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魔王に恋した勇者さま  作者: 七菜
第1章
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あたたかい手

 じっと自分を見つめる幼女の私に、男は少し眉を寄せる。


 いつの間にか、レオたちも居なくなっていた。他の牢からも皆逃げ出したらしい。足音さえもうしなかった。


 私の目の前にあるのは、男と、死んだ怪物たちの骸と、鉄格子だ。


 男は何か言った。たぶん「お前も逃げろ」とか「何故逃げない」とか、そういう言葉だと思う。

 私は突然与えられた自由を前に、自分には帰る家もない事に気が付いた。


『帰る家が、ない』


 口にしてみると、私の両目からどっと涙があふれ出した。


 レオたちにはきっと帰る故郷がある。少なくとも、彼らは家族だ。私は違う。

 私にもこの世界の家族がいるかもしれないが、記憶がないのでわからない。


 これからどうすればいいのか。外の世界が希望に満ちているとは限らない。

 少なくともこの数日間、希望はなかった。


 レオ達は一瞬射した光ではあったが、彼らは私の人生を照らし続ける希望ではなかった。

 ここから出て、私は、幼女の姿の私は、自分の力だけで住処を見つけ、仕事を探し、食べ物にありつき、生きていかなければならないのだろうか。


 恐怖、そう、この感情は恐怖だ。外の世界、これからの人生に対する恐怖だ。

 次から次から溢れる涙を、私は汚れて真っ黒な手で拭った。


 涙は止まらなかった。体が芯からがくがく震えた。

 気付くと、男が私の前にしゃがんでいた。男は慎重に私の顔を布で拭った。大きな手だった。そして、温かかった。


 男はまた何か言った。私は何を言われているかわからずただ震えながら泣いた。

 すっ、と、男が私に手を差し伸べた。

 私はその手を取った。躊躇わなかった。この男に見放されたらもう生きていけない、私の本能が言っていた。

 差し出された男の手が、私にとってこの世界の全てだった。


 男の手は大きく、幼女の私は彼の人差し指をぎゅっと握った。


 外の世界は冬だった。雪のちらつく朝だった。

 久しぶりの光が眩しすぎて私は目を瞑った。そのせいでろくに新世界を見ることもできなかった。光に目を慣らそうと瞬きを繰り返し、なんとか男に付いて行く。裸足の私は何度も小石や木の枝、雪がまばらに積もり始めた地面の冷たさに躓きそうになりながら、全力の歩幅で男の歩みに喰らいついた。


 男がふと止まった。何か言った。もちろん何を言われているのかわからない。

 だが、男が私を邪険にしているわけではないことは男の行動でわかった。

 男は私を抱き上げると、寒さから守るように私をマントにくるんで歩き始めた。

 その腕の中は大きく、温かかった。


 幼い私は糸が切れるように眠りに落ちた。






 男は私に、風呂と、食事と、着替えを与えた。


 私が眠りから覚めると男は宿をとっていたらしくまず風呂に放り込まれた。これはもう放り込まれたという文字どおりだった。服のまま大きな桶に突っ込まれたのだ。

 私の入った湯はすぐに真っ黒になった。自分がどれだけ汚かったかぞっとしたが、それ以上に私を腕に抱いて歩いていた彼は、さぞや臭い思いをしただろうと申し訳なく思った。


 がしがし頭と体を洗われた後、布を渡され、頭を拭くようなしぐさをされた。自分で拭けという事らしかった。そして、真新しい子供服を与えられた。わざわざ買ってきてくれたのだろうか。男の態度には、自分の身の回りの世話は自分でしろという無言の圧力があった。


 どうやら幼女を育てる趣味や甲斐甲斐しく世話を焼きたいという願望はないらしい。一つ安心である。


 余談だがこの時私は初めて自分の容姿を認識した。波打ち、透き通るような淡い金髪に、紫の瞳をした色白の線の細い幼女が自分だった。成長につれて劣化する恐れはあるが、今現在は愛らしいと表現できるのではないだろうか、我ながら。

 だが、派手な容姿にステータスを余分に割くくらいなら、せめて偏らず均一に割り振りしてほしかった。

 主に生活環境とか。


 この世界で初めて食べた人間らしい食事は、肉団子の入ったシチューのようなものと、パンである。

 私は目の前の男に手を合わせて日本語で丁重に『ありがとうございます!いただきます!』と頭を下げてから貪り食った。それはもう豪快な食いっぷりだった。アラサー女子としてのマナーやら恥じらいより人間としての欲求が勝ったのだ。


