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ことばにふれる  作者: こいくち
第一章 沈黙のなかの詩(ことば)
1/11

000 朝、扉の前で

 目覚ましは、とっくに鳴り終わっていた。


 時計の針は、午前七時二十二分。

 入学式の集合時間までは、まだ少し余裕がある。


 それでも、俺はベッドから起き上がれなかった。


 ふとんの中にいるあいだだけは、なにも考えなくていい。

 息をひそめて、ただ静かに時間が過ぎてくれるのを待つような朝。


 カーテンの向こうで、春の光がにじんでいた。

 明るすぎる空だと思った。

 まるで、今日という日を祝福しているかのように。


 ……そんなの、俺のためじゃない。


 身体を起こしても、胸の奥は重いままだった。


 


 制服に袖を通す。

 着慣れない布が、肩に違和感を残す。

 カバンに詰められたプリントたち。使い慣れないスマートフォン。真新しいノート。


 すべてが“これから”を期待しているようで、

 だからこそ――息が詰まる。


 俺は、もう一度深く息を吐いた。


 


 玄関の扉の前で立ち止まる。


 何も言わずに家を出る。

 誰にも声をかけられない。

 母も、今はもう仕事に出ている。


 あの部屋に誰もいないのは、慣れている。

 ……でも、たまに、無性にこたえる。


 言葉がなくてもいいと思っていた。

 誰にも干渉されないほうが楽だと信じていた。

 でも――

 心のどこかでは、たった一言でも、

 「いってらっしゃい」とか、「がんばって」とか、

 そんな言葉を待っていたのかもしれない。


 


 靴を履く。

 玄関のドアノブに手をかける。

 扉は、少しだけ重たく感じた。


 踏み出せば、もう戻れない。

 そう思ったのは、きっと過去に置き去りにしたものが、まだどこかに残っているからだ。


 


 俺は、深く、ひとつ息を吸ってから、

 音を立てないように扉を開けた。


 そして、誰もいない朝の街に、足を踏み出した。



 足音だけが、やけに大きく響いていた。

 左右に広がる住宅街の並木が、風に小さく鳴っている。


 誰かとすれ違っても、会釈はない。

 誰かの話し声が聞こえても、それが俺に届くことはない。

 登校中のこの道は、ずっと昔から、俺一人の道のようだった。


 


 坂をのぼるたびに、呼吸が浅くなる。

 制服の襟が、少しずつ首を締めていく。


 新しい世界。

 新しい日々。

 誰もがそんな言葉に、期待をかけて歩いているのかもしれない。


 でも、俺にはそれがわからない。


 


 花壇の前で立ち止まって写真を撮っている生徒がいる。

 電柱に寄りかかって談笑しているふたり組がいる。

 何気ない光景のすべてが、自分の輪郭を薄くしていく。


 混じれない。

 届かない。

 触れようとすれば、どこかで軋む。


 


 俺は、それを表情に出さず、ただ足だけを動かした。


 こうしている限り、何も壊れない。

 こうしていれば、誰にも見つからない。


 


 校門まで、あと少し。


 その先で何が待っているかは知らない。

 知らなくていいとも思っていた。


 ただ静かに、何事もなく過ぎていけばそれでいい。

 それだけを願って、足を止めないようにした。


 


 誰かと目が合いそうになるたび、視線を逸らす。

 誰かの笑い声が耳に触れるたび、少しだけ深く息を吸う。


 風は優しかった。

 でも、その優しさすら、うまく受け取れなかった。



 校門が見えた。


 坂の上、朝の光を受けて、鉄の扉が静かに開かれていた。

 その奥に広がるのは、よく整えられた石畳と、左右に並ぶ薄桜の並木。

 風が吹きぬけるたびに、枝先がわずかに揺れる。


 入口の脇に立てられた看板には、「東雲高等学校 入学式会場はこちら」と書かれていた。

 白い布地に黒い筆字。誰かが丁寧に書いたものだ。

 けれどその文字も、何も言ってくれない。


 


