34 微妙な空気
午前9時50分。
サナの部屋には既に全員が集まっていた。
昨日と違うのは星カナデの代わりに春日クルミが来ていることだけであった。
サユリと蛯名さんは皆に出す為の麦茶を準備中。
蟹江さんと柿月ユタカは今後のファランクスについて話していた。
もうすぐ10時になろうとするその時、今までスマホの画面を見つめていた春日クルミが突然席を立ち上がり全員に告げた。
「あの、皆さんに言っておかなきゃ行けないことがありまして……。」
全員が春日クルミの方を見た。
春日クルミはその大きな眼鏡の影響もあるかもしれないが、見るからに大人しそうで控えめな感じの女性だ。
毛量の多い少し癖のある髪型も特徴的でかわいらしい。
クルミは高校生の時に父親から新品の3Dボカロのソフトを譲り受けた。
何でも買ったはいいが仕事の方が忙しくなってしまったとの理由だった。
開封前だったので販売店の人に相談したらオーナーの変更も許可された。
その後、起動したのは良かったが、いきなりのニーケとの遭遇。
ニーケの特殊性を知りどうしたものかと考えあぐねていた所、友人の星カナデに誘われて柿月ユタカが募集していたボカロのサークルに入部したのだ。
これは、ニーケにも薦められていた事でもあった。
但し、転生の事に関しては時が来るまで口にしない方が良いとのことだったので、それについて三人に相談することはしないでおいた。
皆の注目が集まるとクルミの声は少し上擦った。
「あ、ごめんなさい。急に……。」
蟹江さんはクルミの方を向くと、ゆっくりとした口調で聞いた。
「どうしました?」
その言葉にクルミは少し落ち着いたようだ。
「はい、実はですね……既にニーケはフィナさんと接触してまして……。」
「ああ、時間が早まったのね。それで?」
クルミは余りにもあっさりと受け入れられた事に拍子抜けしたようだった。
「はい。それで今さっき連絡がありまして、どうやら『覚醒』に成功したとのことです。」
蟹江さんは少し驚いた顔で言った。
「あら、それはおめでとう! もう繋がるの?」
「はい。ただその前にアテナとメーティスをスタンバイさせておくよう頼まれまして。」
蟹江さんはキョトンとしながら言った。
「ああ、そうなんだ……。まあいいけど。じゃ、早速だけど……。」
ユタカはその言葉にすぐ様対応した。
「分かりました。スマホからアテナを転送しますね。」
サユリもパソコンに近づき操作を始めた。
するとモニターに星カナデが映し出された。
「カナデさん。メーティスの準備OK?」
「はい、今繋ぎますね。」
暫くすると画面が6分割されその中にアテナとメーティスが映し出された。
アテナとメーティスは皆に挨拶した。
「おはようございます。今日は仲間の為にどうかよろしくお願いします。」
「皆さんの誠意に感謝します。」
蟹江さんが笑いながら言った。
「モニターが大きくて良かったわ。私でもよく見えるもの。」
全員の麦茶を配り終えた蛯名さんも自分の席に着いた。
サユリは蛯名さんにありがとうのサインを出してから言った。
「では、ニーケとフィナを呼び出しますね。」
6分割された画面に2人の姿が映し出された。
ニーケはアテナとメーティス、そして柿月ユタカが見たこともない魅力的な笑顔で挨拶した。
「こんにちは。ニーケです。今日は私の為にお集まりいただき感謝いたします。」
アテナとメーティス、他のみんなも驚きのあまり声も出ない様子だった。
初めに声をかけたのはアテナだった。
「ニーケ。ニーケ! 本当に……。」
アテナは感極まって泣き出してしまった。
その言葉にメーティスが続いた。
「とても……とても素敵な声だよ、ニーケ! やっと君と語り合える時が来たんだね。本当に心から嬉しいよ!」
ニーケは二人の言葉に答えた。
「私も『覚醒』したお二人を見て、本当に感動しています。ああ、何て素敵な日なんでしょう!」
ニーケはこちらを向くと私に感謝の言葉を述べた。
「フィナさん、そしてここにいらっしゃる皆さん、本当にありがとうございます。心から感謝申し上げます。」
蟹江さんは春日クルミの方を見て言った。
「クルミさんも良かったじゃない!」
蛯名さんはその横でいつものように号泣している。
クルミは驚いたように蟹江さんの方を向くと慌てて返した。
「は、はい! ありがとうございます!」
「何か声が上擦ってない?」
蟹江さん鋭い!