 腹が満たされると急激に眠くなった。子供の体は、私が思う以上に食べたら眠くなるまでのスパンが短いらしかった。

 男は宿の一室のベッドに私を放り込むと、自らもその隣で横になって死んだように静かに眠った。


 一瞬、ベッドに放り込まれて男が同じ毛布に潜り込んできたときは身の危険を感じたが、杞憂だったようだ。男は移動以外で私に触れてこない。安心である。


 男はほとんど何も話さない性格なのか、私が言葉を理解できない幼女だからか、とにかく無口な人間だった。それに、一所に定まらず移動しては宿を転々としていた。

 この世界の文明は前世ほど発展していないようだった。電気や車、汽車もなく、町ゆく人の服装や建造物は弟が勉強もせずに熱を入れていたRPGの世界のそれに近い。剣と魔法の世界だ。


 そうだろうとも。

 そうでなければ、あんな豚男がいてたまるものか。


 あの豚男を見たせいか、私は前世とは全く関わりのない別世界に転生したという事実を受け入れている。というか、牢という最悪の底辺からスタートしたことで、心のシャットダウン機能がいかれてしまったのかもしれない。


 助け出してくれたこの男には感謝してもしきれない。


 だが、人々は男を避けているようだった。

 宿は必ず1日で出たし、できるだけ表通りを避けるように移動していた。

 部屋を出るときには必ず頭に布を巻き付け、髪を隠した。


 そういえば、この世界の、少なくともこの地域の人間で銀髪はまだ見かけない。前世でも銀髪やらプラチナブロンドは少数派だったし、日本人やアジア系の人種には黒髪が多く生まれながらの金髪は私の周囲にもいなかった。この男の生まれがこのあたりの地域ではないだけかもしれないが、圧倒的少数派に対しての偏見や忌避───男が人々を避けているのは、そういう事があるせいなのだろうと、私は勝手に納得することにした。


 男は笑わなかった。時折、眉間に皺を寄せて困ったような顔をすることはあったが、その精悍すぎて怖い顔に愛想笑いのひとつも浮かべはしなかった。

 私は何度か日本語で『名前を教えていただけませんか?』と訊ねたが、彼はやはり眉を寄せるだけで伝わらなかった。


 せめて私がこの世界での自分の名前を覚えていれば、レオのように自分の名をアピールできたが、知らないのだから仕方ない。


 前世での名を名乗るべきかと考えたが、やめた。転生人は新たな名で生きるものだと思ったからだ。そういう暗黙の了解だと感じた。それに、ルール違反を犯してこれ以上酷い目にあったらたまらない。


 男は何かを探しているのか、私を引き連れて歩くことが多かった。宿に私を置いて出かけるのではなく、宿を確保し、その周辺を回り、宿に戻って休む。次の日にまた別の町に移動し、宿を取る、という移動方法である。


 この世界は自然豊かで、町と町を隔てる森があった。建物の造りや食事の内容、道行く人々の服装や看板に書かれている文字から、同じ国内を移動しているのでは、という予想はできた。私の小さな足は歩数を稼げず、宿を出てしばらくすると大抵男は私を抱っこして移動するはめになっていた。申し訳ない限りである。


