あの日
人が死なないとしたら、新陳代謝が進まない。先が詰まり、生きる意味をなくして腐っていく。いまでも徳川将軍がいて、どこかで卑弥呼様がひっそりと暮らしていたりする。循環していくためには、何かを手放さなければならない。保てるものには限りがある。
わたしも生きている限り排泄をする。出たものは、一旦わたしの身体を離れ、下水管を通って地球へと還っていく。
容量の小さいスマートフォンから大きなクラウドにデータを移すようなもので、私の身体で保ちきれないものは、地球に預けておく。また回り回って私の身体に戻ってくる。
たまたま智紀の身体は地球に預けられたのだ。
事故だった。友だちと旅行に行くのだと言って出て行ったきり帰ってくることはなかった。
ちょうど全国ニュースにもならないほどの規模でひっそりと訃報が流れた。
葬儀は智紀の学生時代の友人も多くかけつけ、粛々と行われた。友人たちには微妙に温度差があり、最新の智紀を知っている者ーー概ね大学の友人ーーは、人目を憚らずに泣いたりしていた。高校やそれ以前の者たちは、自分がちゃんと悲しめているかどうかを確かめるように、静かに偲んでいた。
みんな自分が智紀にとっての何番めだったのかを推し量るように、感情のフェーダーを調節していたように思う。
私とて例外ではなかった。近親よりも悲しんではいけない。鳥取旅行もこの中の誰かーー女かもしれないーーと行ったのだ。最後は私とじゃなかった。
場は、みな初めて体験する“身近な同世代の死”への緊張と高揚で満ちていた。彼らは今後ことあるごとに不幸自慢の“とっておき”として智紀のことを話に持ち出すのだろう。
わたしは慎ましく泣いた。
智紀のことがあって(という体のいい自分への言い訳を得て)大学に行かなくなった。ほかの同級生と同様に身近な死に酔った。ほかの人と違うのは、半年の間アパートから殆ど出ず、智紀と暮らした部屋でこの自己陶酔を独り占めしたというところだ。そして留年が決定し、わたしは大学を辞めたのである。
智紀の死を、母に打ち明けることがどうしてもできなかった。打ち明けることは背負わせることだ。同情もされたくなかったし。
大学を辞めたことが、両親の知るところとなり、わたしは実家に呼び戻された。それが1年前のことだ。どうして勝手に辞めたのか、半年の間何をしていたのか、なんで相談しなかったんだ、変な仕事をしてたんじゃないか、わたしが想定していた言葉をあらかた言い尽くした父は、納得のいく説明をしてもらおうか、と言った。母は泣いている。
半年間、悦に入っていたなどと言ったところで納得するわけがない。そもそも何を言おうと納得してもらえるはずもないのだ。
「彼氏がいて、いつも楽しいところに連れて行ってくれるから、学校に行くのが厭になった」
できるだけあほっぽく言った。呆れられるかとも思ったが、ちゃんと、めちゃくちゃ怒られた。一口に怒ると言っても、父は怒鳴れない質で、いつもよりも少しドスの効いた低い声で一つ一つ問いただすといった具合。それでも、その男を連れてこい、と言わないのが父の為人を表しているような気がする。
母は、怒りよりも悲しさが先行するタイプで、悔しい、わたしは悔しいのよと言って泣き続けた。
「しんどくなったら京都帰ってきてもええねんで」
東京に戻るとき、母は言った。この半年間のことを思った。それから、母が泣いていた姿を思い出した。また目元がじんわりした。
「大丈夫。もうちょっと向こうおるわ。彼も居てるし」
涙が伝わないように、母の背後の鞠を見ながら気丈に振る舞った。
「彼の名前なんて言うん」
母は、これが最後の質問、と言わんばかりの顔でこちらを見た。
わたしは少し考えてから、「トモキ」と答えた。
京都駅、新幹線プラットホーム。16時の空は夜に向かってじりじりと陽を動かしている。夕日に焼けた鰯雲が、眼の下を緩くさせる。よわい。