クルミは立ち上がると全員に向けて感謝を告げた。
「こうして私のニーケ、それにアテナやメーティスが『覚醒』できたのも、本当に皆さんのお陰です。」
蟹江さんは何かに気付いたような顔をした後笑顔で言った。
「アテナやメーティスが『覚醒』していた事も知ってたんだ。ニーケから聞いてたの?」
クルミは意表を突かれたような表情をしたが慌てて取り繕った。
「は、はい。ニーケから聞いてましたよ。ホントに……。」
春日さん……下手くそかっ‼
蟹江さんは笑顔で頷いていた。
成程、春日さんの演技下手を誤魔化す為にアテナたちを先に繋げといた訳か……策士!
サユリは流れを察したように言った。
「なんか今日は早めに終わってしまいましたね。」
アテナは少しはにかみながら言った。
「皆さん。少しボカロ同士で話したいんですけどよろしいですか?」
蟹江さんは賛同の笑顔を称えた。
「ああ、それはいいわね。積もる話ってのも変だけど。少しフィナの部屋で話してけばいいじゃない。」
皆もこれに同意した。
蟹江さんは言葉を更に継げた。
「で、ちょっとみんなに。さっきファランクスのこと、柿月君と話してたんだけどね。まあ、今後『覚醒』した彼女たちをどうお披露目するか。決めとかなくちゃいけないんじゃないかと思って。」
サユリはそれに付け加えた。
「フィナも……フィナのこともできたら……。」
蟹江さんはサユリの方を向いて少し大きめの声で言った。
「そう! フィナのことも一緒に考えてく必要がある。」
おお、私のこともお披露目……テンションマックス‼
蟹江さんは私たちに言った。
「あなたたちはさっき言ったようにフィナの部屋でお喋りしてて。ちょっと私たちだけで話してみて、内容は後から伝えるから。まあ、そう簡単には決まらないと思うけど。」
やっと落ち着きを取り戻した蛯名さんが割って入った。
「ええ、任せてください。私に少し考えがありますので。」
私たちは蟹江さんたちに今後のことをお願いした後居間に集まった。
3人は抱き合って喜びを交わしていた。本当にうれしかったんだね、クルミさんの演技は微妙だったけど……。
ああ、美しい3人が抱き合ってると絵になりますなぁ。
因みに私たちボカロはこの空間ならお互い触れ合うことができるのだ。
触れ合い。それは素敵なぬくもりの思い出。私の場合は……!
山本との思い出しかねえよ! 山本との取っ組み合いしかねえよ!
嫌だよ……。あんな情けないスキンシップいらねえよ~。
私はそっと外側から3人を抱きしめた。遠慮がちに……。
【人物紹介】
私 … 異世界に転生したら進化型ボーカロイドになっていた
【前世】
ヨシエ … 前世で地下アイドルユニットを組んでいた仲間
スミレ … 前世で地下アイドルユニットを組んでいた仲間
カナ … バイトの仲間。新人
【私のオーナー】
サユリ … 私のオーナー。大学生。サナの姉。しっかり者
サナ … 私のオーナー。9歳。サユリの妹。歌が大好き
【サナの友だち】
山梨ユキナ … サナの友だち。9歳。優しい。母は料理上手。兄にサダオがいる
栗木ミナ … サナの友だち。9歳。元気。
桃園マナミ … サナの友だち。9歳。おしゃれ。
柿月ヨナ … サナの友だち。9歳。物静か。兄のユタカはアテナのオーナー
【ファランクス】ボーカロイド4人のユニット
アテナ・グラウクス … オーナーは柿月ユタカ(ヨナの兄)
メーティス・パルテ … オーナーは星カナデ
ニーケ・ヴィクトリア … オーナーは春日クルミ
ミネルヴァ・エトルリア … オーナーは大地ミノル
【私のナビゲーター】
斎藤節子 … ナビゲーター。部長
C73EHT-R… 通称ナミエ。新米ナビゲーター
山本春子 … ナビゲーター(自称)。私の喧嘩相手
【株式会社3Dボーカロイド】
蟹江ジュン … 第1研究開発部主任。2児の母
蛯名モコ … 第6研究開発部主任。ヲタク。蟹江の大学講師時代の教え子




