11.薄氷の平穏
約束通り、ヒルデガードは里のエルフたちにオスカーのことを紹介してくれた。
集会の場でオスカーは、白亜の森がパウラ教団によって焼かれたことを明かした。戦力を集中させての一大作戦が終わった以上、もはや教団には紳士協定を維持する理由がない。オークの軍勢に対抗するためには、この里の者たちにもあらゆる意味での備えが必要なのだ。一刻の猶予もないのだと知ってもらわなければ始まらない。
もともとオークによる被害が出ていたこともあってだろう、白い髭を蓄えた長老――ベルントと名乗った――は、オスカーの話を重く受け止めたようだった。そのうえで、里に留まるようオスカーに求めてきたのである。
正直なところ、ほっとした。
一般に、エルフの放浪者といえば、自らが指導者にならんと燃えて集落を飛び出した野心家か、罪を犯して追放された厄介者のどちらかだ。流れ着いた先では、老人たちには大抵の場合まず後者を疑われる。集落のほうがなくなってしまったのだと打ち明けなければ、いくらヒルデガードの進言があったといっても果たして受け入れられたかどうか。
時が来たら共に戦ってほしい、と長老は言った。
望むところだ。
教団を憎む気持ちがないはずもない。ヒルデガードと過ごした束の間の平穏を経て、白亜の同胞たちの仇を、そして己自身の仇を討ちたいという思いがオスカーの中で膨らみつつあったのだ。
なお、そうなるだろうと予想していたことではあったが、さしあたっての生活拠点としてはヒルデガードの家が宛がわれた。
父母を亡くした姉弟への配慮のつもりかもしれない。
◇ ◇ ◇
「オスカーにいちゃん! 稽古つきあってよ!」
言い伝えの通り、夜光草を使った薬湯はよく効いた。ヒルデガードの弟――ミヒェルはすっかり快復して、今もこうして棒きれを片手にオスカーを引っ張り回そうとする。
元に戻ってよかった、とヒルデガードは朗らかに笑う。
ということは、これが本来のミヒェルなのだろう。体が弱いと聞いていたからおとなしい子なのかと思っていたが、体調を崩していない間に限ってはまったく普通のエルフの子供だ。こうも活発に動き回る少年が寝伏したきり目を覚まそうとしなかったのだから、なるほど、ヒルデガードが思い詰めていたのも無理のないことだったのかもしれない。
故郷を失い、エルフとしての自分をも失ったオスカーの心は荒れていた。しかし姉弟を見ていると、この里を訪れてよかったという気持ちが湧いてくる。
「ねえ、にいちゃんってばー!」
「わかったわかった。では裏に行こうか」
頬を緩めて応じてやると、ミヒェルはぱっと顔を輝かせて玄関の扉から飛び出してゆく。
「悪いわね、任せきりにしちゃって」
声のした方向に振り返れば、短刀を手にしたヒルデガードがこちらに顔を向けていた。刀身の腹には山菜の切り滓がへばりついている。夕食の仕込みをしているのだろう。
「構わないさ」
オスカーは軽く首を振る。
「ミヒェルのちゃんばらに付き合っていれば、おれの体もなまらずに済む」
「そういうものなの?」
「子供はいつも全力だからな。あのくらいの歳の男の子は特にそうだ。相手をするにも体力がいる」
「経験からくる話ってヤツ?」
「まあな」
聞けばミヒェルは十一歳だという。
十一歳の頃に自分が何をやっていたかと思い起こせば、野兎を追いかけて白樺の木の合間を走り回ったり、覚えたてのルーン魔法を駆使して日が暮れるまで鬼遊びに興じたりといった記憶ばかりが蘇る。あれらを見守ってくれた里の大人たちはさぞ疲れたことだろう、と今ならばわかる。
里は移れど、自分が見守る側になる番が来たのだ。剣術の稽古くらいなら可愛いものではないか。
「――晩ご飯、鹿肉の煮込みでいいよね?」
「ああ。楽しみにしておこう」
家主に薄く笑みを返して、オスカーはミヒェルの後を追う。
