5.女神の祝福
「パパ? 親子か!?
貴様、自分でオランピアを刺しておいて、娘に罪をなすりつけるつもりか!?」
若者がカタリナと公爵を見比べ、わけがわからないまま公爵に突っかかる。
「小僧、たわけたことを!」
公爵は憤激して、若者に向かって叫ぶ。
若者は「彼女を離せ!」と叫びながら、オランピアを膝に抱いた公爵の背を蹴った。
「なにをするッ
ナターリアの命が危ないのがわからんのか!?」
公爵はオランピアを守るように、身を丸めて耐える。
なんだこのカオス、と、さすがのカタリナも一瞬気が遠くなった。
なぜ高級娼婦の私邸で、国一番の金持ち公爵である自分の父が、血まみれの女を膝に抱えて、どこの誰ともわからない若造に蹴飛ばされているのだ。
やおらジュリエットが進み出た。
「ステエエエエイ!!」
その声に、強烈な「威圧」が乗る。
実はジュリエット、稀少な光属性魔法を使える上、魔力も計測不能と言われているほど多いのだ。
とっさに公爵とカタリナは防御陣を張ったが、若者、そしてユーグと侍女は軽く吹き飛ばされてしまった。
「たくもー! 大怪我してる人がいるのにッ」
ぷりぷりと怒りながら、ジュリエットはぐったりしているオランピアのそばにかけよって膝を突く。
「今、助けるからね!」
ジュリエットは、首の傷を挟むように女の頬と肩に手のひらをあてがった。
「女神の祝福!」
白く輝く魔法陣の展開は一瞬。
思わず眼を閉じてしまうほどのまばゆい光が溢れ、女を包み、吸い込まれていくように消える。
「よし! 傷はふさがりました!
でも、失血はどうしようもないので、お医者さんをなる早で呼んでください!」
きぱあっとジュリエットは言う。
「は?」
驚いた公爵が間の抜けた声を漏らしながら、おそるおそる手を外した。
オランピアの手がぱたりと落ちたが、確かに出血は止まっている。
「な、ななななんだ!? この婦人は!?」
ぶったまげた公爵は、カタリナに訊ねてきた。
「貴族学院で同期だったジュリエット・ピノー夫人。
いわゆる『フォルトレスのピンク髪』『野生の男爵令嬢』ですわ」
仏頂面でカタリナは答えた。
今の名ではわかるまいと、社交界にデビューしたての頃、大騒動をあっちこっちで引き起こした頃のあだ名も告げておく。
「あー……神殿が三拝九拝で聖女に迎えようとしたのに、振り切って嫁いでしまった令嬢か。
いやはや、かたじけない。
貴女がいなければ、到底ナターリアの命は助からなかった。
ジュリエット夫人、このグイード、心から感謝する!」
公爵はジュリエットに深々と頭を下げた。
「ちょうど居合わせてよかったです!」
えへっとジュリエットが照れ笑いする。
普段は狷介不羈な父が、誠心誠意他人に頭を下げている姿を、カタリナは眼を細めて眺めた。
というか、父のこんな姿を見るのは生まれて初めてだ。
ひょっとすると母だって見たことがないかもしれない。
「お父様、とにかく医者を」
「そ、そうだな」
公爵は懐から懐中時計を取り出すと、竜頭をカチリと押し込んで口元へあてがった。
「アドバン、怪我人が出た。
傷は魔法で塞いだが、かなり失血している。
至急、医者を呼んでくれ」
<承りました>
懐中時計から執事の声が響く。
王族や上位貴族の一部のみが所有する、近距離なら音声通信ができる魔道具だ。
乗ってきた馬車に、執事を待たせていたのだろう。
それから、公爵とジュリエットは2人がかりでオランピアを寝椅子に移した。
傷はふさがったとはいえ、まだ真っ青だし、素人目にも呼吸が浅く、苦しげだ。
ジュリエットが付き添って手を握り、少しずつ魔力を流し込んで魔力と体液の循環を助けてやる。
「あまり身体が冷えないようにした方がいいかもですね。
あと、お水が飲めたら飲んだ方がいいですけど、しばらくは無理かな……」
オランピアを介抱する2人を遠巻きに見ていたカタリナは、廊下でぐったりしていた侍女を起こした。
今夜、ここを訪れた者は他にいなかったのかと訊ねると、つい眠り込んでしまったので知らないと言う。
カタリナが内心舌打ちしながら、とにかく水と着るものを用意するよう言いつけると、侍女は、おろおろと階段の方へ向かおうとした。
「なにをしているの。
バスルームは隣でしょ?
風呂に入ってたようだから、着替えもそっちに用意してるんじゃないの?」
現場となった部屋の右側にある、半開きになっているドアを指す。
ドアの向こうの床はタイルだ。
「あ、あ、ああああ……は、はい」
慌てて侍女はバスルームに向かう。
どうも危なっかしいので、カタリナもついていった。
扉を抜けると、右手がボウルが2つ並んだ洗面所。
その奥の仕切りの向こうはトイレか。
正面は脱衣所ということなのか、作り付けの棚の前に小ぶりな寝椅子が置いてある。
左手に、半開きになったままの、すりガラスの引き戸。
中をチラ見してみると大人三人は余裕で入れる大きさの、ぱかりと開いた帆立貝の貝殻のような形をした巨大な浴槽が鎮座していた。
裸になって浴槽の真ん中に立てば、名画「愛の女神ヴェヌーシアの誕生」ごっこができそうだ。
湯は溜まったままで、なにやら良い香りもしている。
よく見ると、脱衣所のタイル張りの床には濡れた足で歩いた跡がまだ残っていた。
浴室には窓があり、一部は開いているが、鎧戸は閉ざされている。
行儀が悪い気もしたが、踏み込んで調べてみると、鎧戸はすべてロックされていた。
振り返ると、侍女はガタガタと震える手で脱衣所の籠の中に用意されていたタオルと部屋着を何度も何度も数えて確かめていた。
主人の流血沙汰でパニックを起こしているようだ。
侍女は40がらみ。
左の薬指にくすんだ指輪をしているから、結婚もしているはずだ。
小娘でもないのにもうちょっとなんとかならないのかと思いつつ、侍女に衣類を籠ごと持っていくよう急き立て、水差しやら洗面器やらは自分で用意すると、カタリナは元の部屋に戻った。