表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/15

姫刻の巫女

 目が覚めると、部屋には誰もいなかった。紅は神社だろう。夏休みであっても、巫女のお勤めに休みはない。


 床に倒れたはずなのに、ちゃんとベッドで寝ている。昨夜のことは夢だったのではないか……一瞬疑ったが、後頭部の鈍い痛みと見事なたんこぶからすれば夢ではないのだろう。紅がベッドまで引きずってくれた、という可能性が高そうだ。

 

 時計を見る。既に10時を回っている。俺はベッドから飛び起き、軽くストレッチをした。そして、日課となっている剣術の鍛練を行う。


 俺の嗜む流派の名は鬼哭流。無論、姫刻神社に伝わる退魔の業だ。本来俺は神社の関係者ではなく、この業を学ぶ資格もなければ、正式に学んだこともない。俺の業は、すべて母の鍛練から看取ったものだ。


 母は子供の俺の目から見ても、若く綺麗な女性だった。記憶に残る母は、今の俺と同い年くらいだったのではないかとすら思える。そんなことはあるはずがないのだが。


 毎日顔を見ているのに、愛情を注がれた記憶がないからだろう、俺が母に抱く感情は、世間一般のそれとは異なるのではないか。今から思えば、近所のお姉さんへの憧れに近かったような気がするのだ。

 

 母は、紅を産んだ後すぐ、正気を失った。精神が巫女であったころに退行したのだろう。俺と紅に見向きもせず、ただひたすら姫刻神社で修めた業を磨き続けた。そして俺が十才の時、


「どうして鬼は現れないの? こんなに頑張っているのに……」


 そう言い残して、母は死んだ。


 俺には、母の人生が意味のあるものであったとはとても思えない。だから正直なところ、紅が母と同じように巫女となるのにも反対だった。しかし結局は、俺は口を閉ざした。紅の意志に反してまで桃園の家に関わる気にもなれなかったし、桃園の援助がなければ、紅も俺も経済的にやって行けなかったからだ。そして今も、俺は紅の苦労を見てみぬ振りをしている。

 

 そんな格好悪い自分を忘れるのに、鍛練は最適だった。母がそうしたように、嫌なことをすべて忘れて頭の中を空っぽにできる気がするからだ。

 

 たっぷり一時間程度動いて、俺は鍛練の汗をシャワーで流した。部屋に戻ると、巫女服姿の紅がいた。


「紅、神社は?」


「休憩中」


昨夜のことをまだ怒っているのか、機嫌が悪そうだ。


「昨日は悪かったな。お菓子買ってきてやれなくて。今度ラヴィの特大パフェでも奢るから許してくれ」


 俺は、これ以上機嫌が悪くなる前に謝る作戦に出た。紅が大好きな駅前の喫茶店ラヴィの、2000円の特大パフェは言わば切り札だったのだが、紅は食いついてはこなかった。いつになく真剣な顔で、真っ直ぐに俺を見つめる。


「ねぇ、お兄、あたしの体、見て?」


 そう言って、紅が巫女服を脱ぎ始めた。


「ば、馬鹿、何してるんだよ!? やめろって、俺は別に妹の裸なんて見たくないぞ!?」


 そうは言ったものの、俺は紅から目を離すことができなかった。紅はするすると帯を解いて袴を脱ぎ、着物の前をはだけた。

 

 紅の身体を最後に見たのは、それこそ小学生の時だ。今の紅の体は、見知らぬ少女のそれだった。無駄な脂肪のついていないほっそりとした体つきながら、微かに女性としての丸みを帯び始めている美しい身体だ。


 その妖精のような身体を見て、俺は絶句した。紅が何を見せようとしたのかは明らかだった。露になった紅の下腹部に、びっしりと意味不明な紋様が刻まれていたのだ。


「どう、怖いでしょ? 巫女に退魔の刺青を施す、これが姫刻神社の名前の由来だよ」


 姫を刻む、ということか……。まだ年端も行かぬ少女に酷過ぎる。こんな体では、紅は……。


「これじゃ、まともなところにお嫁にも行けないよね」


 俺の心を読んだかのように、紅が自嘲した。


「何でだよ!? 桃園のおじさんは何で紅にそんなことするんだよ!? 鬼退治だかなんだか知らないが、そんなお伽話のために……」


「お伽話なんがじゃない。鬼はいるんだよ、本当に。そうでなかったら、お母さんもあたしも、姫刻の巫女になんてならなかった」


 つまり、母さんの体にも、このおぞましい刺青があったということか。確かに物心がついてから、母さんの肌を見た記憶などないから、気付かなかったのだが。


「でも、母さんは鬼には会わなかったんだろ?」


「うん、そうらしいね。でも、それは鬼なんて存在しない、ということじゃないの。ただ単に、時期が合わなかったというだけの話だよ。お母さんにとって、それが幸だったか不幸だったかは、わからないけど……」


