大丈夫だよ
その人と初めて会ったのは、私がまだ子供……小学校の三、四年生の頃でした。
冬。
冷たい風の吹きすさぶ商店街の道を、私は闇雲に歩いていました。
私はその時、学校の友だちのことで悩んでいました。
と言っても、今思えば他愛のないことです。
いつも仲良しのあの子が何故か今日、私ではなく別の子とばかり遊んでいたとか、そんな程度のことでした。
だけど当時の私にとっては、目の前が暗くなるような深刻な悩みでした。
こんな状態で明日学校へ行かなくてはならないかと思うと、ため息ばかりが出ました。
家にいても気分が落ち込むばかりだったので、私は、友達の家へ行くとか何とか言って家を出、こうして歩いていたのです。
寒いからか、商店街にもひとけはありません。
お店の人も奥に引っ込んでいます。
私はただ前を見て、意味もなく急いで歩いていました。
目に映る寒々しい景色と同じくらい、私の心も寒々としていたのをぼんやりと覚えています。
「大丈夫だよ」
不意に声をかけられ、私は立ち止まってふり返りました。
最近はめっきり見かけなくなりましたが、私が子供の頃には、商店街など人が集まる場所に占い師が店を出していることが、ちょいちょい、あったのです。
私に声をかけたのはそんな風に店を出している占い師で、二十代前半から半ばくらいの、平凡な顔立ちのおにいさんでした。
そのおにいさんが座っている椅子の前には白い布を貼った小さな台があり、天眼鏡やぜいちくが乗っています。
こういう占い師はたいてい、難しそうな顔をしたおじさんやおばさんで、まだ若いおにいさんなのが少し変わっているなと、その時の私は思いました。
彼は人好きのする優しい笑みを浮かべ、もう一度
「大丈夫だよ」
と言いました。ふっと心が安らぐ、そんな笑顔と声でした。
「大丈夫だよ。明日の朝、学校であの子にいつも通り、おはようって言ってごらん。それで大丈夫だから」
私は思わずくるりときびすを返し、走って家へ帰りました。
気味が悪かったのです。
次に彼と会ったのは、最初にお付き合いしていた人と別れたばかりの頃でした。
正確には、会った、とは言えないかもしれません。
だって彼はテレビの向こう側にいたのですから。
「大丈夫だよ」
失恋のショックと哀しみでさんざん泣いた後、茫然としながら無意識でテレビのスイッチを入れた時です。
公園のベンチかなにかに座った、Tシャツにジーンズ、というどこにでもいそうな青年が映りました。
ドラマでもやっているのかと、泣き疲れた腫れぼったい目で私は、ぼんやり画面を見つめました。
青年は優しくほほ笑み、言います。
「大丈夫だよ。君はいい子だし頑張っている。彼とはただ、合わなかっただけだよ」
なんと皮肉なドラマでしょう。
どうやらこの青年の役どころは、失恋したヒロインをなぐさめる兄的存在、のようです。
彼はテレビの画面越しなのに、こちらがたじろぐくらい真っ直ぐ視線を向け、もう一度言いました。
「大丈夫だよ。見る目がないのは彼の方だし、公平に言って君は悪くない。浮気の原因を君のせいにするような、ずるくてひきょうな彼の方が間違っているから」
私はギクッとして、食い入るように画面を見つめました。
どこかで見たようだけど誰とは特定できない、平凡な顔立ちの好青年でした。
「大丈夫だよ」
優しい、心がふっと安らぐような笑顔と声。
でも次の瞬間、私は大急ぎでテレビのスイッチを切りました。
訳もなく、怖くてたまらなくなったからです。
そんな感じに彼は、私がひとりで悩んでいる時、どこからともなく現れて
「大丈夫だよ」
と言い、優しくほほ笑んでくれました。
仕事や結婚、結婚後のあれこれ。
誰にも言えない、言えば一笑に付される他愛のない、だけど自分自身にとっては深刻な悩みにたった一人で沈んでいる時、彼は通りすがるように現れて
「大丈夫だよ」
と言ってくれるのです。
もちろんどこのだれかわかりませんし、そもそも人間かどうかすらもわかりません。
どこかで会ったような気がするのに、決してどこのだれとは特定できない、特徴らしい特徴のない、平凡な容姿の彼。
最初に会った時から彼はずっと、二十代前半から半ばくらいの若者です。
若い頃、幼い頃は気味が悪かったり怖かったりしましたが、年を経るごとに私は、彼をとてもありがたい存在だと思うようになってゆきました。
自分にも他人にも恥じない生き方をしている限り、きっと彼はどこかで見守ってくれている。
おばさんと呼ばれて久しくなる頃には、そんな風に思うようになっていました。
そして今。
私は病院のベッドに横たわり、さまざまな機械につながれて、なんとか息をしています。
寝ているのか目覚めているのか、自分でもあいまいなまま時間だけが過ぎてゆきます。
時々心配そうに私の顔をのぞき込む、あの子は娘でしょうか?
それとも孫娘だったのでしょうか?
もしかすると小さかった頃の私自身かもしれない、などと突拍子もないことを思い付き、ちょっと可笑しくなりました。
「おばあちゃん、笑ってるよ」
そんな声を聞いたような気がしました。
気付くと、辺りにひとけがありませんでした。
窓から差す光の感じから、夕方ではないかと思われました。
かすかな音がしてドアが開き、白衣を着た医療スタッフの青年が入ってきました。
彼は私に軽く目礼すると、機器の状態をチェックし始めました。
そして私と目が合うと優しくほほ笑み
「大丈夫だよ」
と言いました。
きびすを返す彼へ、私は渾身の力で
「おにいさん!」
と呼びかけました。
彼はドアの前で立ち止まり、ふり返りました。
「おにいさん!おにいさんは私の守り神様なのでしょう?」
もつれる舌で必死にそう言う私へ、彼は少し困ったようにまゆを寄せました。
「うーん、そんなたいそうな者じゃないんだけど。でも、君にとってはそんな感じなのかもしれないね」
彼は静かに私のそばまで戻ってくると、そっと手を伸ばして私の髪を撫ぜました。
「大丈夫だよ、怖くない。君……いや。あなたは精一杯生きた。他のだれが知らなくても、僕は知っているよ」
優しい、心が安らぐような声と笑顔。
ふっ、と、身体から余計な力が抜けました。
とても穏やかな優しい気持ちで、私は目を閉じます。
大きく息をつき、私は、幸せなまどろみの中へとゆっくり沈んでゆきました。