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もう一度恋をはじめるまで  作者: 晴後くもり


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12/14

風が吹けば桶屋が儲かる

 3日続けて中央線が遅れている。感覚的にテレビで著名人の自死が報道されると、ダイヤが乱れやすい気がする。生活者一人一人の胸がざわつくと、それぞれの不安な気持ちが滲みだす。それはやがて不穏な空気となり、空気はうねりとなって、社会全体を呑み込むのだ。


 空が曇っているからか、窓から見える景色が薄暗く感じる。凹凸を感じないので目が滑っていく。



 迫田さんが店に来た。14時頃のことである。もちろん店に来るのは初めてで、なによりアポ無しで来たことに驚いた。


 風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話で、社会の不穏な空気が迫田さんになにかしら影響を与え、普段はしない行動を取らせたのかもしれない。桶屋は私。


 今日のゆうcafeは、朝から閑古鳥が鳴いており、12時-13時のピークでもお客さんがほとんど来なかった。蛯沢さんは「今日はダメだね」と言い、その後食材の仕入れに出ていた。


「仕事の打ち合わせがあって。そういえばこの辺で働いてるって言ってたから」


 迫田さんはいつものように、事実を言い訳のようにして紡ぐ。もう会えないかもしれないということが過ぎった後だったから、嬉しくてこみ上げてくるものがある。


「場所わかりづらかったでしょ」


 感情を悟られまいとナツキみたいに“あっさり”訊く。こういう時にもっと甘えた声を出せたら、きっと大事にされるんだろうな。そういうことができる女の子を私はたくさん知っている。


「Googleマップに店の名前入れたら、最初埼玉が出てきたから焦ったよ」


 迫田さんはスマートフォンの画面を見せながら白い歯を光らせる。彼は歯並びがいいのだ。鼻筋もスッと通っていて背も高い。容姿に関して言えば、いちばんタイプだったりする。


「そうなんですよ。検索しても埼玉とか鹿児島とか出てきて。うち弱小なんで」


 迫田さんは着ていた丈の長いコートを脱いで隣の席の背もたれに掛ける。どうやら前回のことや前回を受けてしばらく間が空いたことに対して、私にわだかまりがなさそうだと感じ取ったみたい。


 私が「何にしますか?」と訊くと、「じゃあ、いつもの頼むよ」なんて。いつもの調子が出てきた。「いや、来るの初めてじゃないですか」と私が言い、二人で笑った。



「だから私マスターじゃないですって」


 さっきから迫田さんが私のことをマスター呼びしてくる。


「マスター美味しいよ。このパスタ」

「マスターお水もらってもいい?」

「マスターは聞き上手だなあ」


 マスターって言いたいだけじゃないですか。というじゃれ合いも楽しい。


 しかし、迫田さんは本当にたまたま近くに来たから寄っただけなのだろうか。


 今日をきっかけにまた二人で飲みに行くようになるのだろうか。それとも、またしばらく疎遠になってしまうのだろうか。


 喫緊、私たちの間で解消しなければならないもやもやがある。目を背け続けてきた感情と二人の関係性について。期待の余地がある孤独な日々は堪えるよ。


「マスターはさ、最近飲みに行ったりしてるの」


 迫田さんが一歩踏み込んできた。


「いや、全然ですよ。迫田さんは」


「俺もあんまり。ニッタちゃんは彼氏とかできてないの?」


 気兼ねなく聞いてくる。


 私は首を振りながら返す刀で

「迫田さんこそ、最近彼女とはどうなんですか」

と聞いてしまった。


 迫田さんは一瞬天井を見上げてから、向き直って「結婚するんだよね」と言った。照れ臭いような、申し訳ないような、そんな表情だった。


 そうか、これを言いにきたのか。


 腑に落ちたと同時に、私も照れ臭いような、申し訳ないような、そんな気持ちだった。


 この言葉を聞いた時、私はどこかほっとしていた。もし「別れたんだよね」と言われても、二人のこれからの展開について、まるで想像できなかったからである。迫田さんとどうにかならなきゃいけないのは、きっと難しい。


