魔王バアル
「なかなか面白い余興であったが、我の相手はお主でよいのか? 桃園 紅を手玉にとったその女性の方が良いのではないかな」
手駒の紅があっさりやられたというのに、まったく焦る様子もなく、女がくすくすと笑いながら言う。その挑発を、俺は無視した。
「お前がバアルか?」
一応、確認する。図書館で見たような化け物ではないようだが、バアルでないなら何故こんなことをするのか理解できない。
俺の問いに、女はこちらに近づきながら、ばさり、とマントを翻した。
「いかにも。我が魔王バアルである」
俺は絶句してしまった。マントから現れたのは、挿し絵に描かれた老人の化け物とは似ても似つかない、幼女だったのだ。
頭に王冠をしているのは挿し絵の通りだが、緑のフード付きマントがカエルを模しており、マントの下は猫プリントの下着姿だ。わき腹のところにはファンシーな蜘蛛がペイントされている。
露出度は極めて高いが、膨らみが見えないほどの貧乳で、色気はないに等しかった。
「どうした? 我の異形に恐れ慄くがよい」
バアルがない胸を張る。
「おい、魔理亜、お前の祖父さんは本当にこんな幼女を従えて戦っていたのか?」
「さ、さぁ? わたしも見たことはありませんし……」
魔理亜も流石に呆然としている。恐ろしい悪魔に命懸けで挑む……一瞬前まで胸に秘めていたそんな決死の覚悟のやり場に困っているのだろう。
「だー、魔王がこんなにロリロリしてるとか、意味がわからん」
俺は思わず頭を抱えてしまった。
「でも、お祖父さまが言っていました。悪魔は、人々の恐怖が具現化したもの、だから、その時代時代に適した姿に、つまり、人が求める姿に変わる、と」
なるほど。つまり、これが時代の選択、というわけか。
「いまいち納得はいかないが、とりあえず聞かせろ。何故、魔理亜を狙う?」
「愚問。その娘は我を封じし古代の王のみならず、古の大聖人の血を引いておる。しかも、神に愛されし黄金率の体まで有しておるのだ。喰らわずにおられるはずがなかろう」
黄金率、そう言えば、タコ女もそんなことを言っていた。
「黄金率って何だよ」
「物を知らぬ人間よな。神が自らの似姿として人間を創造した際の、設計図通りの体の均整のことじゃ。より正確には、体の要所要所の構成比が、一に対して六割一分八厘増しとなる比率のことを黄金率という。要するに、罪詠 魔理亜は生まれながらにして、神が自らの手で造ったが如き神性を備えておるということじゃ。我に捧げるために、よくぞその身を清いままで残してくれたものよ」
くくくっ、とバアルが笑いながら舌舐めずりした。可愛らしい声とは裏腹に、意味の分かりにくい、もって回った言い回しにイライラする。
「じゃあ、なぜ紅を利用した」
「それはその小娘が愚かにも我に挑み、そして破れたからじゃ。ただの人間を喰らったところで得られる力はたかが知れておる。それならば、罪詠 魔理亜を喰らうために利用する方が理に適っておろう」
幸い、紅に鬼の血が流れていることに、バアルは気付いていないらしい。気付かれていれば、今ごろ紅の命はなかったかも知れない。
これで、とりあえず必要な情報は揃った。後は、どのように目的を達成するかだ。つまり、バアルに紅との契約を破棄させた上で、魔理亜にバアルを封じさせる方法を考えなければならない。
「なるほどな。お前の言いたいことは分かった。バアルよ、戦いを始める前に、俺と賭をしないか?」
「賭じゃと?」
興味深げに、バアルがこちらを見る。
「ああ。お前、剣術には自信があるんだろ? 俺と剣術で勝負しろ」
「くくっ、面白いな。我が勝てば何をくれるのじゃ?」
俺の言葉にバアルは乗ってきた。睨んだとおりだ。こいつは自分の力に自信があるだけてなく、戦いに興を求めるタイプだ。
「勿論、魔理亜の体だ」
俺は即答した。バアルが鼻で笑う。
「他人の命で賭か。くだらんな」
