001 式のはじまり
前方の幕が、音もなくゆっくりと開いた。
照明が少しだけ落とされ、
壇上に立つ人物の姿が、ゆるやかな光に浮かび上がる。
拍手が、まばらに起きた。
その音は遠く、壁に吸い込まれるようだった。
ミナトはただ、両手を膝に置いたまま、反応を見送っていた。
壇上の中央に立つのは、教頭らしき人物だった。
声は落ち着いていて、抑揚もあったが、どこかよそよそしい。
「――みなさん、入学おめでとうございます。
今日から、みなさんは東雲高校の一員です――」
静かな祝辞が、ホールに響いていく。
けれど、ミナトの中には何も届いてこなかった。
背筋を伸ばして話を聞く生徒もいれば、
眠そうに目を伏せている生徒もいる。
それらの間にいる自分の姿が、どこにもはっきりと存在していないような気がした。
“ここにいてはいけない”とまでは思わない。
ただ、“ここにいる理由がない”という感覚があった。
壇上の言葉は、淡々と続いていく。
「新しい日々」「未来を切り拓く」「仲間たちと共に」――
そのひとつひとつが、どこか絵に描いたように遠い。
言葉は届いてくるのに、意味だけが抜け落ちていく。
ふと、ホールの空気が微かに変わった気がした。
誰かの視線が横をすべったような、
あるいは風がどこかで逆流したような感覚。
ほんのかすかな、それでも確かな異変。
だが、顔を動かす理由にはならなかった。
誰かが隣に座った気配がした。
椅子が軽くきしみ、衣擦れの音がかすかに響いた。
でも、ミナトはそちらを見なかった。
見ればまた何かが動いてしまいそうで、目を向けられなかった。
壇上の声が、式の終わりを告げようとしていた。
「――それでは皆さん、今日からの三年間を、大切に……」
再び、まばらな拍手。
誰かが手を叩く音の中に、自分の掌の温度が、まるで他人のもののように思えた。
幕が閉じた。
世界が、ひとつ静かに区切られた気がした。
それが“始まり”なのだと誰かが言ったとしても、
ミナトの胸の中では、まだ何も始まっていなかった。
椅子が、一斉に軋む音を立てた。
式が終わったことを知らせるのは、
壇上の言葉でも、閉じた幕でもなく、
生徒たちが席を立つ、ざわついた気配の方だった。
どこかで笑い声が上がった。
隣同士で話しながら立ち上がる生徒たち。
教室の案内を確認している声。
これから始まるクラスでの生活に向けて、
彼らの歩みは、自然に未来へと傾いていた。
ミナトは、少しだけ遅れて立ち上がった。
どこに向かえばいいか、わからないわけではなかった。
入学資料の中に、自分の教室番号はきちんと記載されている。
でも、身体はすぐには動かなかった。
空になったホールの空気が、どこかで変質していく。
人のいない席が増えるにつれて、
照明の光が、少しずつ自分の輪郭を際立たせていくような錯覚。
気づかれないように歩いていたのに、
今はむしろ、取り残されることで目立ってしまう――そんな危うさ。
隣の席は、いつの間にか空いていた。
いつ、誰がそこに座っていたのか、気づかないままだった。
視線を向けることさえできなかった。
けれど、不思議と、座っていた“誰か”の余韻だけが、微かに残っていた。
誰かと並んで座っていたという、それだけのことが、
思いのほか、深く胸に残っていた。
人の流れに背を向けないように気をつけながら、
ゆっくりと歩き出す。
右足からだったのか、左足からだったのか、自分でも覚えていない。
出口へ向かう途中、いくつかの会話が耳に入る。
「ねー同じクラスだったらよかったのに」
「担任誰だろうねー」
「プリントどこやったっけ?」
どれも他愛ない会話。
でも、そこには“交わし合うこと”そのものへの安心があった。
ミナトの手は、鞄の端をぎゅっと握ったままだった。
少し力を入れていないと、
歩いている実感すら曖昧になりそうだった。
ホールの扉を抜けると、朝より少し暖かくなっていた。