 校門の前で、足が止まる。

 別に立ち止まろうと思ったわけじゃない。

 ただ、身体が自然に動かなくなっただけだった。


 


 ここをくぐったら、もう後戻りはできない。

 そういう場所が、世の中にはたしかに存在する。

 言葉では説明できないけれど、何かが変わる感触だけは、確かにある。


 門の手前に立っている今が、その境界だった。


 


 すでに通り過ぎていく生徒たちは何人もいる。

 誰も迷わず、足を止めることなく進んでいく。


 それが“普通”だ。

 自分が異常なんだと、自分でよくわかっている。


 


 どうして、こんなにも怖いのか。

 どうして、何もしていないのに、心臓だけが痛むのか。


 その理由を、もう考えるのはやめた。


 


 そっと目を伏せ、ゆっくりと歩を進める。


 片足が、石畳の上に降りた。


 その瞬間、背中のどこかで、空気がわずかに反転したような気がした。

 振り返っても何もない。

 ただの気のせい。

 ただの、風だったのかもしれない。


 


 門をくぐった。


 誰に見られるでもなく、誰と並ぶでもなく、

 誰の期待にも触れないまま、ただ一人で境界を越えた。


 


 ここから始まるものに、何も期待はしていなかった。

 ただ、壊れなければ、それでよかった。


 それだけを胸の奥に沈めて――

 俺は、東雲高校の敷地に足を踏み入れた。



 門をくぐったあと、

 石畳の道は校舎の正面へとまっすぐ伸びていた。


 敷地の奥に見えるのは、白いホール棟。

 半円の屋根とガラス張りの壁が、朝の光を静かに反射している。

 入り口の前では、職員らしき数人が名簿を片手に立っていた。


 その先に進むのが当然のように、

 誰もが迷いなく歩いていく。


 


 足元の舗装はよく手入れされていた。

 左手には低い花壇、右には新入生歓迎の立て看板。

 すべてが「始まりの光景」を整えている。


 けれど、その中を歩く自分だけが、

 なぜか異質なものに思えた。


 


 誰とも目を合わせないように、

 できるだけ静かに、呼吸の音すら殺すようにして歩いた。


 すれ違った男子生徒が、小さく笑いながら振り返った気がして、

 少しだけ肩をすぼめる。

 それが自分に向けられたものではないと分かっていても、

 胸の奥が、わずかに冷える感覚は止められなかった。


 


 校舎のガラスに、ふと自分の姿が映った。


 髪の跳ね方。無表情。中途半端な立ち方。

 何もかもが「間違っている」ように思えた。


 制服は正しく着ている。

 持ち物も揃えてある。

 それでも、見た目に映る“この人間”が、

 本当にここにいていいのかどうか、分からなかった。


 


 ホール前に到着すると、職員のひとりが無言で名簿を指差した。

 表の端に、自分の名前を見つけて、軽くうなずく。

 何かを言うべきだったかもしれないが、声が出なかった。


 それでも、職員は気にする様子もなく、別の生徒に視線を移した。


 


 ガラスのドアが開く。


 音はなかった。

 その無音が、かえって耳に重く響く。


 


 ホールの中は、すでに半分ほどの席が埋まっていた。

 座席の列が等間隔に並び、天井からは白い照明がやわらかく落ちている。


 静けさの中に、遠くざわめきがある。

 誰かの名前を呼ぶ声、椅子を引く音、足音。

 けれどそのどれもが、自分からは遠い。


 


 なるべく目立たない席を選んで、そっと腰を下ろした。


 深く息を吐く。

 どこにも居場所がないと感じながら、

 それでも“今いるこの椅子”だけは、まだ誰のものでもなかった。


 


 入学式の開始まで、あと少し。


 壇上にはまだ誰も立っていない。

 正面の幕は閉じたまま。

 隣の席には、まだ誰も来ていなかった。


 


 このまま、何も始まらなければいいと――

 心のどこかで、そう願ってしまう自分がいた

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