの少しだけ眉が寄っている。
制服の袖を片方だけぎゅっと握りしめていた。
ミナトが足を止めたわけではない。
でも、その人影と自分の間を通り過ぎようとした瞬間――
小さな紙片が、ふわりと足元に落ちた。
その人影が手にしていたノートの隙間から、するりと抜け落ちたものだった。
反射的に、ミナトはかがんだ。
拾い上げたのは、折り目のついた、やわらかな手書きのメモだった。
「……」
何も言わず、ただ手を差し出す。
相手もまた、何も言わなかった。
けれど、こちらの手元を見て、一歩だけ近づいてきた。
そして、そっと紙を受け取った。
そのとき、ふと目が合った。
長いまつげの奥、静かな目。
深くて、波立たない湖のようなまなざし。
何も言葉は交わさなかった。
でも、ほんの一瞬だけ、互いの存在が触れ合った。
その人影――少女は、少しだけ会釈して、扉の向こうへ姿を消した。
ミナトはその場に数秒だけ立ち尽くし、そして、再び歩き出した。
手のひらには、もう何も残っていなかったはずなのに、
そこに微かに“あたたかさ”の輪郭が残っているような気がしていた。
扉の奥に、その少女はもういなかった。
音もなく閉まった扉の先からは、書架の匂いも気配も伝わってこない。
けれど、その空気の揺れだけが、わずかに廊下に残っていた。
ミナトは、少しのあいだ、その場を離れられずにいた。
別に、何があったわけでもない。
誰かと話したわけでも、名前を呼ばれたわけでもない。
ただ、紙を拾って渡した。
目が合った。
それだけのことだった。
けれど、なぜだろう――
その視線の奥に、まるで“沈黙の返事”のようなものを感じた気がした。
こちらの存在を、たしかに見ていた、という感覚。
「……気のせいか」
ぽつりとつぶやいた声は、小さすぎて誰にも届かなかった。
そのまま、階段を下りる。
古びた手すりに指先を滑らせながら、靴音を抑えるようにして一段ずつ。
下校する生徒たちの話し声が、昇降口の方からにぎやかに響いてきた。
誰かが笑い、誰かが名前を呼び、誰かが次の予定を語る。
その中に自分の名前が呼ばれることは、もちろんない。
でも、今日は――ほんの少しだけ、空気の密度が違っていた。
「……なんだろうな」
鞄の紐を握る手に、まだ微かにさっきの温度が残っている気がした。
あの紙片の手触りと、一瞬だけ重なった視線の記憶。
名も知らぬ誰か。
言葉も交わさなかった誰か。
その「誰か」のことが、なぜか、頭の片隅から消えなかった。
だからといって、何かを期待するわけでもない。
どうせ、明日にはもう忘れているだろう。
いつもそうだった。
少しでも何かを感じた気がしても、それはすぐ霧のように消えていった。
けれど――今日はなぜか、霧が晴れなかった。
昇降口の扉を押すと、春の風が顔をなでた。
淡い匂いが鼻をかすめ、制服の袖がふわりと揺れる。
空はまだ明るく、遠くの山影がうっすらとにじんでいた。
ミナトは、その風の中へ、一歩を踏み出した。
足元には変わらぬ通学路。
でもその景色が、ほんのわずかだけ、
昨日とちがって見えたような気がした。