003 名前と声のあいだ
間島の声が、空気をひと撫でした。
「じゃ、自己紹介いきますか。前から順に、軽くでいいから。名前と、趣味とか――どうでもいいことをどうぞ。緊張したら“カステラ好きです”って言っておけばOK」
笑いが起きる。
誰かが「それ先生やん」とツッコむ。
教室全体が、まだ不安定な笑いに支えられている。
前列の一人が立ち上がった。
自己紹介の言葉は、まだぎこちない。
けれど、どこかに「話さなきゃいけない」という責任感がにじんでいた。
「えっと、〇〇です……よろしくお願いします」
「ゲームが好きで……あと、猫飼ってます」
「……バドミントン部に入るつもりです」
声が順番に流れていく。
名前が飛び、趣味が重なり、将来の夢がぽつりとこぼれる。
けれど、それらはミナトの耳を素通りしていった。
意味は理解できる。
でも、何ひとつ記憶に留まらなかった。
“関係ない”と、身体が無意識に仕分けていた。
前の席で、誰かが立ち上がった気配がする。
そのたび、椅子が軋む音と、呼吸の深さが変わっていく。
ミナトはずっと座ったままだった。
口を結び、前も横も見なかった。
手は机の下で軽く組まれていたが、わずかに汗ばんでいた。
次が、自分の番かもしれない。
その可能性を、ずっと考えていた。
けれど、言いたいことは何もなかった。
言えることも、特に浮かばなかった。
名前は……言えばいい。
趣味? 好きなもの? ――そんなもの、思いつかなかった。
教室の声の波が、だんだんと近づいてくる。
「――よろしくお願いします」
「……うん、ありがとう。じゃあ、次」
心臓の音が、ほんのわずかに速くなる。
肩の力が抜けず、視線は机の一点に釘付けになる。
誰かの笑い声が遠くで聞こえる。
けれど、それは全部、別の場所の出来事だった。
「……次、お願いできるかな?」
教師の声が、自分に向けられた。
そのことに気づくまで、数秒の間があった。
ミナトはゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が、ごく小さな音を立てる。
教室の視線が、うっすらと集まった気配がした。
でも、そのどれもが目には入らなかった。
「……御影……ミナトです」
声は掠れていた。
緊張ではなく、慣れていなさのせいだ。
「趣味……は、特に……ないです。
……よろしく、お願いします」
そう言って、すぐに座った。
誰かが拍手した。"ルール"通り、他の生徒たちもそれに倣った。
でも、それが自分に向けられたものだとは思えなかった。
名前を言った。
挨拶をした。
ただ、それだけだった。
そこにいたのに、いなかったような感覚。
何も残らず、何も得ず。
ただ、順番をこなしただけ。
周囲の声がまた動き出す。
次の誰かが立ち上がる。
ミナトは再び沈黙に戻った。
まるで最初から、誰にも見られていなかったように。
自己紹介の最後の一人が挨拶を終え、間島が軽く手を叩いた。
「よし、みんなおつかれさま。最初の関門クリアだね。
ちょっと休憩してから、校内案内に行こう。水分補給も忘れずに」
そう言うと、間島は教卓に置いたマグカップをひとくち啜り、
「うん、ぬるい」とぼやきながら出ていった。
扉が閉まり、教室の中に“自由”の空気が解き放たれた。
あちこちで椅子が引かれる音。
誰かが立ち上がり、誰かが声をかけ、数人が笑い合う。
輪ができ、空気が跳ね、音が重なっていく。
ミナトは、机に座ったままだった。
背筋をまっすぐに、動かずに。
机の上に置いたプリントは、まだ開かれていない。
両手は膝の上、指先がほんのわずかに重なっている。
目線だけが、教室の一点をただ見ていた。
それは誰かではなく、壁のひび割れか、黒板の隅の白いチョーク粉か――そんなものだった。
数人の生徒が前方で「部活どうする?」と話し出す。
「運動部入る」「え、文化系でよくね」
そのやりとりは、空気を少し明るくさせる。
だが、ミナトの中では、ただの雑音だった。
声が届いてこないのではない。
ただ、意味が通らなかった。
ふと、隣の席の生徒が立ち上がる気配がした。
椅子が軽く軋んだ。
だが、ミナトはその方向を見なかった。
誰が座っているのかも、まだ知らない。知ろうともしない。
誰も話しかけてこない。
それが当然だった。
むしろ、“それでいい”とすら感じていた。
空気のなかに、自分の居場所はなかった。
だから、探す必要もなかった。
――そうして、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。
間島が再び教室に戻ってきたのは、休み時間が半ばを過ぎた頃だった。
手にはまた別のプリントと、どこかで用意してきたと思しき地図の束。
「よし、そろそろ校内案内いこうか。
玄関のロビーに集合して、各所まわるよ。資料室とか、図書室とか、購買とか、トイレとか……うん、大事だよ、トイレ」
笑いが起きる。
それは少しだけ、さっきより自然だった。
「じゃ、出発しまーす。全員そろってるか一応確認したら、廊下並んでねー。先生は後ろからついていくタイプの人です」
教室がざわめきとともに立ち上がった。
椅子の擦れる音、荷物を手に取る音、雑談の連鎖。
誰かが「ねえ、一緒に行こうよ」と声をかけ、もう誰かがその輪の中にいた。
ミナトも、机から立ち上がる。
けれど、それは反射のようなものだった。
何かを求めて動いたわけではない。
ただ、「動くべきタイミング」だったから。
