7.森に潜むもの
井戸の先の柵を乗り越えて、オスカーは森へと踏み入った。
その左手には紙片が握られている。樹皮を叩き伸ばして作った紙で、描かれているのは地図だ。夜光草の群生地までの道程を、ヒルデガードが手描きで記したものである。
「泉まではおよそ二里……そこから目的地までさらに四里といったところか。それなりに離れてはいるな」
とはいえ、一晩あれば充分往復できる範囲とも言える。距離そのものはさして問題になるまいと思う。
問題は、森に棲む数多の猛獣だ。
同じオーク相手ならばやり過ごせるかもしれない。しかし、熊や猪、狼といった動物たちは違う。こちらがオークであろうとお構いなしに、隙ありと見るや襲いかかってきかねない。エルフと比べれば遥かに筋骨隆々としたオークではあるが、大型の獣に不意を打たれて果たして切り抜けられるかどうか。
小枝の一本も折らぬよう、細心の注意を払いながら進む。
――静かなものだ。
――だからこそ、物音がすればわかる。
なにしろ見渡す限りの森である。曲がりくねった樹木や背の高い草が投げかける影は、ともすれば魔物の輪郭にも見える。こういう環境では目よりも耳のほうがずっと役に立ってくれると、オスカーのエルフとしての経験が告げていた。
「……っ!」
前方。そう遠くない位置。
虫の羽音や梟の鳴き声に混じって、移動音がした。
「叡智」
オスカーは樹木の陰に身を隠し、音の聞こえたほうに意識を向ける。
ざくっ。ざくっ。
ルーンによって強化された知覚が、二足歩行する何者かの足音を捉える。音の重さからして、それなりにでかい。自分と同じくらいの体重があろう。
ざざあっ。
茂みを踏み越えるようにして、大きな人影が現れる。
間違いない――オークだ。
「こうも早く出くわすとはな……」
仮にも不可侵条約を結んだのであれば、鉢合わせるにしても泉を越えてからだろうと高を括っていた。甘かった。どうやらパウラ教団は、なかなかあからさまに里への挑発を仕掛けてきているらしい。
それもこれも白亜の森の攻略が終わったからなのだと思うと腸が煮えくり返りそうになるが、こんなところで里の忍耐を無に帰すわけにもいかない。
オスカーは逸る気持ちを抑え、敵が通り過ぎるのを待った。同族としての姿を晒すのは最後の手段としたい。
「……行ったか」
オークの気配が遠ざかり、オスカーはほっと息をつき、
殺気。
考えるよりも早く体が動いた。剣の鞘を払い、抜き身となった刃を頭上へ向けて振り上げる。
硬いものにぶつかる手応え。
跳び退って振り返り、襲撃者を視界に収めた。
「大枝蛇、か!」
樹上棲の巨大な蛇――ヤクルス。
動きの鈍い昼ならともかく、夜に相手取るには危険な動物だ。目の前に現れた個体はこちらを丸呑みにできるほどまでには育っていないようだが、それでもたやすく肉を引き裂く牙と、堅牢な頭蓋をも噛み砕く顎、何よりも強力な毒を持っている。
ずん、と地を震わせ、ヤクルスが大樹の幹から落ちてきた。
上下の牙の狭間からちろちろと覗く、夜の暗がりの中でも血のように赤いとわかる舌。黒一色のつぶらな眼からはいかなる感情も読み取れないが、たった一つ確かなことがある。
――おれを捕食するつもりだ。
シャッと短く鳴いた巨蛇が、ぬらりと鱗を光らせて迫った。
「俊迅!」
オスカーは地を蹴るや否やルーン魔法を詠唱。夜気が渦を巻き、風となってオスカーの体を運んだ。
寸前まで身を置いていた空間に、轟然と飛びついてきたヤクルスの巨体が突き刺さる。あまりの勢いに土塊が舞い、煙となって両者の間を遮った。
オスカーは油断をしない。
蛇という生き物は、視界に頼らずとも獲物を狩ることができる――そのことを知っているからだ。
「防護!」
土煙を貫いて飛来した毒液を、闇の帳が遮って散らした。
オスカーは液の軌道から敵の位置にあたりをつけ、剣を携えて反撃に出る。狩り以外での殺生は性分ではないが、逃げたところで追い回されるだけだ。やむを得まい。
が、ヤクルスは図体に似合わぬ俊敏な反応を見せた。
剛打。
太く長い体が鞭のようにしなり、尻尾の先端が槍のような鋭さをもってオスカーに襲いかかったのだ。
「ぬうっ……!」
辛くも剣で打ち払うことには成功した。しかし硬い鱗に阻まれて切り落とすには至らず、逆にこちらの手のほうが痺れる始末だ。
――この姿のままでは厳しいか!