 毎日移動して宿を変えるので、10件目、つまり私がこの男に保護されてから10日目である。

 その日は雨が降っていた。昨日の宿からそう移動していない場所で、男は宿を探していた。


 私は男のマントにくるまれて雨に濡れてはいないが、男は頭に巻き付けた布から水が滴り、一部ほどけて銀色の髪が一房のぞいていた。


 男は私を左手で抱いたまま、宿の扉を開いた。

 受付、と表現すべきであろう板を張り合わせただけのような簡素な机の向こう側に立つ老婆が男を見た瞬間、ひっ、と息をのむような短い悲鳴を上げた。


 その反応に、男は立ち止った。


 小さな老婆の悲鳴に気付いたのか、受付の奥に設えられたテーブルで酒を煽っていた人間たちが椅子を跳ね飛ばす勢いで一斉に立ち上がった。


 中年の男が多かった。それも脛に傷のいくつか持っていそうな男たちだった。

 前から歩いてきたら慌てて道を譲るもしくは気付かなかったふりをして回れ右したいような見てくれの男たちである。


 その中の一人が、声を震わせて叫んだ。それは連鎖するように広がった。

 男は困ったように眉を下げて、黙って宿を後にした。


 その日は結局、男は宿を取ることを諦めた。

 町がざわつき、人々は戸を閉め切っていた。

 往来で男を見た何人かが腰を抜かすこともあった。


 逃げるように人気のない森へ入ると、男は仕方なしといった風に、慣れた手つきで森に即席のテントを張り、野宿することに決めたらしかった。


 昨日と同じ国にいるはずなのに、この扱いの差は何なのか。


 それよりも、この男は何をしてここまで嫌われたのか。指名手配犯か何かか。 いや、この男には追われているという切迫感はない。銀髪か、銀髪は悪魔の象徴だとか、そういう迷信が根強い地域なのか。青い目の人間はこの男以外にも居たはずだ。それとも顔か。顔が怖いからか。それとも私か?私が呪われた子とか、そういう事なのか。そういえばこの世界で目覚めてから金髪にもお目にかかっていないが。

 だが老婆はこの男を見ていた。視線は、まっすぐ男に向けられていた。


 この人は、嫌われるような人じゃないのに。


 命の恩人という圧倒的な善という贔屓目を差し引いても、言葉も話せない幼女を保護してくれて売り飛ばさずに連れて歩いてくれる人間が悪人なはずがない。

 と、思いたい。いや、私はこの10日間で、そのくらいにはこの男を信頼している。


 干し肉と木の実を与えられた私は腹が満たされると男の用意した枯葉の上で丸まって眠った。意識が落ちる間際、わずかな月明りに照らされた彼の横顔は、いつもと変わらぬ無表情であったが、私にはどこか寂しげに見えた。

 次の日、朝早く起こされた。移動するらしい。男は私に訊いた。


「歩けるか」


「はい」


 移動前、彼が私に必ず言う言葉は、おそらくこれだと思う。私はようやく「はい」「いいえ」をマスターした。もちろん、それ以外は何か話しかけられてもさっぱりなので首を傾げるしかないわけだが。


 幸いにも雨は上がっていた。

 昨日とは違う町に入ってすぐ、男は馬を買った。仕事をしている様子はないが、金に困っているふうでもなかった。もしかしてそれなりの身分の方なのか、それともとんでもない悪党で奴隷商人を叩き潰してはその上前を撥ねて一財産築いたのか、私にはわからない。


 栗毛の馬にちょこんと乗せられた私は、後ろから抱きかかえられる形で前世含めて初めての乗馬を体験した。


 私は高揚してきょろきょろし通しだった。

 町を出て、男は真っ直ぐ続く轍を辿るように進んでいく。速度はそんなに早くない。私に気を遣っているのかもしれなかった。


 しばらく進むと、道が舗装された通りになった。舗装と言っても、アスファルトが敷かれているわけではなく、木の根や岩、小石がないという意味だ。


 手入れされた道であるにも関わらず、人通りはほとんどなかった。道の両側は殺風景な野原が続き、対比物がないせいでどれくらい遠くにあるかわからない山や森が見えるくらいだった。


 昼過ぎまで馬を走らせると、馬上で寝掛かっていた私の鼻腔を芳香がくすぐった。

 目をこすりながら周囲を見回す。


『わあ……!!』


 私は感嘆に身を乗り出して声をあげた。

 そこは、舗装された道の両側に色とりどりの花が咲き乱れる花畑だったのだ。


 興奮して私が落馬しそうになって、男は馬を止めた。そして、私を抱きかかえたまま花畑に入り、座った。


 男は何か言った。意味はわからない。だが、遊んでいいぞと、そんな風に言われた気がした。

 男の側で花畑を見渡し、私は笑った。


 この世界は理不尽に満ちていた。私に対してちっとも優しくなかった。

 この男に対しても世界は冷たいように感じた。


 この世界は、私たちを嫌っている。

 そんな風にどこか思っていた。


 この世界で、初めて、声を上げて笑った。


 男は無邪気に笑う私に、初めて、ほんの少し、微笑んでくれた。

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