「そんな、この21世紀に鬼がいるなんて……」


 あり得ない、そう言おうとして、俺はその可能性を否定する根拠を何一つとして持っていないことに気づいた。むしろ、昨夜の面妖な吸血鬼や魔理亜との遭遇は、そうしたものがいることの証左ではないか。


「鬼は、いるよ。そして、あたしもお兄も、鬼の血を引いているの。この封鬼の地に封じられた、九番目の鬼の血を。九つ鬼(ここのつき)、それが、その鬼の名前だよ」


 九つ鬼、ココノツキ、此処之月……変わった苗字だとは思っていたが、そんな意味があったなんて。はっきり言って、気分が悪い。架空の存在であったとしても鬼は俺にとって、母を、そして俺の家庭をばらばらにした憎むべき存在であったから。それが、実在するなんて……。


「でも、なんでそんなこと、急に俺に話す気になったんだよ?」


 今まで神社でのことも桃園家でのことも一切話たがらなかった紅が、なぜ今になってこんなことを俺に話すのか、俺には解せなかった。


「……あの女に、お兄を取られると思ったから」


 真っ赤になって俯いた紅は、小さな声で、だがはっきりとそう言った。


「馬鹿、お前、そんな……お、俺たちは兄妹なんだぞ?」


「あたしの前に鬼が現れようと、現れまいと、多分あたしが正気を保ったまま普通の女の子みたいに幸せになることは難しいと思う。だから、あたしには、お兄しかいないんだよ……。あたしのこと、見捨てないで」


 目に涙を浮かべてそう言った紅を、俺は思わず抱きしめていた。細く、小さな身体は、少し力を込めるだけで折れてしまいそうなほど、華奢だった。


「紅……」


 紅の濡れた瞳が俺を見つめる。そして……激痛が走った。俺の股間に。


「いくらあたしの演技が見事だったからって、急に妹に抱きつくなんて、キモいよ、お兄」


 俺の金的に膝を叩きこんだ紅は、うずくまる俺に見向きもせず、手早く巫女服を着直して部屋から出て行った。


「あ、ラヴィの特大パフェ、忘れないでよね!」


 去り際の紅の明るい声に返事することもできず、俺はしばらくの間床の上をのたうち回った。


***


 ようやく激痛から回復した俺は、一旦は紅の言葉の真意を考えようとしたが、結局諦めてしまった。考えようにも情報が不足している。とりあえず、俺は図書館へ出かけることにした。


 元々、今夜魔理亜と会う前に、一応悪魔や吸血鬼について予備知識を得ておこうと思っていたのだが、ついでに鬼のことも調べておいた方がいいだろう。


 富貴市は人口10万人程度の市だが、市立図書館は割と充実している。俺はほとんど利用したことがなかったが、前に紅に聞いたところによれば、この地自体が民俗学的に非常に興味深い特徴を有しているらしく、そのこととの関係で、民間信仰やオカルト系の蔵書も多いのだそうだ。そこなら、何かしら役に立ちそうな資料が見つかるのではないか。十分に期待できる気がした。


 俺の家のある貴谷山は富貴市の北東の果てにあるため、市立図書館のある富貴駅前の市街地までは、結構遠い。距離的には自転車でいけないこともないが、30分近くかかってしまうことと、駅前の駐輪場の混み具合から考えれば、電車を使う方が早くて便利だ。電車賃も片道240円と大したことはない。


 最寄りの駅から10分ほど電車に乗って、俺は富貴駅前に辿り着いた。 富貴駅前は市内で唯一と言っていいくらい人の多い場所だ。ショッピングモールも娯楽施設も充実しているため、大抵の用事はここで済む。バイト先のカフェも富貴駅前にあるため、俺はよくここまで来る。


 夏休み真っ只中の昼下がりということもあって、駅前には俺と同じような暇人たちがうようよいた。

 