変身の要を認めかけたところに、再び毒液が撃ち込まれた。
魔法の発動は――間に合わない!
「くっ!」
オスカーはとっさに武器を引き上げた。
衝撃が剣の腹で弾ける。オスカーは右に左に跳躍し、追撃の狙いを絞らせないよう努めながら距離をとる。
右手の得物に目をやる。
毒液を浴びた箇所から先、剣身がどろりと溶け落ちている。
――これは……まいったな……。
オスカーは使い物にならなくなった剣を捨て、木陰から敵の様子を窺う。
やはり、見逃してはくれないらしい。大蛇の頭はまっすぐに、オスカーが身を隠している樹の幹へと向いている。
――どうしたものか。
ヤクルスが視覚でなく、温度を嗅ぎ分ける特異な感覚器官によって餌を捕らえているらしいことは、エルフの間ではよく知られた話だ。そしてエルフであろうがオークであろうが、体温をごまかす能力の持ち合わせはない。
ヤクルスと一対一の状況になったが最後、倒して突破するしか生き残る道はないのだ。
ヒルデガードがこいつと会わなかったのは幸運だった。もし昨夜の彼女が襲われていたら、自分は泉のほとりで野垂れ死んでいたか、二人まとめて蛇の夕食になっていたはずだ。
二叉に分かれたヤクルスの舌が、伸び縮みする速度を上げた。こちらを探っている。
――来るか……?
永遠とも思える時間が過ぎた。
長大な胴体が微細な身じろぎをするのが見えた。疑いを差し挟む余地はない、攻撃のための予備動作だ。シャッと鳴き声が空気を裂く。
オスカーは幹の裏から飛び出し、破壊のルーンを行使した。続けざまに三発。照準はすべて頭。武器に付与するでもない純然な魔力弾では鱗を貫通できないだろうとわかってはいたが、他に方法もない。蛇の感覚器官を眩ませることができればいい。できれば一瞬よりも長く。
闇の稲妻が爆ぜる。その効果の有無を確かめる暇すら惜しんで、オスカーは次の魔法を唱えるべく首飾りの石片に指をやる。
突然、後方の藪が割れた。
唸り声。ヤクルスの威嚇でもなければ、もちろん自分の呻きでもない。闖入者が発したものだ。
オスカーの口から忌々しげな舌打ちが漏れる。
「オークだと!?」
おそらく、さっきやり過ごした個体だろう。戦いの音を聞きつけて、闘争を好む野蛮な本能に従って戻ってきたのだ。
シャアッ、とヤクルスの高い鳴き声。
オークへと気を取られたことは、致命的な時間の損失だった。ルーン魔法は予想のとおり痛打とならず、感覚器官の麻痺からも大蛇はすでに復帰している。
もはや変身の機を与えてはくれまい。
前方に大蛇。後方に怪人。
挙句の果てに自分はエルフの姿のままで、しかも丸腰ときている。
「……やれやれ」
あまりの状況に笑えてきた。まさか、里から幾許も行かないうちに、こうまで厄介な展開に陥るとは思ってもみなかった。
だが、何とかするしかない。
ここで自分が倒れれば、ミヒェルを救うことは難しくなる。ヒルデガードはなりふり構わず掟を破るだろうし、そうなれば今度こそ彼女もオークや猛獣に襲われて命を落とすかもしれない。
姉弟の行く末が懸かっているのだ。
どうあっても、やられるわけにはいかない。
オスカーの視線がオークとヤクルスとを行き来する。何度目かの往復でオークのほうを向いた瞬間、ヤクルスが動いた。
「ッ! 俊迅ッ!」
首飾りのルーン文字がマナに干渉。オスカーは風のごとく疾走する。
宙で強引に体を制御して着地、大蛇と怪人のどちらもを見渡せるように位置取る。視界の中、またも突進を外した蛇の鎌首が持ち上がり、
眼前のオークをぴたりと捉えた。
オークが咆哮した。
――これは!
オスカーは両者を刺激しないよう、そろそろと引き下がる。
オークがヤクルスめがけて斧槍を振りかぶり、ヤクルスがオークに牙を突き立てんと襲いかかったのと同時、オスカーは身を翻して全力で駆けた。
互いを新たな獲物と定めた大蛇と怪人の争う音は、たちまちのうちに背後の闇へと遠ざかった。泉まで辿り着いたとき、オスカーは耳を澄ませてみたが、聞こえたのは鈴を振るような虫の鳴き声だけだ。




