004 空白という名前の時間
春の陽光は、あいかわらずやさしかった。
昇降口のガラス越しに差し込む光は、午前の授業を終えたばかりのざわつきを、
どこか穏やかに包んでいた。
けれどその光は、ミナトにとって、ただ“明るすぎる”だけの存在だった。
入学してから、一か月が経とうとしていた。
校内の掲示物にはもう見慣れた行事予定が貼られ、教室の壁には生徒たちが描いた「係決め」の表が整然と並んでいた。
誰がどの係に入ったのか、誰が中心になって仕切っているのか――
ミナトには、すべてが、他人事だった。
教室は、すでに「輪」をつくっていた。
自然と目が合い、言葉を交わし、笑いが生まれ、日々が重なっていく。
それが普通だった。
たぶん、それが、ここでの“生き方”なのだろう。
けれど、自分にはその輪が見えなかった。
そこに入る方法も、踏み出す理由も、わからなかった。
誰かが、最初の週に一度だけ話しかけてきたことがあった。
「ノート貸して」と言っただけだったけれど、
ミナトはその声にうまく返せず、曖昧に差し出しただけで終わった。
それきりだった。
次の日から、誰もミナトに言葉を向けてこなかった。
視線も合わなかった。
名前を呼ばれることも、挨拶を受けることもなかった。
“いないもの”として扱われることに、次第に慣れていった。
チャイムが鳴れば席に着き、ノートを開き、黒板の文字を写す。
質問されることはなく、関心を向けられることもない。
教師の言葉だけが、形式的に空を流れる。
それは“自分のため”のものではなかった。
ただ、教室にいる「集団」へ向けられた空中放送のようだった。
放課後の時間が近づくと、教室には活気が満ちてくる。
友達と待ち合わせの話をする声、スマホで撮った写真を見せ合う笑い声、
制服の袖をつかんで引っ張り合うじゃれ合い。
そのすべてが、ミナトの周囲を通り過ぎていった。
机の中に手を入れて、指先で紙の端を触れる。
触れたのは、先週配られた校内冊子。
特に読みもせずにしまい込んだままだった。
部活動の写真や、新入生歓迎のコメント。
そこには、色とりどりの“青春”が刷り込まれていた。
ミナトには、それが遠く、薄い霧の向こうにある絵のように見えた。
クラスの中で、すでにミナトは「話さない人」ではなく、
「話しかけない方がいい人」として扱われているのだと感じていた。
――変なやつ。
――近寄らないほうがいい。
――何を考えてるのか、わからない。
そんな“印象”が、いつのまにか教室に浸透していた。
否定する言葉は、喉の奥にあった。
でも、それを引き出す勇気も、理由も、なかった。
無理に声を出せば、何かが壊れる気がした。
壊した先に、手に入れたい何かがあるとも思えなかった。
ただ一つ言えるのは、
心のどこかが、確かにすり減っているということだった。
それでも、今日も教室にいる。
それだけは、まだやめられなかった。
チャイムの音が、空気を切り替える。
放課後。
教室の雰囲気は、ほんの数秒で“自由”の色をまとった。
椅子を引く音が重なり、立ち上がる気配が次々と交差していく。
「どこ寄る?」「部活って今日ある?」
そんな声が、いくつも飛び交う。
誰かが窓の外を指さして笑い、
誰かが後ろの席に振り向いて会話を続ける。
クラスというひとつの集合体が、ほどけながら別の形へ変わっていく。
その中心に、ミナトの姿はなかった。
彼は、騒がしさの波に背を向けるようにして、
静かに鞄を閉じた。
教科書とノートの角を丁寧にそろえ、チャックの音を立てずに閉める。
それは、誰にも気づかれないようにと心がける癖のようなものだった。
教室の出入り口近くでは、すでに数人が集まり、部活へ向かう話をしていた。
名前が飛び交い、笑いが響く。
そのすべてが、まるで別の世界の出来事のようだった。
ミナトはゆっくりと立ち上がり、
椅子を、軽く音が出ないように引き寄せて整える。
その動作を見ていた人はいなかった。
隣の席の誰かも、後ろの席の誰かも、もう他の話に夢中だった。
何も言わず、何も残さず。
ミナトは教室を後にした。
扉を引く音だけが、わずかに背中を押すように響いた。
廊下に出ると、蛍光灯の白さが目にしみた。
足音がいくつも交差し、別の教室からもざわめきが流れてくる。
ミナトは、それらをすべて通り過ぎる風景として受け取りながら、
ゆっくりと昇降口へ向かった。
途中、ひとり、すれ違った。
誰かの顔が、ほんの一瞬、ミナトの方に向いた気がした。
けれど、それが誰だったのか、確かめることはしなかった。
視線を逸らすこともなく、ただまっすぐ前を向いた。
昇降口に近づくにつれて、空気が外の気温に近づいていく。
春の名残を乗せた風が、ガラスの向こうで揺れていた。
その風の中に、自分の居場所があるとは思えなかった。
でも、他に行く場所もなかった。
ミナトは、靴を履き替え、誰にも気づかれずに扉を開けた。
そして、夕方の街へ――一人、歩き出した。