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ことばにふれる  作者: こいくち
第一章 沈黙のなかの詩(ことば)
4/11

003 名前と声のあいだ

 間島の声が、空気をひと撫でした。


 「じゃ、自己紹介いきますか。前から順に、軽くでいいから。名前と、趣味とか――どうでもいいことをどうぞ。緊張したら“カステラ好きです”って言っておけばOK」


 笑いが起きる。

 誰かが「それ先生やん」とツッコむ。

 教室全体が、まだ不安定な笑いに支えられている。


 


 前列の一人が立ち上がった。

 自己紹介の言葉は、まだぎこちない。

 けれど、どこかに「話さなきゃいけない」という責任感がにじんでいた。


 


 「えっと、〇〇です……よろしくお願いします」

 「ゲームが好きで……あと、猫飼ってます」

 「……バドミントン部に入るつもりです」


 


 声が順番に流れていく。

 名前が飛び、趣味が重なり、将来の夢がぽつりとこぼれる。


 けれど、それらはミナトの耳を素通りしていった。


 意味は理解できる。

 でも、何ひとつ記憶に留まらなかった。

 “関係ない”と、身体が無意識に仕分けていた。


 


 前の席で、誰かが立ち上がった気配がする。

 そのたび、椅子が軋む音と、呼吸の深さが変わっていく。


 


 ミナトはずっと座ったままだった。

 口を結び、前も横も見なかった。

 手は机の下で軽く組まれていたが、わずかに汗ばんでいた。


 


 次が、自分の番かもしれない。

 その可能性を、ずっと考えていた。


 


 けれど、言いたいことは何もなかった。

 言えることも、特に浮かばなかった。


 名前は……言えばいい。

 趣味? 好きなもの? ――そんなもの、思いつかなかった。


 


 教室の声の波が、だんだんと近づいてくる。


 「――よろしくお願いします」

 「……うん、ありがとう。じゃあ、次」


 


 心臓の音が、ほんのわずかに速くなる。

 肩の力が抜けず、視線は机の一点に釘付けになる。

 誰かの笑い声が遠くで聞こえる。

 けれど、それは全部、別の場所の出来事だった。


 


 「……次、お願いできるかな?」


 教師の声が、自分に向けられた。

 そのことに気づくまで、数秒の間があった。


 


 ミナトはゆっくりと立ち上がった。


 椅子の脚が、ごく小さな音を立てる。

 教室の視線が、うっすらと集まった気配がした。

 でも、そのどれもが目には入らなかった。


 


 「……御影……ミナトです」


 声は掠れていた。

 緊張ではなく、慣れていなさのせいだ。


 


 「趣味……は、特に……ないです。

 ……よろしく、お願いします」


 


 そう言って、すぐに座った。

 誰かが拍手した。"ルール"通り、他の生徒たちもそれに倣った。


 


 でも、それが自分に向けられたものだとは思えなかった。


 名前を言った。

 挨拶をした。

 ただ、それだけだった。


 


 そこにいたのに、いなかったような感覚。

 何も残らず、何も得ず。

 ただ、順番をこなしただけ。


 


 周囲の声がまた動き出す。

 次の誰かが立ち上がる。

 ミナトは再び沈黙に戻った。

 まるで最初から、誰にも見られていなかったように。



 自己紹介の最後の一人が挨拶を終え、間島が軽く手を叩いた。


 「よし、みんなおつかれさま。最初の関門クリアだね。

 ちょっと休憩してから、校内案内に行こう。水分補給も忘れずに」


 そう言うと、間島は教卓に置いたマグカップをひとくち啜り、

 「うん、ぬるい」とぼやきながら出ていった。


 


 扉が閉まり、教室の中に“自由”の空気が解き放たれた。


 


 あちこちで椅子が引かれる音。

 誰かが立ち上がり、誰かが声をかけ、数人が笑い合う。

 輪ができ、空気が跳ね、音が重なっていく。


 


 ミナトは、机に座ったままだった。

 背筋をまっすぐに、動かずに。


 