図書館に行く前に腹ごなしをしようと、行きつけのファーストフード店に向かって歩いていると、前方から可愛らしい学生服姿の女の子が二人歩いてきた。


 この制服は確か、聖なんたら女学院とか言うお嬢様学校の制服だったはずだ。俺は何気なく二人の顔を見た。一人は美しい黒髪と生気に満ちた勝気な瞳が魅力的な、細身の美少女だ。もう一人は……。


「魔理亜!?」


「ご、ご、ご……」


 賢明にも、ご主人様という言葉は飲み込んだようだ。友達の前でそんなことを口走れば、下手をしたら次の日には学校中から好奇の目で見られることになるだろう。


「本当に太陽の下でも大丈夫なんですね」


魔理亜が微笑む。修道服も似合っていたが、やはり制服姿は格別だ。グレー地にブルーのチェックの入ったブレザーとミニスカートに身を包んだ魔理亜は、非の打ちどころのない制服美少女だった。


「まあな。なあ、ひょっとして、そのスカーフ……」


 俺は、 魔理亜が首にスカーフを巻いていることに気付いた。おそらくは、昨夜のキスマークを隠すためのものだろう。俺は思わず、にやついてしまった。


「あぅ、これは、その……」


 魔理亜が真っ赤になって口ごもる。可愛すぎる。


「ちょっと、あなた、魔理亜に馴れ馴れしくしすぎなのですわ。魔理亜、ひょっとして、このみすぼらしい男と知り合いなのですか?」


 汚物をみるような眼で俺を見ながら、黒髪の少女が言った。確かに、ジーンズにグレーのTシャツを着てつっかけを履いた俺の格好はゴージャスとは言い難いが、初対面の少女に罵られほど酷くもないと思うのだが。


「あの、えっと、この人は……」


 なんて呼べばいいか悩んでいるのだろう。俺の方をちらちら見て助け舟を求めている。


「名前で呼んでいいぞ」


 黒髪の少女に、俺と魔理亜の特別な関係を見せつけてやりたくて、俺は魔理亜に許可した。


「えっと、蒼、くん……」


 はじめて俺の名前を呼んだ魔理亜は、真っ赤になって下を向いてしまった。期待通りの可愛い反応だ。これで黒髪少女も理解しただろう。


「ちょっ、魔理亜はこんな男と名前を呼び合うような仲なのですか!?」


「そういうことだ」


 黒髪の少女は悔しそうだ。どうやら、魔理亜に特別な感情を抱いているらしい。


「昨夜の約束は覚えているな、魔理亜」


 余裕たっぷりに俺は魔理亜に確認した。


「は、はい」


 魔理亜が真っ赤な顔で頷く。


「魔理亜、昨夜の約束ってどういうことですの!?」


 黒髪少女の狼狽ぶりが愉快だ。


「答える必要はないぞ。その子には関係ないことだ」


 勝ち誇って言ってやった。黒髪少女が悔し涙を浮かべる。


「ごめんね、葵ちゃん」


 本当に申し訳なさそうに、魔理亜が謝る。 黒髪少女の名前は葵か。いかにも日本美人な外見にしっくりくる。


「あなた、魔理亜に指一本でも触れたら許しませんからね」


 葵が魔理亜を隠すように俺の前に立ち塞がった。君の許可を得る必要なんてない、と言ってやろうとしたとき、事態が急変した。


「けけけ、見せつけてくれるじゃねぇか。かわいこちゃん二人も独り占めしやがって。どちらか一人分けてくれよ」


 いやに古風なセリフを吐いて、四人の男たちが俺たちを取り囲んだ。空手か柔道か、如何にも格闘技をやっていそうな大学生くらいの五分刈りの男たちだ。黒髪の方ならどうぞ、そう言ってやろうかと考えた瞬間、葵が口を開いた。


「あなた方バカですの? あなた方のような屑をわたくしや魔理亜が相手にすると思っているのですか?」


 俺は頭を抱えた。いきなり個人情報を晒すなど愚の骨頂だ。着ている制服と下の名前だけからでも相当のことがバレてしまうというのに、危機管理が全くなっていない。


 ただ、俺は何となく、この男たちが白昼堂々俺たちに絡んできたことに違和感を覚えていた。こいつらはチンピラ風というよりは寧ろ体育会系に見える。こうしたセリフを吐く輩には見えないのだが……。