「おいおい、人の話は最後まで聞けよ。お前が勝てば、魔理亜の体をやるが、俺が勝てば、お前は大人しく魔理亜に封じられろ。利益を得る者と不利益を被る者が同じなのは、公平だろ。これが賭の一つ目だ。そしてもう一つ。お前が勝てば俺の命もやる。俺が勝てば紅との契約を破棄して貰おう。どうだ?」
「ふむ、帳尻は合っておるな」
バアルは少し考えた。もう一息だ。
「お前、鬼の力を得て具現化したんだろ? 俺の体には、その鬼と同じような血が流れている。喰らう価値はあると思うぜ」
「ほう?」
バアルは値踏みするような目で俺を見る。
「どうする? 俺が怖いなら、降りるか?」
「ははは、ほざきよるわ。良いだろう、賭に乗ってやる」
我ながら安っぽい挑発だったが、バアルは乗ってくれた。余程自信があるのだろう。魔理亜が心配そうな目でこちらを見ている。俺は魔理亜に軽くウインクをした。こっちもこんなロリっ娘に負ける気はない。
「なら、賭は成立だな。念のため確認しておくが、戦いの最中に紅を操って魔理亜を狙うなんてことは、しないよな?」
「舐めるのも大概にしろよ、人間風情が。安心しろ、我に勝てぬことを知ってお前が絶望するまで、嬲り殺しにしてくれるわ」
そう言って、バアルが右手を頭上に掲げた。すると、その手の中に光と闇が渦巻いて、細身の突剣が現れた。鍔の部分は、生々しく蜘蛛があしらわれており、八本の脚が持ち手を護るようになっている。バアルは刀身に軽くキスをして、剣先で俺を指した。戦いの場に似つかわしくない、優雅で、芝居がかった動きだ。
「口の利けるうちに名を聞いておこうか、人間よ」
「此処之月 蒼……参る!」
名乗ると同時に身を落とし、俺は一気に闇を渡った。闇渡りからの居抜き、俺の得意技だ。しかし……剣は虚しく空を切った。相手の姿を見失ったのは、バアルではなく俺の方だった。一瞬のうちにバアルのいた場所にまで歩を進めたはずなのに、バアルの姿はそこにない。右肘が疼く。後ろを取られた?
俺はとっさに前方に身を転がして立ち上がり、振り向いた。薄ら笑いを浮かべながら、バアルは最初に俺のいた位置辺りに立っていた。どうやら、俺の動きに合わせて前進し、すれ違いざまに突きを繰り出したらしい。手加減されたのか傷はそれほど深くない。右腕はまだ動きそうだ。
「ふむ、桃園 紅と同じ技を使うか。しかし、その技は何度か見たでな」
バアルは構えてすらいない。直立に近い格好で剣先をゆらゆらと遊ばせている。俺は剣を下段に構えた。闇渡りが見切られているなら、他の動きを見せるしかない。
元より鬼哭流は、自分より強い鬼を相手に立ち回るための下品の剣だ。剣の優雅さよりも姑息な奇襲にこそその妙がある。
俺は、バアルの突進を警戒しつつじりじりと間を詰める。そして、一足飛びの間合いにまで近づいて、右足で足元の砂を蹴り上げた。単純な目潰しだが、バアルは剣を持たない左手で顔を覆って砂を避けた。俺はその手の作る死角を突くように、下段から足を薙ぐ。
「ぐわっ!?」
またしても激痛。俺は思わず呻き声をあげてしまった。確かに死角に潜り込んだ筈なのに、バアルは動じることもなく半歩退き、俺の右肘、先ほどと全く同じ位置を刺突で抉ったのだ。恐ろしい速さと正確さだった。
「死角を突くことに必死のようじゃが、立ち尽くす木偶相手でもない限り意味はないじゃろう。死角なぞ、ほんの少し立ち位置を変えるだけでいくらでも変わる。下種の浅知恵よな」
バアルが余裕で講釈を垂れる。甘く見ていた。まさか、こんなふざけたロリっ娘悪魔が、これほど練達の剣士だとは。確かに、この剣の技量ならば、俺を倒すことなど容易いだろう。今の奴は、俺を絶望させるために遊んでいるに過ぎない。
「しかし、大口を叩いておきながら不甲斐ないではないか。そろそろ飽いてきた。次はお主の右腕の腱を断ち切るとしよう。次の一撃、心して放つがよい」
右腕の腱を切られれば、もう剣は振るえない。そうなれば、いくら強がったところで絶望するしかない。鼓動が速くなり、息が苦しい。俺は今になって初めて、自分が死の淵に立たされていることを思い知った。