 机の上に置いたプリントは、まだ開かれていない。

 両手は膝の上、指先がほんのわずかに重なっている。

 目線だけが、教室の一点をただ見ていた。

 それは誰かではなく、壁のひび割れか、黒板の隅の白いチョーク粉か――そんなものだった。


 


 数人の生徒が前方で「部活どうする?」と話し出す。

 「運動部入る」「え、文化系でよくね」

 そのやりとりは、空気を少し明るくさせる。

 だが、ミナトの中では、ただの雑音だった。


 


 声が届いてこないのではない。

 ただ、意味が通らなかった。


 


 ふと、隣の席の生徒が立ち上がる気配がした。

 椅子が軽く軋んだ。

 だが、ミナトはその方向を見なかった。

 誰が座っているのかも、まだ知らない。知ろうともしない。


 


 誰も話しかけてこない。

 それが当然だった。

 むしろ、“それでいい”とすら感じていた。


 


 空気のなかに、自分の居場所はなかった。

 だから、探す必要もなかった。


 


 ――そうして、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。




 間島が再び教室に戻ってきたのは、休み時間が半ばを過ぎた頃だった。

 手にはまた別のプリントと、どこかで用意してきたと思しき地図の束。

 


 「よし、そろそろ校内案内いこうか。

 玄関のロビーに集合して、各所まわるよ。資料室とか、図書室とか、購買とか、トイレとか……うん、大事だよ、トイレ」


 笑いが起きる。

 それは少しだけ、さっきより自然だった。


 


 「じゃ、出発しまーす。全員そろってるか一応確認したら、廊下並んでねー。先生は後ろからついていくタイプの人です」


 


 教室がざわめきとともに立ち上がった。

 椅子の擦れる音、荷物を手に取る音、雑談の連鎖。

 誰かが「ねえ、一緒に行こうよ」と声をかけ、もう誰かがその輪の中にいた。


 


 ミナトも、机から立ち上がる。

 けれど、それは反射のようなものだった。

 何かを求めて動いたわけではない。

 ただ、「動くべきタイミング」だったから。


 


 自分のリズムではなかった。

 誰かの声に従っているわけでもない。

 けれど、取り残されるのはもっと嫌だった。


 


 廊下に出ると、すでに数人が並びはじめていた。

 前の方は、少しだけ騒がしい。

 


 ミナトは、その列の中ほどに紛れた。

 距離をとりすぎず、目立たず、会話に入らない位置。


 


 誰かが隣に立つ。

 でも、それが誰なのかは知らない。

 肩が少し触れたが、ミナトはわずかに避けた。

 謝るほどでもなく、無視するほどでもなく――ただ、距離を戻した。


 


 階段を降りる。

 体育館前を通る。

 玄関ホールの大きな掲示板が目に入る。

 でも、そのすべてはただの“風景”だった。


 


 「あ、これ購買の時間だって」

 「え、めっちゃ早く並ばないと無理じゃん」

 「パンすぐ売り切れるってさ」


 そんな言葉も届いていたが、意味を持たなかった。


 


 まわりは、すでに“この場所に生きて”いた。

 名前を呼び合い、笑い合い、少しずつ距離を縮めていく。

 その輪の外にいる自分を、ミナトはどこか透明なもののように感じていた。


 


 足音、声、光。

 それらすべてが、外の世界のもののようだった。


 


 けれど、歩みだけは止めなかった。


 それが、ここにいるという証明になるのなら。

 それが、まだ自分が“存在している”という証になるのなら。



 案内は、淡々と進んだ。

 体育館、図書室、保健室、購買、昇降口、職員室――

 どれも一度は通るはずの場所ばかりだった。


 


 説明を受けながら、クラスの生徒たちは少しずつ“顔見知り”になっていった。

 肩を並べ、何かを指さし、くだらない冗談で笑い合う。

 名前と声が結びつき、誰かが“他人”でなくなっていく。


 


 けれど、ミナトにとっては、すべてが風景だった。


 並んで歩くことはできる。

 説明を聞くふりもできる。

 けれど、そこに“意味”がなかった。


 


 まるで映画のセットのように、すべては“通り過ぎるだけの場所”だった。


 