自分のリズムではなかった。
誰かの声に従っているわけでもない。
けれど、取り残されるのはもっと嫌だった。
廊下に出ると、すでに数人が並びはじめていた。
前の方は、少しだけ騒がしい。
ミナトは、その列の中ほどに紛れた。
距離をとりすぎず、目立たず、会話に入らない位置。
誰かが隣に立つ。
でも、それが誰なのかは知らない。
肩が少し触れたが、ミナトはわずかに避けた。
謝るほどでもなく、無視するほどでもなく――ただ、距離を戻した。
階段を降りる。
体育館前を通る。
玄関ホールの大きな掲示板が目に入る。
でも、そのすべてはただの“風景”だった。
「あ、これ購買の時間だって」
「え、めっちゃ早く並ばないと無理じゃん」
「パンすぐ売り切れるってさ」
そんな言葉も届いていたが、意味を持たなかった。
まわりは、すでに“この場所に生きて”いた。
名前を呼び合い、笑い合い、少しずつ距離を縮めていく。
その輪の外にいる自分を、ミナトはどこか透明なもののように感じていた。
足音、声、光。
それらすべてが、外の世界のもののようだった。
けれど、歩みだけは止めなかった。
それが、ここにいるという証明になるのなら。
それが、まだ自分が“存在している”という証になるのなら。
案内は、淡々と進んだ。
体育館、図書室、保健室、購買、昇降口、職員室――
どれも一度は通るはずの場所ばかりだった。
説明を受けながら、クラスの生徒たちは少しずつ“顔見知り”になっていった。
肩を並べ、何かを指さし、くだらない冗談で笑い合う。
名前と声が結びつき、誰かが“他人”でなくなっていく。
けれど、ミナトにとっては、すべてが風景だった。
並んで歩くことはできる。
説明を聞くふりもできる。
けれど、そこに“意味”がなかった。
まるで映画のセットのように、すべては“通り過ぎるだけの場所”だった。
案内が終わると、間島が教室前で一言だけ声をかけた。
「じゃ、おつかれさまでした。午後はホームルームやって、今日はそれで終わり。気持ちはもう帰り道でもいいよ。体だけ残してってね」
また誰かが笑った。
教室に戻る列は、案内の時よりも少しだけ“まとまり”を持っていた。
ミナトもその一部として、流れるように教室に戻った。
誰かが「疲れた」と言い、誰かが「どこに座る?」と尋ね、
近くの席に再び腰を下ろす生徒たちのあいだに、自然な距離感が生まれていた。
ミナトの席は、朝と同じ場所に残っていた。
教室の中央より少し後ろ。
目立たず、声も届きにくい位置。
ミナトは静かに椅子を引いて腰を下ろした。
誰とも視線を交わさず、鞄にも触れず、ただ机に手を置いた。
隣の席には、すでに誰かが戻ってきていた。
でも、その存在に目を向けることはなかった。
ただ、気配として“誰かがいる”とだけ認識していた。
教室の空気は少しずつ熱を帯びていく。
座ったまま喋る者、立ち歩く者、配られたプリントを折って遊ぶ者。
新しい場所で、誰かが“自分の居場所”を探していた。
だが、ミナトは探さなかった。
探せると思っていなかった。
どれほど言葉が飛び交っても、
どれほど名前が呼ばれても、
そこに自分が含まれる気がしなかった。
机の上の影だけが、静かに伸びていた。
間島が再び教室に戻ってきたとき、すでに教室の空気は多少ほぐれていた。
お喋りの声、プリントの紙音、椅子の軋み――
不慣れながらも、この場所に「居る」ことに慣れようとする人々の音。
「はいはい、注目〜。ホームルーム始めるよ。」
間島は教卓の前に立ちながら、手に持った資料を見下ろす。
その表紙には「新入生オリエンテーションまとめ」と書かれていた。
「といっても、今日はもうほぼ終わり。授業は明日からね。いよいよ“学びの始まり”ってやつ。
ま、授業が始まってからが本番だよ。寝ないようにね。特に国語のとき」
いくつかの笑いが起きる。
誰かが「自分で言うんだ」とつぶやいた。
「来週からは学力調査とか身体測定とか、あと係や委員決めも始まります。
今のうちに“やりたくない雰囲気”を出すと逃げ切れる可能性ありです、たぶん」
また笑い。
けれど、ミナトは笑わなかった。
教卓をぼんやりと見ていた視線は、プリントが配られ始めたことで机へと落ちた。
隣から回ってきたその紙は、ただの一枚きりの連絡表だった。
明日の持ち物と登校時刻、昼食の注意、校内施設の使用ルールなど。
特別なことは何も書かれていない。
でも、それでもミナトの中には何も浮かばなかった。
「部活の案内は、たぶん明後日くらいに貼り出されます。興味ある人は、見てみてね。
もちろん、入るのは自由です。ただし、張り切りすぎて“掛け持ち8個”とかはやめとこうね。たぶん体が先に退部する」
教卓の前で、間島は少しだけ眼鏡を押し上げた。
「ちなみに僕は部活顧問じゃないから、誰にも誘導しません。強いて言うなら帰宅部寄り。
……いやちがうな、コーヒー研究会? 部員一人だけど」
場の空気が和らぐ。
だが、その温度はミナトには届かなかった。
教室全体が柔らかく動いている中で、彼だけが静止しているようだった。
「じゃ、今日はこれで終わり。おつかれさまでした。
帰る前に忘れ物ないように。あと、机にゴミ置いてく人は、明日先生にモテなくなる呪いかけます」
ざわざわと椅子が引かれ、立ち上がる音があちこちで響いた。
声が飛び、名前が呼ばれ、約束が交わされる。
ミナトはゆっくりと立ち上がり、鞄の中にプリントを滑らせた。
何も話さず、何も聞かず。
ただ、それだけだった。