仏教について
仏教には一切皆苦という言葉がありますが、一方で一切皆空という言葉もあります。結局一切は苦なのか空なのかどっちなんだよ、とツッコミたくなるかもしれませんが、これは主観、客観の視点の違いによって答えが変わって来るという事でしょう。つまり主観的に見れば、滅び去る運命を背負った肉体への執着を捨てきれない生は畢竟苦しまねばならず、客観的に見れば生の苦しみすらも実は存在しないので一切は空虚である、という事です。
そう考えていくと客観的な物の見方を身に付けて「自分の苦しみも他人にとっては何でもないんだな」と悟る事ができれば苦しまなくて済みそうな気がしてきますが、そううまくもいきません。実際に火に焼かれながら「この苦しみも他人にとっては何でもないんだな」なんて悠長な事を言える人はまずいないでしょう。彼にとって熱いもんは熱いんであって、全人類が反対意見を唱えようが誰が何と言おうと彼にとって「熱い」というそれだけが唯一無二で絶対の真理であり、とにかく恥も外面も捨ててもがき回って現状を打破する事が地球の存亡よりも遥かに重大な事であり、他の事は何もかもどうでも良くなってしまいます。
これに対して野次馬が「どうせ死ぬのにあんなにもがき回って馬鹿だなあ」と嘲笑った所で、彼だって生きながら火にくべられてみれば同じことをするに決まっています。かのブッダも凄まじい苦行をやってみて途中で止めてしまいましたが、恐らくブッダは「どうやっても苦しいもんは苦しい」という事に気付いて、完全に主観を捨てる事は無理だと悟ったのだと思います。結局、「人間は主観を捨てる事はできない」というスタート地点に立った上で、なるべく客観的な物の見方を身に付けるようにするのが人間に出来る精々という事なんでしょう。快楽や幸福で一時的に誤魔化す事はできても、結局死ぬまで苦しみから逃れる事はできません。
ではもういっその事みんなで自殺して、苦しみしかないこんな世界からはとっととオサラバしてしまった方がいいような気もしてくるかもしれませんが、ブッダはそのような事は言っていませんし、ブッダ自身が死病に犯された時も自殺する事なく、苦しみながらも自然に死んでいきました。今に伝わる仏教もよっぽどのカルトでも無ければ自殺を推進しているという感じでもありません。仏教はニヒルな事ばかり説いている厭世的な宗教のように見えて、その実、逆説的に生を称揚しているような所があります。ブッダは生を苦しみだと知っていながら、生を全うした。この事実こそが仏教の根幹ではないかと私は思っています。ニーチェは仏教を指して「宗教というより衛生学である」と評しましたが、さもありなんという感じです。
では何故ブッダは生を全うしたのか。それはまあよくわからないのですが、色々考えていくといいかもしれません。死に執着したくなかったからとか、最後まで客観を目指し続けたとか、苦しみを見つめ続けたとか、色々考える事はできるでしょう。まあそうやって色々と考えていくことが重要なんだと思います。