出会い
生まれ変わったら何になりたいと訊かれて、奴隷や囚人と答える人間はいないだろう。
私もできることなら、姫として着飾ったり、翼のある生き物に乗って旅をしたり、まあせめて普通の農家などに生まれて騎士様と恋に落ちたりしたかったものだ。
牢で目覚めてから2日ほどで私は理解した。
私は転生した。生まれ変わった。しかも、これまで暮らしていた世界とは別の世界で。
この世界に神様はいない。きっといない。
いたとすれば、ひどく意地悪な神様に違いない。
何が悲しくて人助けの途中で事故死した私がこんな風に転生せねばならんのか。
私は牢に入っている。食事は与えられていない。空腹で座っているのもだるい。
牢の隅には木製の洗面器ほどの桶が置かれていて、そこには水が入っているが、とても飲めそうには見えなかった。底には虫の死骸が沈んでいるし桶自体も苔か汚れかで滑っていた。ぞっとするほど不衛生だ。だがしかし、飲んだ。飢えと渇きには抗えなかった。
予想通り、生臭い味がした。舌がピリピリする刺激もあった。だが飲まずにはいられなかった。私は本能的に生にしがみつこうとしていたのだ。
予想通り腹を壊した。トイレなどという文化的な代物はこの牢にはなかった。
牢の隅で用を足した。トイレットペーパーという日常品などあろうはずもない。
ここでは暖を取るための布きれ一枚も与えられないのだから。
夜は冷えた。先住人の血か、排泄物か吐瀉物かわからないが、それらがついている藁を集めて、丸まって眠った。
朦朧として過ごす私を外界と繋ぎとめたのは壁の隙間だった。わずかながら差す光、たったそれだけが私の精神を支えていた。
日に一度、必ず見回りがあった。見回りに来たもの達の、その姿を初めて見たとき私は気絶した。
身の丈2メートルはありそうな筋骨逞しい男には、額から2本の角が生えていた。その後ろに続く男の顔は、豚のそれだった。
人間ではない。
表現し得ない嫌悪が胸の中で黒く渦巻いた。
男たちは何か話をしていた。悪い笑みを浮かべながら話していた。何を話しているのかはさっぱりわからなかった。少なくとも日本語でも英語でも中国語でもなかった。当然である。奴らは人間ですらない。
きっと彼らの種族の言葉なのだ。私は人間ではない彼らが人間の言葉を理解できないのも当然かと考えていた。
この世界で目覚めてからおそらく3日目、ルームメイトができた。家族連れだった。
両親と、男の子だ。彼らは粗末な麻袋に首と腕が出せる穴を開けただけのおよそ服とは呼べない代物を纏っていた。私の衣装とお揃いである。
両親らしい男女のうち、男の方はひどく殴られた痕があった。家族を守ろうとしてあの屈強な怪物たちと戦ったのか、一方的にボコボコにされたのかはわからないが、どう贔屓目に見ても、その男も、その連れの女もここから私を助け出してくれる天使には見えなかった。
彼らは私に向かって何か話しかけてきた。
そこで私はこの世界何度目かの絶望をした。
私のこの世界の記憶は数日前、牢で目覚めたところから始まる。それ以前の記憶はない。
この世界の人間との接触はこれが初めてである。
半分怪物の男たちの言葉が理解できないのは仕方ないと思った。種族が違うのだから言語も違うだろう、私が理解できないのも当然だと。だがそうではなかったのだ。
私は、転生するなら必須項目であろう言語変換能力を授からなかったのだ。転生すれば必ず、その世界の言語が理解できると先入観を持っていた私がどれほど打ちのめされたかは人類の持つ言葉というツールでは表現しきれない。
すでに何かしら話せてしかるべき年齢で目覚めてしまったが為に、これから覚えるにしてもきっと苦労するだろ。まあこれからがあればの話だが。
何度か日本語で『ここはどこですか?』と訊いてみた。しかし、父親らしい男性は小首を傾げて現地語で何か言うばかりで一向に伝わりそうもなかった。
詰んだ。
前世で読んだ漫画や小説に転生や転移というネタはそれこそ星の数ほどあった。
しかし、それは姫に生まれ変わったり、平凡ながら商家に生まれ王子様に見初められたり、少なくとも奴隷や囚人ではなかったし、人生の途中で目覚めるなども例外的だったように思う。
言葉がわからないうえに、人生の途中から目覚めて、これまでの記憶もなく、牢に入れられている。どうやら自分はハズレを引いてしまったようだ。
私が投げやりな気持ちになるのは、仕方なかったと思う。
前世、私は自分なりに良い最期を迎えたと思っていた。目覚める前は確実にそう思っていた。だがしかしこの仕打ち。
私は冷たい石の上で膝を抱えて丸くなった。もうどうとでもなれという気持ちだった。
圧倒的不利、この状況を打破するには私が実は神の子でそれはもう驚異的なパワーを使えるとかそういうチート能力の一つや二つが必要だった。
