一話「婚約」
目が覚めて、一番に飛び込んできたのは見たこともないほど上質な布のドレープ。経験し得ない程に柔らかい綿と滑らかな布の感触に反射的に飛び起きた私のすぐ隣で、心地の良い低音が響く。
「ごきげんよう、レディ。具合はいかがですか?どこか痛むところは?」
白銀の鎧ではなくて白いシャツにはなっていたけれど、人混みの中でも際立って端正な顔立ちの青年を忘れる事はなかった。鈍い頭痛も今は忘れて、慌ててベッドから飛び降りて背筋を伸ばし、作法を知らないなりに膝をついて深々と頭を下げようとしたところ、緩やかに片手を取られて阻止されてしまった為、ぎこちなく膝を曲げてみる。
「ご、ごきげんよう。……ええと、ご心配をお掛けしました。大丈夫です。あの、」
「ああ。申し訳ありません。名乗りがまだでしたね。私はクリストフ・デュヴェルジェと申します。クリスとお呼び下さい。」
穏やかに微笑しながら視線で指してベッドへ戻るように促す青年ーークリス様に、どう対応して良いのか解らず言葉に詰まってしまう。喉がガチガチに固まってしまったみたいで、うまく言葉にならない。立ったままのクリス様には申し訳ないのだけれど、震えて上手く立てない膝は余計な心配をさせてしまうだろう。促されるまま、静かにベッドサイドに腰掛ける。
「クリス……様。私は、……あ、アメリアです。……ええと、ここはどこでしょう?」
忙しなく視線を泳がせたまま今にも消え入りそうな声で尋ねる。青年は、尚落ち着き払っているように見える。緊張を察知した故の配慮からか、視線を私から外して一人用のティーポットに手を掛ける。これが貴人なのだと溜め息が溢れてしまうほど、その仕草一つとっても美しい。
「レディ・アメリア。良い名前ですね。ははは、そんな顔をなさらないで下さい。ここは私の屋敷ではありますが、誓って疚しいことは何もありませんでした。服が濡れたまま外で眠ってしまわれていたので……触れたと言えば馬へお連れした事と、羽織をお貸ししたくらいです。」
「……!?ご、ごめんなさい、弁償、わ、私、」
「大丈夫ですよ。私が勝手にしたことですから、貴方が謝る事など何もない。レディ・アメリア。身体が冷えているでしょう。温かいハーブティーはいかがですか?」
弁償と口にしてしまってから途方もない金額を想像すると血の気が引いていくのを感じ、不安から裏返る声を遮る形で話してくれるクリス様。極めて優しい口調で告げられながら、ベッドサイドの小さなテーブルに置かれたシンプルで形の良いティーカップに、飴色の液体が注がれる。
「あ、……ありがとうございます。いただきます。」
「ええ。お口に合えば良いのですが。」
最早言葉に甘える以外の選択肢がなく、震える指でティーカップを持ち上げる。口内で様々な花の香りがするお茶だった。きっと高価なものなのだろう。今まで飲んだことはないけれど、草原の花の香りが好きだった私は、このお茶を一口で大好きになった。もう飲む機会が訪れないかも知れないけれど。
花の香りに知らない場所で到底身分の違う相手との会話に詰まっていた息が一気に吐き出されて、どうしようもなく安堵する。
「すごい、これ……おいしいです。」
「良かった。……ところで、レディ。貴方は、赤い満月で何か思い出す事はありませんか?」
落ち着くまで待ってくれていたのだろうその言葉に、それでも肩が震えて身体が硬直する。赤い満月。……言葉を聞いただけで、あの赤い球体が甦る。果たしてあれは。思い出せば思い出すほどに、身体中の血液が沸騰するような興奮を覚える。こんな感覚は知らない。
「……こう、全身が、特に目が熱くなって……ええと、なんというか……ごめんなさい、あの時の事はあまり覚えていないんです。」
助けてくれた青年に身振り手振りで状態を説明しようとするものの、自身でも理解していない事は上手く伝えられずに瞳を伏せる。と、静かに手鏡が手渡される。
「十分ですよ。恐らく、貴方は狼憑きでしょう。満月を見た時、思い出した時……他にもあるかも知れないな。とにかく、血が騒いだ時はすぐに人目を避ける事。今も、ほら……可愛い栗色の瞳が緋色になっている。」
「狼、憑き……、」
それ以上は言葉にならず、息を詰める。手渡された手鏡を覗く勇気などありはしなかった。私は今、どんな顔になっているというのだろう。ーー確かめたくない。
(私が、人狼だった……?昔話だと、確か……人狼は一晩に一人ずつ村人を殺していく。最後は見つかって、絞首刑だ……。)
「レディ・アメリア。落ち着いて聞いて下さい。……貴方は人を殺めたりしない。」
「どうして、そんな事がわかるんですか?私、人を殺すなんて嫌です。そうなる前に、皆に伝えないと……」
「人狼は、大きく見た目まで変わってしまうが、貴方の変化はそうではない。皆に伝えたことで、好奇の目を向けられるか……人体実験に掛けられてしまう事だって考えられます。」
その声はまるで、経験したことを話しているかのようだった。クリス様は、何歳の時に、どんな経験をしたのだろうか。険しい表情に、何故そこまで詳しいのかと追求することは躊躇われた。
「……レディ・アメリア。私は貴方を助けたい。……いや、今話せる限り正直に申し上げましょう。十五年前に似た事件があった。その時の私は幼く、何をすることも叶わなかった。今更遅いのかも知れない。だとしても、あの時の真相を突き止めたい。きっと、貴方のその力が必要だ。付き合って頂けますか?」
これは私にとっても願ってもない提案だった。どうすれば良いのか、何をすればこの体質から解放されるのか。真相を渇望している彼となら、きっと真相に辿り着ける……そんな気がした。
「私に出来る事なら、何だってします。……どうか、助けて下さい。」
「ええ。最善を尽くしましょう。では、手始めに私と婚約をして頂けますか?」
「……えっ?」
確かに何でもするとは言ったけれど、まさか婚約という言葉が出てくるとは思わず、虚を突かれて言葉を失う。クリス様の顔は真面目そのもので、言葉の突飛さが余計に際立つと言うか……私が聞き間違えたのかと思うほどだった。
「婚前のレディを理由もなく連れ回すのは気が引けますから。貴方のご家族にも、私の同僚にも、どう説明して良いものか他に思い付きません。……今、好きな方が?」
「い、いや、そんな、いません。違います。でも、」
「どちらにしろ、貴方はこのままでは他の殿方へは嫁げないでしょう?私では不満ですか?」
私の答えを知っているからだろうか……。悪戯を仕掛ける子供のような顔だった。だけど、おとぎ話の王子様をしている時よりずっと良い表情だと思う。思わず、小さく笑ってしまった。
「ええと……あの、婚約って、どうするのでしょう?それに、私……貴族の方々がされる礼儀作法も全然わかりません。教えてくれますか?」
「……おかしな方だ。そんな事を気にされていたのですか?他にもっと、気に掛ける事があるでしょう。」
心なしか、クリス様の態度が砕けて来ている気がした。……そう、婚約は真相を突き止めるまでなのだから。王都で素敵な女性を見慣れているクリス様が、私に恋愛感情を抱くはずもない。一刻も早く村へ戻って、手がかりを探そう。
ーー結局、この時の私は色々と楽観的過ぎたのだと後に痛感することになるのだけれど。