無責任
迫田さんと会うのは2カ月ぶりだった。ガッコウを辞めてから、ちょくちょく会っている。
迫田さんは、丈の長い薄グレーのコートを纏い、半年くらい前から見るようになったどっしりとした革靴を履いて現れた。前回よりも頬のあたりが痩けているように見える。
新年の挨拶もほどほどに、飾らないイタリアンに入った。口座にお金は無事入金されており、なんとかドタキャンせずに済んた。オーナーが7日まで海外に行っており、振り込めなかったのだという。よかった。よくないけど。
お互い駆けつけ一杯のビールを乾かし、ピザや生ハムを2切ずつ つつきあったところで迫田さんが丸まった背筋を伸ばす。迫田さんは、本題を話すときに姿勢を正す。
「好きなひとができて」
「えっ」
普段より高い位置から声が届いた。呆気にとられたわたしは、変な発声をする。
「どこの人なんですか」
息を吐き、改めて聞き直す。
迫田さんは照れ隠しに上唇を丸めて、
「高校の同級で。おなじクラスになったことなかったんだけど、成人式から、会うようになって」
と、犯行を供述する容疑者のように言葉を尽くしている。まじめな人。普段は抽象的な言葉を好む迫田さんが、事実だけを探して、紡ぐ。感情の余地があると恥ずかしいんだと思う。とりとめのなさが可笑しい。
思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、
「よかったじゃないですか」
と言う。言って、自分の声にぞっとする。また嫉妬が滲んでいた。注意して聴かなければ悟られないほどの滲みで、迫田さんが気づくは様子ない。しかし、私は気づいてしまった。
付き合ったり、またはそれに準ずることは何もないのに、嫉妬心を抱くことがある。恋心と取り違えやすいこの感情。気をつけてきたつもりだったのに。
「でも、何もないんだよね」
迫田さんは続ける。
「何も」
「先月、水族館に行ったんだけど」
水族館。私とはそういうところに行かないのに。
「水槽の前、顔とかすげえ近くて」
「まあ、水族館ですからね」
「人混みで裾とか掴んできたりして」
「まあ、人混みですからね」
不毛。
「何かお揃いのものでも買う? とか訊いてきて」
「好きじゃないですか、その子も。迫田さん」
「でも夕方には何の後腐れもなく帰って行くんだよ。俺的には、晩ごはんとかも一応考えてたんだけど」
「小悪魔ですね」
「ニッタちゃんとなら、何の気も遣わずにこうやって夜食べれるのに」迫田さんが言う。
「ちょっとは気い遣ってください」
と、今度は滲むこともなく、冗談が言えた。
やっぱりさっきのはたまたま起こった不具合だったんだ。
「迫田さんは寂しくなることってないんですか」
引っかかりのある言葉を投げる。さっき変な気持ちにさせた仕返しだ。
「そりゃあるよ。いまも寂しいもん」
「わたしと飲んでるのに寂しいんですか」
「違う、違くて」
「あっそうですかー」
いじけてみせる。
迫田さんは、慌てた素ぶりで、
「そうじゃなくて。でもニッタちゃんとだったら絶対いい夫婦になれると思うんだよね」
「誰がですか」
「俺だよ」
「さっきの好きな子どこ行ってん」
無責任なやりとり。責任を持たないことは、相手への介入権限がないことと同義だ。
例えば、明日迫田さんに彼女ができたとしても、わたしには「よかったじゃないですか」と言って、少し疎遠になることしかできない。
また反対に、わたしに彼ができたとしても、迫田さんに「遊びだったのか」とか「ひどい女だ」などと言う資格はなく、飲み友達の名簿から、名前を薄くすることがやっとだろう。
だからお互いこうやって痛くないジャブを打ち合って、時間いっぱいまで、今日も。なんと怠惰な関係だろう。
智紀に対してはそんなことしなかった。正確にいえば、させてもらえなかった。強烈なパンチを打ち込んできたわけではない。智紀は、私が引いた境界線から浸み出してくるように入ってきて、不確かなものにした。すぐに不安にさせられた。
境界線が曖昧になると、寄る辺なく、私は智紀の方にもたれかかり、智紀は柔らかく受け止めてくれた。
智紀と一緒に暮らすまでは、好きという気持ちは思い込みだと思っていた。みんな「なんとなくいいもの」に名前をつけて、暗示をかけているのだと。
そのくせ、“運命の人”を待ち焦がれる自分もいた。はっきりと、これが恋なんだということを知りたかった。溺れてみたかった。
それが智紀と暮らして、「違和感のない感情」を見つけた。この違和感のない感情が、好きということなのであれば、ナツキや迫田さん、あるいはもっとほかの人に対する感情は、それとはまるで別のものだ。
でも、智紀はいなくなったのだった。何になるでもなく、ただ、いなくなった。
いなくなってからは、心がぽっかりと空いて、満たされなくなった。郊外によくある、コンビニだった名残のあるテナントみたいに、虚しさだけが形になって佇んでいる。




