さよなら
雨の日に、毛むくじゃらの森の妖精が住んでいそうな大木の木の下で雨宿りした。
男は釣りを教えてくれた。餌になる虫を気持ち悪がって触れない私に、籠の作り方を教えて、魚をとらせてくれた。男は籠を作るのは下手だったが、彼はそんな技術がなくとも鋭く削った木で魚を一突きにできた。
火をおこす方法を教えてくれた。食べられる木の実を教えてくれた。
男は馬が好きだった。大きな町に着き不要になった馬を手放すとき、情の籠る眼差しで馬の首を撫でていた。
食に対してのこだわりはなく、何でもよく食べた。
男は規則正しい生活を私にさせた。夜眠るときも傍にいてくれた。
酒は飲まなかった。女遊びもしなかった。そもそも人間と関わろうとしていなかった。
男は金を持っていた。少なくとも働きに出ずに町から町へ移動できるほどに金を持っていた。
名前はまだ知らない。私はまだ、簡単な言葉しか話せない。
はい、いいえ、嫌、これ、あれ、1つ、2つ、3つ、ありがとう……。
私たちはたったこれだけの言葉で繋がっていた。
男は無口で無骨で、不器用だったが、優しく寛大で忍耐強かった。
言葉が通じなくとも、教えるときはわかるまで、私ができるまで手伝ってくれた。
無表情で、精悍すぎる顔は一見怖いが、時折私の頭を撫でてくれるその手はいつだって慈悲に満ちていた。
花畑で男の笑顔を見てから、私はふと胸の奥に温かい感情を感じ始めていた。
私はこの男が好きだった。
いつか恩返しができたらと、私は思う。
この独りぼっちの男に、何か、何か出来ることはないか。
男はどこへ行っても浮いていた。
馬である程度移動してからというもの、基本的に私たちは野宿している。
花畑のあった舗装された道の終わりには、大きな門があった。
男はそこを迂回して、森から町へ入った。
密入国、そんな言葉が頭を過ったが、それはあながち間違いではないようだった。
男は町で人に避けられているようだった。
その理由が何なのか、私にはさっぱりわからない。
人々の反応は、拒絶、そして恐怖、この2つだった。
私は野宿が嫌ではなかった。狭い部屋で窮屈そうにこの大柄な男が身を縮めているよりは、魚を獲ったり木の実を集めてのびのびしている方が彼にとっては良いだろうと、私は勝手に思っている。それに、牢での生活を思えば野宿など天国である。
しかし、今日の彼はのびのびなどしていなかった。
怖い顔をもっと怖くして、思いつめているようだった。
親の仇でも焚火の中に見つけたのかと訊きたくなるような険しい顔をして動かない。
私は、何かできないかと、足元に自生している白い小さな花で花冠を作ってみた。言葉の話せない私が親愛の情を表現できるものは、それくらいしかなかった。私はめいっぱい伸び上って花冠を男の頭に乗せた。
……似合わなかった。
男はきょとんとした顔をしたが、困ったように眉を下げて少し笑った。
何か言っているが、何を言っているのかはわからない。怒っている様子ではない。悲しんでいるようだった。
男は私の頬に、そっと、壊すのを恐れるかのような手つきで触れた。そこには、2センチほどの傷が赤く残っている。
今日、男は町で何かを買い求めて移動していた。店主は震えながら男に品物を渡そうとしていたが、近くにいた女が手近な木製の何かを投げつけてきたのだ。男は軽く叩き落とし、その衝撃でそれは砕けて、破片が私の頬に走った。痛くはないし、小さな浅い傷は気にもならなかった。
そんな事よりずっと、何故この男は物を投げつけられなければならないのか、その怒りが勝っていた。
『大丈夫ですよ、私』
日本語で言ってみる。男はまた、困ったような顔をした。
私は笑って見せたが、男はきゅっと口を引き結ぶと私を膝の上に座らせた。
男は何か言った。ぶつぶつと言っている。こんなに沢山の言葉を知っていたとは驚きである。その低い声は心地よく私の耳に溶け入った。
私は、男の話も終わらぬうちに、その腕のなかで眠りに落ちてしまっていた。
次の日の朝、男はどこかよそよそしかった。
もしかして、私が怪我をしたことをまだ気にしているのだろうか。
言葉が話せれば『大丈夫、大人になったら化粧で隠せますし、何より貴方との思い出をこの身に刻めたことが嬉しくてなりません』と伝えられるというのに。
