プロローグ:オランピアという女
光あるところには、闇もまた存在するのが世の習い。
この王都で言えば、大陸一の美姫と謳われる王妃クリスティーヌを頂点として貴族達がきらびやかに交流する社交界がある一方、裏社交界と呼ばれる世界がある。
裏社交界とは、高級娼婦を頂点とした、要は娼婦の世界だ。
そこでは、表の世界では、貴顕の士として振る舞う者達──貴族や、平民ながらときには貴族に匹敵する財力を誇る地主や、大商会の幹部達も欲望を剥き出しにする。
この国の場合、娼婦は娼館に所属する者と、しない者に大別される。
娼館といってもピンキリで、上は貴族の館に匹敵するような設えの高級店。
客は、他の客と鉢合わせないように注意深く案内され、サロンにずらりと居並ぶ美しい娼婦達の中から、一夜の恋の相手を選んで遊ぶ。
当然、値段はべらぼうに高く、さらに客は「紳士」限定だ。
下は、労務者向けの15分で区切られた「とにかく出すだけ」の世界。
最下級となれば、衝立で仕切られただけの相部屋で事を済ませることすらある。
とはいえ、格が上でも下でも、「店」に所属する娼婦達は、最低限の食住は保証されている。
しかし、前渡し金という借金に縛られた娼婦達は自由に外出することもままならず、せっかく稼いだ金も備品代や手数料の名目で絞られてしまう。
客を選ぶ権利もないのが通例である。
一方、「店」に所属しない者の格差はさらに大きい。
下は、庶民向けのカフェやバーが立ち並ぶエリアで客をひっかけ、塒にしている木賃宿で交渉を持つ娼婦たち。
宿代も払えなくなった者なら、路地の物陰、公園や川岸などで事を済ませる場合もある。
上は、いわゆる高級娼婦達。
美貌だけでなく教養も備え、最新流行のドレスをまとった高級娼婦達が獲物を漁るのは社交場だ。
社交場に出入りする名目上、パトロンの力でどこかの劇場に端役で出て「女優」「踊り子」という肩書を得ていることが多い。
この高級娼婦、「客を破産させて一人前」と言われるほど。
一流の高級娼婦ともなれば、豪奢な館に住んで、馬車を何台も持ち、マネージャー代わりの侍女にメイド、従僕なども多数召し抱える。
ここ数年、この国の裏社交界の女王として君臨するのは「オランピア」と名乗る高級娼婦。
雪白の肌に腰まである漆黒の美しい髪、深みのある碧眼にあわせて唇は常に真紅で彩っている。
やたらめったら色っぽく、右に泣きぼくろのある、切れ長の眼でじいっと見つめられただけで、たいていの男はふらふらっと吸い寄せられてしまう。
年の頃は、ぱっと見20代なかば。
本当はもっと年上のはずだが、何歳なのか誰も知らない。
このオランピア、三年前にかつては伯爵家のものだった館を手に入れ、朝まで楽しめる舞踏会を週に3日開いている。
要は私設の社交場で、紹介してもらわないと買えない「招待状」は一流の社交場より高い。
だが、オランピアやその周辺の粋人達と誼を通じたい者が争って買い求める上、売出し中の「女優」やら「踊り子」が日替わりで出演するレビューが好評で、連日満員御礼という勢いだから、こうなるともはや女実業家と言った方がいい。
ところで、この館の買い方がまた、話題になった。
オランピアは、ポンと現金一括で館を買ったのだ。
三、四百人の客を入れて、まだ余裕があるほどの邸宅。
彼女に入れ揚げたあげく落ちぶれてしまった者も片手に余るほどいたとはいえ、入る金は大きいが、蕩尽も凄まじいのが高級娼婦だ。
いったいどうやってそれだけのまとまった資金を作ったのか、不思議といえば不思議である。
で、さまざまな噂が立った。
曰く、オランピアは大貴族の落し胤である。
父親が密かに金を出したか、保証人となって資金を調達したのだろうということだ。
実際、オランピアは、ほんの少しだが火属性魔法を使える。
貴族の血を引いている可能性は十分ある。
もう少し派手な噂も立った。
オランピアは先代国王の落し胤ではないかというものである。
当代国王は謹厳実直、隣国から輿入れした王妃クリスティーヌ以外の女性には見向きもしないが、先代国王は相当な遊び人で、「美男王」とあだ名されていた。
先代国王の晩年の子であるなら、ぎりぎり計算は合う。
そういえば目元のあたり、先代国王と似ているのではないかと言い出す者もいた。
本当にそうなら、ひそかに王家の内命を受けた後ろ盾がついていてもおかしくない。
とはいえ、大貴族なり王家がオランピアを庶子だと認識しているのなら、彼女に高級娼婦をさせておくはずがなかろうと反論する者もいた。
確かに、庶子はどこか確かな筋に預けて育てさせるのが通例だし、諸般の事情で行方が分からなくなり、後から庶子だと判明したとしても、それならそれでさっさと引退させて、どこか人目につかないところで暮らさせるのが順当なところだ。
では一体どこから多額の資金を調達したのか。
高位貴族や大富豪とのつきあいも多い超一流の高級娼婦であれば、時には国の根幹に関わるような情報に触れることもありうる。
そのあたりで太い利権でも手に入れたのだろうと言う者もいた。
オランピアを憎む者の中には、彼らの弱みを握り、恐喝でもしているのではと言う声もある。
好奇と疑惑の視線に囲まれながら、今宵もオランピアは最新流行のドレスをまとい、取り巻きをぞろぞろと引き連れて、裏社交界を堂々と遊弋している──