擦りむいた掌からは、光も水も炎も出なかった。がっかりである。
きっと、死ぬまで過酷な労働を強いられたり、変態の金持ちに奴隷としてあらゆる酷い扱いを受けたり、人間狩りという見世物で殺されたり、もしくは私は幼女だが実は物凄い悪人か悪人の家の子供で、首を刎ねられたりするのだろう。
すっかり落ち込んでいる私に、新入りの男の子が何か言った。
『ごめん、何言ってるかわからない』
私は素気なかった。28歳の大人として少年を気遣う余裕はなかった。
おそらく幼女の私と年齢のそう違わない少年は、しかしまた何か言って、黒い物体を私に握らせた。
『なに?』
もう何日も何も食べていない私は力を振り絞るようにして上体を起こすと、彼はまた何か言った。
私が小首を傾げると、少年は私の手から黒い物体を取り上げて、二つに割った。そしてその断面を食べた。
そうか。
この子供は、何もわかっていない私に生きる道を与えてくれているのだ。
私は黒い物体のにおいを嗅いでみた。無臭である。おっかなびっくり一口齧ってみた。
味は、芋に近い。もっとしっとりしていて、歯にひっつきそうな粘り気があるが、食べられる。
無心で黒芋に齧りつく私に、少年は満足そうだった。
少年の外見は愛らしかった。明るい茶髪に、聡明な緑の瞳。まだあどけなく完成されていないが、青年になる頃にはそれはいい男になるだろうと私は現状に不釣り合いな明るい感情を抱いた。
こうして、初めてこの世界の人間と交流した私は、やっと自身の楽観的かつ前向きな自分らしさとでも言える思考をわずかながら取り戻した。大切な事なので2回言おう。わずか、である。
少年は自身の胸に手を当てて、おそらく自分の名を名乗ったのだろう。レオロキスだかレオロウィスだかレオロティスだかわからないが、私が「レオ」と復唱すると頷いた。
食事は2日に一度しかもらえなかった。しかも、黒芋が4つ。1人1個の計算だろう。
だがレオは牢に入って5日を過ぎて、いよいよ瞳に光を失い始めていた。
私は黒芋を半分程レオにやった。この幼気な少年が目の前で死んだりしたら、それこそ私が立ち直れないかもしれない。
私が身振りでお前が食えと示すと、レオはがつがつと貪った。
レオ達がやってきてからも何人か連れて行かれていた。
それまでも、連れて行かれる人はいた。閉じ込められている全員が“人”とは限らないが、言語を操る生命体という意味で人としておく。
牢には、女も、男もいた。静かに連れて行かれるものも居れば、抵抗するものもいた。
怪物たちの足音がする度に、レオの両親は私たちを守るように覆いかぶさり、時には両手で耳をふさいでくれた。
すっかり体感時間はあてにならなくなったが、数時間漏れ入る光でなんとか夜が明けたことは分かった。日が落ちると私たちは眠った。
私たちが眠っている時間帯、奴らは決まって夜にやってきた。
その日、足音は私たちの牢の前で止まった。
牢に入って、10日目の事だった。
寝ぼけ眼の私をレオの母が、レオを彼の父が連れて行かせまいときつく抱きしめた。
豚の顔をした男が牢の鍵を開けて中に入ってくると、そいつは人間と同じ構造の手でレオの母から私をひっぺがして壁に放り投げた。幼女の私の体は軽く、壁にぶち当たった反動で床の上を転がった。
目が回り、体は私の命令を無視して動かない。
豚男がレオの母親の腕を引っ張って立たせた。レオの母が小さな悲鳴をあげた。父親が何か叫んだ。
化け物は薄汚く笑って、牢の外の仲間にレオの母を引き渡す。レオの父が怪物に殴り掛かった。
『ダメ!』
私は叫んだ。無様に転がった姿のまま叫んだ。
その声がかき消されるような怒号とそれに続く地震のような衝撃が起こった。
それは一瞬だった。そしていくつもの出来事が重なった。
レオの父親が豚男に殴り掛かり、しかしその拳はあっさりと避けられ代わりに繰り出された豚男のパンチは人間を宙に吹き飛ばす威力があった。私が叫んだ時にはもう、レオの父親の体は投げ出されていた。 そこに騒乱が重なった。
怒号、金属の音、それに続く断末魔。
そして地鳴りのような重低音と振動。
何が起きたの、そう思うより早く、目の前の豚男の体が両断された。
崩れる豚男の背後に立っていたのは、背の高い男だった。
その銀色の髪、やや吊った、剣呑な光を宿す青い瞳、通った鼻梁は高く、薄い唇は凛々しく引き結ばれていた。
黒いマントと、その手に握られた湾曲した大ぶりな剣。
彼は、倒した怪物の骸から鍵を探し出してレオの母に投げた。
続けざまに低く彼女に何かを告げた。
おそらく彼は「囚われている者を解放しろ」とでも言ったのだろう。レオの母はレオと父に呼びかけると気丈にも他の牢の鍵を開けて回ったようだった。
レオが私に何か叫んでいた。早く来いとか、そういう内容だと思う。
だが、私は目の前の男に釘付けになっていて動けなかった。