 案内が終わると、間島が教室前で一言だけ声をかけた。


 「じゃ、おつかれさまでした。午後はホームルームやって、今日はそれで終わり。気持ちはもう帰り道でもいいよ。体だけ残してってね」


 また誰かが笑った。

 教室に戻る列は、案内の時よりも少しだけ“まとまり”を持っていた。


 


 ミナトもその一部として、流れるように教室に戻った。


 


 誰かが「疲れた」と言い、誰かが「どこに座る?」と尋ね、

 近くの席に再び腰を下ろす生徒たちのあいだに、自然な距離感が生まれていた。


 


 ミナトの席は、朝と同じ場所に残っていた。

 教室の中央より少し後ろ。

 目立たず、声も届きにくい位置。


 


 ミナトは静かに椅子を引いて腰を下ろした。

 誰とも視線を交わさず、鞄にも触れず、ただ机に手を置いた。


 


 隣の席には、すでに誰かが戻ってきていた。

 でも、その存在に目を向けることはなかった。

 ただ、気配として“誰かがいる”とだけ認識していた。


 


 教室の空気は少しずつ熱を帯びていく。

 座ったまま喋る者、立ち歩く者、配られたプリントを折って遊ぶ者。

 新しい場所で、誰かが“自分の居場所”を探していた。


 


 だが、ミナトは探さなかった。

 探せると思っていなかった。


 


 どれほど言葉が飛び交っても、

 どれほど名前が呼ばれても、

 そこに自分が含まれる気がしなかった。


 


 机の上の影だけが、静かに伸びていた。








 間島が再び教室に戻ってきたとき、すでに教室の空気は多少ほぐれていた。

 お喋りの声、プリントの紙音、椅子の軋み――

 不慣れながらも、この場所に「居る」ことに慣れようとする人々の音。


 


 「はいはい、注目〜。ホームルーム始めるよ。」


 間島は教卓の前に立ちながら、手に持った資料を見下ろす。

 その表紙には「新入生オリエンテーションまとめ」と書かれていた。


 


 「といっても、今日はもうほぼ終わり。授業は明日からね。いよいよ“学びの始まり”ってやつ。

 ま、授業が始まってからが本番だよ。寝ないようにね。特に国語のとき」


 


 いくつかの笑いが起きる。

 誰かが「自分で言うんだ」とつぶやいた。


 「来週からは学力調査とか身体測定とか、あと係や委員決めも始まります。

 今のうちに“やりたくない雰囲気”を出すと逃げ切れる可能性ありです、たぶん」


 


 また笑い。

 けれど、ミナトは笑わなかった。

 教卓をぼんやりと見ていた視線は、プリントが配られ始めたことで机へと落ちた。


 


 隣から回ってきたその紙は、ただの一枚きりの連絡表だった。

 明日の持ち物と登校時刻、昼食の注意、校内施設の使用ルールなど。


 特別なことは何も書かれていない。

 でも、それでもミナトの中には何も浮かばなかった。



 「部活の案内は、たぶん明後日くらいに貼り出されます。興味ある人は、見てみてね。

 もちろん、入るのは自由です。ただし、張り切りすぎて“掛け持ち8個”とかはやめとこうね。たぶん体が先に退部する」


 教卓の前で、間島は少しだけ眼鏡を押し上げた。

 「ちなみに僕は部活顧問じゃないから、誰にも誘導しません。強いて言うなら帰宅部寄り。

 ……いやちがうな、コーヒー研究会? 部員一人だけど」


 


 場の空気が和らぐ。


 


 だが、その温度はミナトには届かなかった。

 教室全体が柔らかく動いている中で、彼だけが静止しているようだった。


 


 「じゃ、今日はこれで終わり。おつかれさまでした。

 帰る前に忘れ物ないように。あと、机にゴミ置いてく人は、明日先生にモテなくなる呪いかけます」


 


 ざわざわと椅子が引かれ、立ち上がる音があちこちで響いた。


 声が飛び、名前が呼ばれ、約束が交わされる。


 


 ミナトはゆっくりと立ち上がり、鞄の中にプリントを滑らせた。


 


 何も話さず、何も聞かず。

 ただ、それだけだった。

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