 後から淋しくなって、辛くなるんだろうけど。


 きっと思っている以上に脆い関係性だったのだ。儚くも甘いこの曖昧な関係は終わりを迎える。やっと二人の間に名前をつけられる。


ーーただの先輩後輩。あるいは友達。あるいは、他人。



 迫田さんが帰った後は風向きが変わったのか、4組ほど続けて来たので忙しく働いた。帰りの中央総武線は、まだダイヤの乱れを引きずっていたが、大きく遅れた電車が従来通りの間隔でやって来るので、乗車に支障はなかった。


 外気との差で少し曇った窓の外を眺めながら、今日の出来事を一つ一つ思い出す。


 電車のダイヤが乱れていたこと。ゆうcafeは閑古鳥が鳴いていたこと。迫田さんがやってきたこと。迫田さんは彼女と結婚するのだということ。ただの先輩後輩。あるいは友達。あるいは、他人。


 その時私は気づいてしまった。私と智紀の関係について。


 ーー同居人。最後の恋人。あるいは、他人。


 私は智紀にとって何者でもなかった。



 それから数日が経っても、智紀との関係が他人だと気づいたことが、ふとした時に痛む。紙で切った傷みたいに、見た目にはわからないほどの傷口に、薄っすらと濃くて淡い血が滲む。


「私は、他人だった?」


「そんなわけないよ。大切な人だったよ」


 贋物が言う。ううん、本当は贋物なんていない。私が勝手に言わせてるだけ。


 私と智紀とのつながりは何もなかった。具体的な関係もない、証もない。もらったものもない。一緒に暮らして私が勝手に舞い上がっていただけで、智紀は恋人とも思っていなかったのかもしれない。今となっては知る術もない。


 寝ているとき、胸がぼんやりと空いたような感覚になることがある。熟睡できず、痺れる。胸の輪郭を失う。


 智紀はいい意味で“パッとしない”奴だった。“パッとしない”にいい意味なんてないと言われそうだが、彼の中には言葉では言い表せない不思議な魅力があった。実際、モテた。言葉にすると、優しい雰囲気とか、どこか品があるとか、色気の原石が眠っているようだとか、やっぱり凡庸でパッとしない。


 わかりやすい魅力は代替可能なのだ。逆にわかりにくいから離れがたい。本当に大切なものが何かわからないまま手放してしまうのが怖くて。


 折り畳み傘を綺麗に畳むところも、ご飯を食べるときの一口が大きいところも、子どもみたいな寝息をたててぐっすり眠るところも全部好きだったのだ。


 ベッドを降りて硬いフローリング上に寝そべる。転がると膝や背骨、骨盤なんかの骨張ったところが床に圧されて痛い。ごろりと一回転してから仰向けになって天井をぼんやりと見つめる。


 木の木目がだんだん顔に見えてきたり、鳥に見えてきたり、骸に見えてきたり、安定しない。次第に境目は曖昧になると、波紋が広がるときのように視界が揺らぐ。吸い込まれそうになる。吸い込まれて、そこは暗闇のなかの生温かい世界。ずっとこの中に居たいような気がしてくる。でも現実はそれを許さない。命がある限り、この世界からは逃げ出せない。


 温かいものが顔の側面を伝う。


 熱い涙なんて言うけれど、熱い想いがある時に流す涙は、頰が紅潮しているため伝う涙は冷たく感じる。逆に、不安で心細くてこのまま消えてしまいたいと思ったりするときは、頬の血の気が引いているので、涙はむしろ温かく感じる。


 智紀はいなくなった。ナツキや迫田さんは近いうちにどこか遠くへ行ってしまうだろう。父や母だって、すぐ祖母のように私のことを忘れてしまう。この世界に私の証人はどこにもいない。


 みんなは私のことをどんどん忘れていくのに、きっと私はいつまでも忘れられずに、死んだ後も怨念のようにこの世に留まり続けるんだろうな。


 あるのは空間を持て余した6畳二間の賃貸アパートだけ。ひろいひろい、硬いフローリングのこの部屋だけ。


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