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もう一度恋をはじめるまで  作者: 晴後くもり


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13/14

砂丘へ

 取り返しのつかないことをしたくなったのだ。


 中野駅からいつもは乗らない中央線快速に乗り込む。乗車率120%の電車は、ドア付近のスペースが寿司詰め状態になっている。さらにロングシート前のスペースにも三列、つまり吊り革に掴まる列と列の間にもう一列ができている。私は新宿駅での乗降の波に押されて、その真ん中の列に紛れていた。


 吊り革の握り方には個性が出る。鉄棒で言うところの順手で掴む者、逆手で掴む者、指先だけで掴む者、手首を通して引っ掛ける者、三角の山のてっぺんを鷲掴みにする者。


 そういえば、私はむかし背の低い子どもだったーーいまもそれほど高い方ではないけれどーー。吊り革に手を伸ばしても届かないのがもどかしかった。背が伸びてくると次第に、爪先が擦り、指の腹が届き、指先で掴めるようになった。いまでは多少肘を曲げても手のひらで掴めるようになっている。初めて吊り革に手が届いた時、胸がいっぱいになったのを鮮明に記憶している。


 いま私の前にはスーツ姿の若者ーーと言っても私よりは年上だろうーーが背中を丸くして立っている。若者は、吊り革を両手で祈るようにして握っている。祈るような、贖うようなその姿がなぜか目に焼き付く。


 新宿、四ツ谷を経て、中央線快速は御茶ノ水駅に停車。ほどなくして発車した。私はこの日、御茶ノ水では降りなかった。


 御茶ノ水駅は、中央線と総武線がちょうど枝分かれする駅。いつも乗っている総武線とは違うルートへと抜けていく。秋葉原ではなく、神田方面へと舵を切り、終点の東京へと向かった。


 新幹線の中から蛯沢さんには連絡を入れた。


《今日はお休みさせてください》


 蛯沢さんは何かを察してくれたのか《こっちは大丈夫だから、ゆっくりしておいで》と言ってくれた。つくづく人に恵まれていると思う。


 新幹線のぞみ65号で新横浜、名古屋、京都、新大阪、新神戸、姫路。


 せっかくなら同じ名前の“ひかり”に乗っていきたかったけど、ひかりだと暗くなる前に着かないんだって。中途半端だねひかり。


 海側の座席だったので、小田原あたりでは海が見えた。熱海、湯河原、真鶴半島。家々が連なる先に海はあった。


 新幹線の車窓から眺める景色が好き。でも、なんでもないのに、鼻の中がじんとしてきて、泣きそうになる。泣きそうになる自分もちょっと好きなんだ。


 姫路から山陽本線に乗り換え、7番線発播州赤穂行で相生、乗り継いで上郡を目指す。上郡からはスーパーいなば7号に乗り、鳥取まで。着いた頃には曇っていたせいもあり、薄暗かった。


 智紀はあの日、京都から高速バスで行くのだと言っていた。そして砂丘に行く、ラクダに乗るとも。


 今月払うはずの家賃を使って、来れるところまでやってきた。片道約2万円。宿代と帰りの切符を考えても、あと5万円以上ある。やっぱり家賃高いなあ。


 駅前で今夜の宿を探す。電車の中でやっておけばよいものを。電車は電波が不安定だから、予約できていなかったり、二重に予約してしまったりしそうで怖いと思っているところがある。どこまでもアナログな私。


 駅からそう遠くはないところに位置する、表示された中から3番目に安い宿をとった。畳間のゲストハウス。こういう時に豪勢にリッチホテルを選べない、スケールの小さい人間です。


 明日は美味しいものを食べよう、と思い、今日のところは部屋で、コンビニのおにぎりとスープはるさめで済ませる。


「こんなところまで来てくれたんだ」


 うるさい贋物。


「そんなものまで持って……」


 自分でも何やってるんだろうとは思う。


「明日、会えるといいなあ。海辺で」


 贋物の声を聞こえなかったふりをして、布団に潜り込んだ。


 幼い頃、掛け布団の中に幽霊が入ってくるんじゃないかとよく不安になった。唯一の幽霊対策は、できるだけ掛け布団と敷布団の間に隙間を作らないようにすることだった。両足を器用に使って布団を密閉したが、次第に眠くなってそのまま眠りに落ちた。そんなことをふと思い出した。


