10.希望
来た道を戻るべきか迷って、結局そうすることにした。
幸い、大蛇とオークの姿は忽然と消えていた。どちらが勝利したのかを察することは難しい。死骸も爆発痕も残らなかったということは、ヤクルスのほうがオークと戦うのは割に合わないと見て撤退したのだろうか。
「変身」
森の境界に差し掛かったところでルーン魔法を発動させた。エルフの姿に変わるとともに、首飾りからマナが放出されて物質化、衣服となってオスカーの裸身を覆い隠す。
柵を越えればそこはもう、ヒルデガードの家の敷地だ。
井戸の横を通り過ぎる。
玄関の表に回る。
「む……?」
かぐわしい香りがオスカーの鼻腔をくすぐった。
――休むように言ったはずだが……。
どうやらヒルデガードは起きているらしい。あまり良いことではないと思う一方で、自分が彼女の立場でもやはり眠れなかったかもしれないという気もする。
彼女を解放してやらねばならない。
オスカーは扉に手を伸ばし、叩き金を鳴らした。
途端に家の中から物音がした。何かを床に落としたような大きい音、ばたばたとこちらに走ってくる慌ただしい足音。
そして、板一枚むこうに気配が寄り添うのを感じた。
「……オスカー?」
「ああ」
一も二もなく鍵が開いた。
勢いよく扉を押し開けて、ヒルデガードが姿を見せた。顔を洗いでもしたのか泣き腫らした痕は収まっているが、そこに貼りついた表情は硬い。
「無事、だったんだ。……夜光草は?」
不安と期待が溢れ出しそうな瞳が見上げてきた。
オスカーは頷く。腰の革帯へと手を伸ばし、紐で束に括った蒼銀の花を取り出して告げる。
「手に入れたぞ。きみの弟は助かる」
ヒルデガードが動きを止めた。
宝石のような青い瞳が、天の月輪を照り返してきらりと光る。ヒルデガードは弾かれたように頭を垂れ、両の掌で目元を擦る。
再び顔を上げたとき、彼女の眼に曇りはなく――
「ありがとう、オスカー」
白い歯を見せてヒルデガードは笑い、オスカーの手を引いた。
連れだって玄関を潜る。
先程から漂っていた香りがいっそう強く感じられ、元を辿ろうと彷徨ったオスカーの視線が竈にかけられた鍋に留まる。何をしていたかと思えば料理らしい。集落が違えば使う香料も異なるようで、オスカーには馴染みのない匂いだった。
――まったく、
礼を言いたいのはこっちだとオスカーは思う。
己が身への嫌悪が消えたわけではない。
それでも、もうしばらくは生きてみてもいいのかもしれない。
親を喪いながらも逞しく生きようとするヒルデガード、そして弟のミヒェル。この尊いものたちの一時の助けにでもなれたのならば、化物に変わった自分の命にも価値があるのかもしれなかった。