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ことばにふれる  作者: こいくち
第一章 沈黙のなかの詩(ことば)
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002 声が届く距離

 教室の前方――すでに教壇の横には、背の高い男性が立っていた。

 白いシャツに紺のジャケット。片手には、やけに重そうな書類の束。もう片方の手には、大きなマグカップ。

 


 そのカップには「こくご」――と、筆で書かれた文字が、微妙に傾いて印刷されていた。

 彼は書類を机に置きながら、ちらりと生徒たちの方を見て言った。


 

 彼は教壇に立つと、開口一番、こう言った。


 「おはよう。みんな、まだ緊張してるね? わかる、うん。僕も緊張してる。

 なんてったって……今日この場に立つために、朝シャツを裏返しで着てきました。気づいたのがさっき。泣きたい」


 数人が笑い、誰かが「え、マジ?」とつぶやいた。

 実際、シャツのタグは首元から少し覗いていた。


 


 「はい、というわけで、そんな残念な教師が担任になりました。間島って言います。

 専門は国語。だけど日常会話は苦手。人間関係は全編ルビ付きじゃないと読めません」


 前列から再び笑いが起きた。


 ミナトは反応しなかった。

 ただ静かに、視線を机の表面に落としていた。

 誰かが笑っていることはわかる。でも、自分の輪郭には関係ない。


 


 「じゃあ、名簿の確認してくね。名前呼ばれたら“はい”だけでいいよ。

 “はい!”って元気に言えた人は、えらいねシールあげます」


 教室がざわつく。

 でも、間島は淡々と名を読み始めた。

 時折、読みづらい漢字に詰まりながら、わざとらしく咳払いする。


 


 「えー……これは、なんて読むのかな。ん? “ありす”? “ありがね”?」


 前の席から誰かが笑いながら手を挙げた。

 「はい」と小さく言うと、間島は「あ、そう! やっぱ“ありす”か。惜しい」と満足げにうなずく。


 


 ミナトの心には、何も波が立たなかった。

 たしかに目の前では何かが起きている。

 けれど、それは教科書のページをただめくるような感覚だった。


 


 名前が呼ばれるたびに、教室の中の誰かが声を返す。

 その一つひとつが、音としてはっきり届いてくるのに、

 誰一人として“存在”として輪郭を持たなかった。


 


 まるで自分だけが、ここに“置かれて”いるような感覚。


 


 そして、自分の番が来た。


 「……御影みかげミナト」


 一拍の間。


 「……はい」


 抑えた声だった。

 誰かがこちらを見る気配はなかった。

 教師も、とくに何も言わず、次の名前を呼んだ。


 


 すべては流れていく。

 名前も、笑い声も、温度も。

 ただそこにいて、何も掴めないまま、時間だけが過ぎていった。



 名簿の最後の名前が呼ばれ、出席確認は一応の終了を迎えた。

 教師の間島は、胸ポケットから折りたたまれた紙を取り出して、教卓にぽんと置いた。


 


 「よし。じゃあ、ちょっとだけ話すね。話すけど、聞かなくても生きていけます。

 でも、聞いておいた方が三年間くらい損せずに済みます。あくまで個人の感想です」


 前の席の何人かが、また小さく笑った。


 


 「まず、みんな――入学おめでとう。ほんとに、よく来てくれました。

 今日この日を、私はちゃんと覚えてます。だいたい三日くらいは」


 また笑いが漏れる。

 だが、ミナトはまばたきの間隔すら変えず、机の表面の木目を見つめていた。


 


 「不安なこと、あると思う。でも、誰も“全部わかってる”人なんていないから。

 知らないままで、ちょっとずつ慣れていけばいい。

 このクラスは、“失敗していいクラス”にしたいと思ってます。

 ……もちろん、提出物だけは失敗しないでね」


 


 プリントが配られ始めた。

 教壇から降りた間島先生が各列に用紙を渡していく。


 「はい、それ、今日の予定表ね。」


 手元に回ってきたプリントを、ミナトは無言で受け取った。

 受け取る際に誰の顔も見ない。

 紙の角を整えて、机の隅に置いたまま開こうともしなかった。



 「今日の流れとしては――自己紹介、校内案内、ホームルーム、で、解散。

 ちなみに自己紹介は苦手でも大丈夫。僕も自分のことはあまり喋りたくない。

 好きな食べ物はカステラです、って言っとけば無難です」



 周囲ではすでにざわつきが始まっていた。

 「マジか、自己紹介あるの?」「え、もう?」

 そんな声が、あちこちから飛び交う。


 


 ミナトは、なにも言わなかった。

 紙を開いてもいないのに、すでにその予定に圧倒されているような、

 あるいは、もうすべてを“遠くの風景”のように見ているような。


 


 誰かが近くで深呼吸した音がした。

 誰かの椅子がきしんだ。

 教室の空気は、だんだんと「ひとつの集団」に向かっていく。


 


 だが、ミナトはそこに溶け込まなかった。


 どれほど明るい声が飛び交っても、

 どれほど軽口がかわされても、

 そこにあるのは、ただ“音”だった。

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