2.ユーグの黒歴史
──夜は明け、仮装舞踏会が終わる
──私はあなたを愛していた
──あなたも私を愛していた
──ずっとずっと一緒だと思っていた
──でも仮装舞踏会はおしまい
──愛していた 愛していた 愛していた
──でも夜が明けていく
思わず脚を止めて、カタリナは聴き入った。
別れの曲だ。
甘く伸びやかな女の声には、自身も愛別離苦に悩んだに違いないせつない響きがあった。
だが女の顔は慈愛に満ち、潰れている男達への子守唄のようにも聞こえる。
ままならない人生を嘆き悲しむだけではなく、苦しみも悲しみも愚かさもまるごと受け容れ、愛でているようだ。
「珍しい。オランピアが無料で歌っている」
帰りがけの客がぼそりと呟く。
それで、カタリナはあれが裏社交界の女王と謳われる女だと知ったのだが──
きょとっとこちらを見ているジュリエットに、そのときの印象を説明しようとして、カタリナは諦めた。
男と女の地獄を養分にして開いた大輪の花のようなオランピアと、天真爛漫なジュリエットは対極すぎて巧く伝えられる気がしない。
「どこに行けば会えるの?
彼女の社交場?」
「いや、舞踏会は休みの日なので本邸です。
ここから馬車で20分ほど、テルトー広場の近くで」
テルトー広場は、王都の中心部から少し離れた丘のふもとにある。
富裕な平民の別邸やら隠居所がある地区だ。
オランピアは社交場代わりにしている館とは別に、居を構えているらしい。
「そう。じゃあ辻馬車を呼んでちょうだい。
事情は馬車の中で聞くわ」
というわけで、三人は辻馬車に乗ったのだが──
「バッカじゃないの?
あなた、自業自得って言葉、ご存知?」
ジュリエットとユーグに代わる代わる事情を説明されたカタリナは、軽くキレた。
「か、返す言葉もありません……」
ユーグが潮垂れ、ジュリエットもおろおろと視線を泳がせる。
半年ほど前、学院を卒業したばかりのユーグは、ふと思いついて競馬を見に行った。
その日は大きなレースはなく、見物人もそんなにいなかったが、パドックで馬を見ているうちに、頬髭をもじゃもじゃにはやした五十絡みの紳士に連れられた黒髪の美しい淑女に声をかけられた。
紳士は結婚指輪をしているが、20代なかばと見える淑女はしていない。
親子でもおかしくない年回りだが、妙に馴れ馴れしげな女の様子を見れば明らかに違う。
これは、愛人か高級娼婦か、とにかくそういう立場の女なのだなと思っていたら、女はオランピアと名乗った。
これが例の「裏社交界の女王」か、案外フレンドリーだなと思いつつ、ジュリエットに教わった馬の調子を見定めるポイントを受け売りしているうちに、ユーグもオランピアも万馬券を獲ってしまった。
オランピアも紳士も大変喜び、礼をしたいと夕食に招待された。
表に看板も出していないレストランで豪勢な夕食を奢ってもらったところで、紳士は今日はそろそろと帰ったが、オランピアはもう少し飲まないかとユーグを私邸に誘ってきた。
ユーグはついふらふらっとついていってしまい、差し向かいで飲むうちに、気がついたら、せっかく獲った馬券を並べて、一夜を乞うてしまったという。
オランピアは「私は所詮、毒虫のような女。これから花開く蕾のようなあなたが触れてはいけません」とかなんとかしおらしいことを言いつつ、一夜限りならという約束で相手をしてくれた。
獲った馬券はそれなりの額だったが、一流の高級娼婦に近づくには、軽くその数倍はかかり、それでも相手をしてもらえるかどうかは気分次第なのだから、破格の条件だったと言える。
さすがにユーグは一夜の詳細は語らなかったが、翌朝、夢うつつでオランピアの邸宅を後にしたときは、太陽が黄色く見えたという。
で、それで済めばよかったのだが──
その後、ユーグはとある子爵家の跡取り娘と知り合い、娘とその父母に気に入られた。
ユーグも、一見内気に見えて芯の強い娘に好意を持ち、すぐに結婚を望むようになった。
子爵家は豊かな穀倉地帯を領地に持つ古い家柄。
伯爵家の四男であるユーグにとっては、上々の婿入り先だ。
だがその子爵家の人々は大変信心深く、その分男女のことに潔癖なところがあった。
以前、その娘はそれなりの家の貴公子と婚約していた。
だが、婚約者がこっそり娼館で遊んでいたことがわかると速攻婚約解消してしまったのだ。
つまり、オランピアとの一夜がバレたら、すべて吹き飛んでしまう。