姉弟の家の裏手には彼女たちの使っている井戸があって、そのさらに先には森との境界線の役割を果たす柵がある。
里の男衆の狩りに同行したとき気付いたのだが、どうやら以前はもう少し奥まで里が広がっていたようで、建物の残骸と思しき構造物が柵の向こう側に垣間見えた。里とオークとの戦いの歴史が窺える――ついでに、ヒルデガード家の井戸がもともと共同だったらしいことも。里の縮小にあたって井戸の占有が許されたのは、戦いで二親を喪った姉弟へのせめてもの施しのつもりだったのかもしれない。
今、オスカーはその井戸の前に立っている。
自分がここに陣取って動かなければ、ミヒェルが誤って井戸の縁に頭をぶつける心配も、勢い余って井戸に落ちる心配もしなくて済むからだ。
「行っくぞー、オスカーにいちゃん!」
「ああ。どこからでも来い」
えいやと気勢をあげて打ちかかってくるミヒェルの自作――といっても拾ってきた枝を若干削って整えた程度だ――の木剣を、オスカーはこれまた拾い物の枝でべしんと受け止める。
実のところ、ミヒェルの筋はそう悪いものではない。
まさかヒルデガードが教えたわけではないだろうから、ひょっとすると亡き父親あたりがあらかじめ基礎を仕込んでいたのかもしれない。成長の過程で病への耐性をつけさえすれば、ゆくゆくは立派な戦士として姉を支えることもできよう。
ならば、自分のやるべきは、その将来への手助けだ。
「腕の筋肉に頼るな。大切なのはまず踏み込み、次に地面からもらった力をなるべく減らさず剣の先まで通すことだ」
「……にいちゃんの話はむずかしいんだよなぁ」
「まあ、要は体をどうやって使うかだ。力よりも鋭さを意識するといい。――こんなふうに」
オスカーは体の向きを変え、剣に見立てた枝を正眼に構えて踏み込んだ。大地を掴んだ脚から返ってきた反発力を、腰を縦に使って増幅。背筋から腕へ、腕から「剣」へと通し、速さの乗った一閃を虚空に突き込む。
切り裂かれた昼下がりの空気が、ひゅっと音を立てて散った。
「うわあ、すげえ!」
「エルフの剣技は全身の連動が命だ。ドワーフやサピエンスなら他のやりようもあるかもしれんが、エルフは彼らほど筋肉が太くないからな」
無意識のうちに「おれたちは」でなく「エルフは」という言葉を選んでしまっていたことを、オスカーは口に出してから気付いた。
――いかんな、怪しまれるか?
しかし、オスカーの懸念に反して、ミヒェルが気に留めた様子はなかった。今しがたオスカーが見せた刺突を再現しようと、本人は凜々しいつもりなのだろう掛け声をあげながら夢中になって木剣を振るっている。
安堵の息が漏れた。
「ん? どしたの、オスカーにいちゃん」
「……いや。何でもない」
さすがに神経質ではないかと思う反面、ただでさえ余所者なのだから言動に気をつけておいて損はあるまいとも思うのだ。相手がミヒェルで助かった。
そのとき、慌ただしげな足音が近づいてきた。
「――オスカー!」
ヒルデガードだった。
駆け寄ってきた彼女の端整な顔立ちは、どこか緊張したように強張っていた。
「コーネリウスが、あなたに来てほしいって。急ぎの用事みたい」
「コーネリウス?」
集会に出たとき紹介された中にそんな名前の男がいたな、と思い出す。記憶に誤りがなければ、里の守りを取り仕切っている実力者だったはずだ。
急ぎの用事とやらについてヒルデガードは詳しく聞いていないようだ。それでもコーネリウスの立場を考えれば、きな臭い話であることは容易に想像がつく。
「わかった。すぐ行く」
教団に動きがあったのかもしれない。
オスカーはミヒェルに向き直って、
「すまんが仕事だ。稽古はまた今度見るということで構わないか?」
「うん! さっきのやつ、練習しとくね!」
「いい子だ」
最後に少年の頭を撫でてやり、オスカーは表で待つコーネリウスのもとへと歩みを進めた。