……幼女がそんな事を言ったら、ひかれるだろうか。幼女でなくとも想いが重すぎてひかれるだろうか。
男は私を抱き上げると、森を突っ切った先にあった村に入った。これまで店の並ぶ商業地区の町には入っても、居住地区への立ち入りはなかった。初の試みである。
私は不安だった。ここはどこだ、という不安である。
昨日の町の様子からして、この集落が男の実家とか自宅ということはないだろう。
町で、この男は完全にアウェイだった。
私は知らず知らずのうちに、男のマントにしがみついていた。
男はそっと、触れるか触れないかという手つきで私の髪を撫でた。
まばらに建つ木造の家を何件かやり過ごして、広場のように人々が集合して草をより分けたり籠を作ったりする中で、男は声を張り上げて何か言った。
村人たちは作業の手を止めて男を見遣り、ぎょっとした。露骨に持っていたものを落としたり、腰を抜かす者までいる。
何人かの男たちは狩猟用であろう槍や鉈を構えた。その瞳には、やはり恐怖があった。
この男に対する恐怖である。
まただ。また、この男は拒絶されている。
一人の老人が私たちに歩み寄ってきた。長老というやつだろうか。
抱っこされていた私は男に降ろされた。周囲の人間はまだ彼を警戒している。
その大人たちのほうが余程怖くて、私は男の足にぎゅっとしがみついた。
長老は私を一瞥すると苦笑して何か言っていた。男も返事をしている。
何の話をしているのだろうか。長老のほとんど残っていない頭髪は白いが、それは年齢による白髪であり男の銀髪とは違うように見えるが、実は親子とか、そういう関係なのだろうか。それにしては、男の表情には馬を手放すときの半分も親愛の情が見えないが。
私が二人を見上げていると、子供が声を上げて走り寄ってきた。
明るい茶色の髪に、緑の瞳をした利発そうな少年は私の手を乱暴にとると必死に何か話しかけてきた。
見覚えのある少年である。
「……レオ?」
私が小首を傾げて名を呼ぶと、レオは何度も盛大に頷いて舌足らずに話し続ける。
次いでレオの母が駆け寄ってきて私の体をぐいと引き寄せた。力任せな再会の抱擁に私は男から引き離される形となった。
彼らは生きていたのか。よかった。
ここは、彼らの住む集落なのだろうか。同じ牢に居た私を、レオ達の家族と推測してこの男はここまで連れてきてくれたのだろうか。家族の元に帰してやろうとして、歩き回ってくれていたのだろうか。だとすれば、それは男の勘違いなのだが。
感動の再会とばかりにレオの母は私の髪を何度も撫でて泣いている。
私は男を見上げた。男は私を、寂しげに見下ろしていた。
ああ───。
私は悟った。
置いて行かれるのだと。
一気に鼻の奥がツンと痛み視界が歪んだ。
「いや!いや!!」
私は力任せに叫んだ。置いて行かれるのは嫌だと男に伝える言葉は、これしか知らない。
レオの母親は頑として私を離そうとはしなかった。男とは比べ物にならない細腕の中で、私は暴れた。
男が視線を逸らして、懐から長老に何かを渡した。金だ。その袋に金が入っていることを私は知っている。
『嫌!置いて行かないで!!』
男は日本語で叫ぶ私に触れようとして、レオの母親に阻まれた。
レオの母親は私に触れさせないよう、私を守るように男に背を向けたのだ。
明らかな拒絶だった。子供は渡さない、その強い決意を感じた。
『何で!その人は恩人でしょ!!アンタも助けてもらったくせに!!この人の事何も知らにくせに!!』
私は力の限り叫んだ。力の限り暴れた。周りの男たちも駆け寄ってきて私を押さえつけた。
「いや!いや!」
男は私から一歩、離れた。私は必死に手を伸ばした。無茶苦茶に手を伸ばした。
そして男の腕輪に触れた。
それに縋り付くしかなかった。私はその腕輪を力いっぱい握りこみ決して離さなかった。
男は困ったように眉を寄せて、腕輪を外した。
私の小さくて力のない手に残ったのは、彼ではなく腕輪だった。
何か言った。男が何か、短く、はっきりと言った。
そして私に背を向けた。
『行かないで!!一人にしないで!!』
私は何度も叫んだ。だが、男が振り返ることはなく、戻ってくることもなかった。
最後に男が私に告げた言葉が「さよなら」だったと知るのは、それから半年後の事だった。