「おい、魔理亜、こいつらも吸血鬼か?」


 気になって魔理亜に耳打ちしてみる。


「いえ、この方たちは違うと思います。吸血鬼は普通白昼堂々とは現れませんから」


「それもそうか。白昼堂々出歩ける吸血鬼なんて、俺ぐらいだもんな」


 おどけて言ってみる。


「でも、気を付けてください。普通の人間とも思えません」


 魔理亜は真剣だった。確かに、こいつらの目には理性の色が見えない。


「けけけ、けけ、何をこそこそ言ってるんだあ!? しばくぞ、コラ!」


 男の一人が声を荒げる。


「魔理亜はわたくしが守りますわ」


 葵が一歩前に出た。軽く重心を落として半身に構えている。言うだけあって、葵の立ち居姿に隙はない。修めた技は合気だろうか。俺の目から見てもかなりの遣い手だ。だが残念ながら、葵の技がいかに優れていたとしても、多少の技量差が意味をなさないほどの体格差だ。俺が何とかするしかないだろう。


「魔理亜は頼んだぞ」


 俺は葵の肩を軽く叩いて男たちの前に出た。男たちの注意が一気に俺に集まった。

 

 俺はポケットに入っていた十円玉を、先頭の男の顔目掛けて軽く指で弾いた。男の視線が十円玉に移る隙を捉えて、俺は一気に重心を落とす。と同時に、上体を低くしたままその反動で地を蹴り、瞬時に間合いを詰める。


 鬼哭流の代表的な歩法、闇渡りだ。ほんの一瞬ながら、俺の姿を見失った男の水月に、居抜きの柄で突く要領で当て身を繰り出す。男は胃液を吐いて悶絶、した……? イメージした通りの理想的な動きだったのだが、違和感。男に触れた手に、何やら不自然なぬめりを感じたのだ。


 しかし、躊躇している余裕はない。まだ3対1、取り囲まれてしまえばこちらに勝ち目はない。

 

 俺は崩れ落ちる一人目の男の作る死角から、再び闇を渡った。流石にもう、男たちは構えを取っている。バランスのいい空手の構えだ。だからこそ、俺にも勝機があるだろう。こういう奴らは大抵、邪道な攻めには慣れていない。


 俺の姿を捉えられていない二人目に密着するように、俺は歩を進める。打撃を警戒して身を強張らせた男の金的に、俺は膝を叩きこんだ。おぞましい呻き声をあげて、男がのた打ち回る。これで、二人。さすがに太陽の下ではこれ以上相手の隙を突くのは困難だ。


 三人目が俺に正拳突きを放ってきた。十分に体重の乗った一撃は、まともに食らえばそれだけでKOされてしまうだろう。しかし、正拳を捌くのも、剣での刺突をいなすのも何ら変わるところはない。俺は両手で相手の拳を受け流し、男の足の甲を踏み抜いた。同時に、がら空きの胴へ突きをお見舞いする。やはり不自然なぬめりを感じた。しかし、残りは一人。

 

 最後の一人は、流石に警戒しているようだ。安易に飛びかかっては来ずに、しっかりと間合いを測っている。正面からの打ち合いは流石に分が悪い。どうしたものか……。俺が攻めあぐねていると、突如として四人目の男が宙を舞った。


「魔理亜はわたくしが守ると言っているのに、目立ち過ぎですわよ、あなた!」


 こっそりと男の背後を取った葵が、男を投げ飛ばしたのだ。男は受け身を取ることもできず、見事に頭からアスファルトに落下し、ぴくりとも動かなくなった。


「お、おい、あの落差で頭から落ちたら、死んだんじゃないか?」


 自分で言いながら、血の気が引いた。男が死ねば、俺も殺人の共犯にされかねないんじゃないか? 


「えぇ!? そ、そんな……」


 葵は慌てて男に駆け寄り、脈を測った。


「よかったですわ。生きてま……す!?」


 葵が胸を撫で下ろした瞬間、男の口から何やら赤くぬめぬめしたグロテスクな物体が飛び出し、葵の口の中へ吸い込まれた。すると見る見る葵の瞳が虚ろになっていく。


「けけけ、お前強いな」


 葵が舌舐めずりしながら俺を指差す。


「褒めてもらって恐縮だが、お前、何者だ?」


 俺の問いを、葵にとりついた何かは無視した。


「おい、罪詠魔理亜。この女の命が惜しければ、今夜お前一人で浄水場まで来い」


 そう言って、何かに乗り移られた葵は、けけけと笑いながら走り去って行った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