空の青は変わらない。
だけど、自分の中の空気だけが、まだ春に追いついていなかった。
教室の扉は、半分だけ開いていた。
廊下から差し込む光が、床に薄く影を落としている。
その先にある空間からは、すでにいくつかの声が聞こえていた。
誰かが笑っていた。
誰かが名前を呼んでいた。
教壇のあたりでは、担任らしき教員が配布物の確認をしている。
ミナトは、ドアの前で一度だけ足を止めた。
深呼吸はしない。ただ、目を伏せる。
無意識のうちに、視界の情報を減らそうとしていた。
足元に目を落としたまま、教室に入る。
床のタイルが、わずかにきしむ。
その音が、自分だけを浮かび上がらせるように思えた。
壁際の席が、ぽつぽつと埋まっていた。
窓際はもう誰かが座っている。
教壇から遠く、できるだけ目立たない席を探す。
選んだのは、廊下側のいちばん後ろ――誰にも背中を見られない場所。
鞄を静かに置く。
椅子を引く音ができるだけ小さくなるように、ゆっくりと動かす。
腰を下ろすとき、背筋が自然に丸くなった。
そうすることで、少しだけ周囲から遠ざかれるような気がした。
教室は、ざわめいていた。
新しい名前、新しい顔、新しい関係。
その全部が、互いを探り合うように、入り混じっていた。
だが、その波の中にミナトは入らなかった。
誰も話しかけてこない。
誰の目も合わない。
それは、安心であり、同時に空白でもあった。
教室の窓の外では、桜の花が静かに揺れていた。
枝先にわずかに残った色が、風にちぎれて流れていく。
数列前の席で、誰かが名前を呼ばれて返事をしていた。
その声は明るかった。
それを受けて、小さく笑う声が返された。
その輪の中には入れない。
入り方も知らない。
知らないふりをすることだけが、ミナトにできる唯一の術だった。
足元に置いた鞄のファスナーを、ゆっくりと開く。
何を取り出すわけでもない。
ただ、何かをするふりをしているだけだった。
席についてから、まだ一度も周囲を見ていないことに気づいた。
名前も、顔も、誰一人としてわからない。
この空間に自分がいるという実感も、いまだ曖昧なままだった。
教室の空気は、あたたかかった。
なのに、ミナトの指先だけが、どこか冷たかった。
教室は、落ち着く様子を見せなかった。
入学式を終えたばかりの空気がまだ冷めきらず、
ざわざわとした声の波が、天井に反響していた。
「てかさ、さっきの話マジで……」
「え、まじで同じクラス!?やば!」
「担任だれ?……えー、あの先生?」
聞きたくなくても耳に入ってくる声たち。
音として届くのに、意味だけが通り抜けていく。
ミナトは、席に座ったまま身じろぎもせずにいた。
机の上には何も置いていない。
ただ、両手を膝の上で組み、まばたきの間隔をいつもよりゆっくりにする。
周囲には、すでに小さな集団ができつつあった。
早くも連絡先を交換している者たち。
中学からの知り合いを見つけてはしゃぐ者たち。
声が重なるたび、室温が上がっていくような錯覚。
なのに、ミナトのまわりだけが、奇妙に空いていた。
声はあるのに、届かない。
熱はあるのに、触れない。
彼は、何も思っていないふりをしていた。
誰にも期待していないように、
誰にも興味がないように、
その空間の一部に溶け込もうとさえしなかった。
ただ、視線だけは、ときどき宙をさまよった。
黒板の方へ。
天井の照明へ。
開いた窓の外に伸びる木の枝へ。
そのどれにも、意味はない。
意味がないことを繰り返すのは、
意味のあることを見つけてしまうのが、少しだけ怖いからだった。
背中越しに、笑い声が弾けた。
誰かがふざけて椅子を引いた音。
誰かの机が、床を引きずる音。
それらはまるで、自分と関係のない世界の言語のようだった。
この空間にいても、自分は誰の記憶にも残らない。
そう確信するには、まだ少し、耳が良すぎた。