 今日は掛け布団に少し隙間を持たせて眠る。



 朝食はお手本のような和食だった。鮭の塩焼き、卵焼き、納豆、焼き海苔、しば漬け、白ごはん。箸の先で鮭の身をほぐし、水分多めに炊き上げられた白ごはんと一緒に口へ運んでいく。


 実家ではパン食で育てられたので、和朝食にはあまり馴染みがない。


 和食は頭を使う。パンなら何も考えずに口の中へ放り込めば済むのだが、和食はそうはいかない。ご飯とおかずのペース配分から、魚の骨を取る所作にまで気を配らなければならない。毎日は到底できそうもない。でも今日くらいは。


 パリパリに焦げた鮭の皮までいただいて、ちょっとした達成感をもって食事を終えた。


 砂丘まではバスが出ていた。後ろの方の窓側の席を選んで座る。ちょうど右後輪の上にあたる座席だ。タイヤがある分、足の位置が高くなるこの席は、体育座りのように小さくなれるので好んで座る。できるだけ世界に対して小さく居たい。昔そのことをナツキに話すと、ちょっとわかると言ってくれた。智紀は「変なの」と言ったっけ。


 智紀の声を思い出すと血が湧いてしまいそうになる。ぐっと抑えて目を閉じる。



 「砂丘会館(鳥取砂丘)」で降りると、砂丘があった。砂漠のようにもっと砂一色なのかと思っていたけれど、思いの外あちこちに草木が生えている。


 本格的な砂丘のエリアに踏み入っていく。観光客はまばらにいて、各々好きな方へ歩いている。ラクダの乗馬(乗駱駝?)体験をしている者もいる。半径10メートルほどの範囲をぐるりと周って記念撮影をする流れのようだ。ちょっとがっかり。どうせ乗るなら砂丘をあちこち歩き回ってオアシスを探したい。


 ラクダに乗らずとも、オアシスは簡単に見つかった。日本海である。バス停側を背にずんずんと歩き続けると一気に視界が開けて驚いた。そういえば鳥取って海に面していたのだっけ。


 向こう岸は見えない。いま足元に打ち寄せている波は、どこへ帰っていくのだろう。遠くの揺蕩う水面を眺めていると、いま私が抱えているもやもやを全て包みこんでまるごと攫ってくれそうな気がする。


「山に来ると何かをもらえるような気がして、海に来ると何かを捨てられるような気がするんだよなあ」


 昔、智紀が言っていたことだ。智紀自身はラジオか何かで聴いた受け売りらしいんだけど。


 ここでいっか。


 リュックの奥から透明のビニール袋を取り出し、固く縛った口を開く。


 中身は部屋の隅々まで掃いて集めた智紀の残滓だ。正確には部屋中の塵と埃をかき集めてビニール袋に詰めてきたのだ。これを智紀の痕跡と捉えるかどうかは気持ちの問題だけど。


 海辺は風が強くて、袋ががさがさと揺れる。ただの塵埃なのに……。飛ばされないようにぎゅっと握り直す。


 受け取ってよ。


 袋の底を持って逆さにすると、あっという間にはらりと散って見えなくなった。あまりにもあっけなかった。


 ちゃんと全部持って帰ってな。



薄っすらとしか思い出せない、濃くて淡い思い出たち。


何をしたか、何があったかなんて、

姿かたちさえ、

もう薄っすらとしか思い出せないのに。

その時の感情だけが未だ心に濃く残る。

淡い思い出たち、あまりにも淡い恋だった。



 帰りの電車でナツキにメッセージを送る。せっかくだし新大阪で降りて、このセンチメンタルな気持ちを発散させたい。


《どしたん急に。帰ってきたん》

《ちょっと勢いで砂丘まで行ってきたわ》

《バイタリティすごいなあ。じゃあ、どっか飲みに行く?》

《うん、今日は奢るわ。どこでもいいよ》

《気前ええなあ。じゃあお好み焼きでも予約しとくわ》


 こうして私はこの感傷旅行センチメンタルジャーニイに区切りをつけたのである。


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