表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

望んだのは、

作者: れんじょう

★注意★虐めや自殺の表記あります。苦手の方はブラウザバックしてください。

人が生まれてくる方法は一つだけだが、死ぬ方法は砂の数よりもたくさんある。

老衰はもとより悪性腫瘍や脳内出血、肺炎、貧血、糖尿病、心筋梗塞などの多種多様な病気。電車の脱線事故や交通事故、飛行機が墜落することも、船が沈むことだってある。そして津波や地震、雪崩に暴風などの自然災害で死ぬこともある。

だが唯一、地球上のあらゆる生命体のうち、人間だけが成しえる方法がある。

動物としての生存本能に逆らい、自ら命を殺す方法。所謂―――――自殺である。



そう、私こと江坂 愛生(あき)はこの度めでたく入水自殺を果たしました。

過去形になっているのは私がすでに死んでおりまして、生きていたころには存在を疑っていた”魂”になっているからです。ちなみに幽霊や魑魅魍魎の存在も信じていませんでしたが。

魂になっても自我を失っていないのは普通ではないようで、周りで揺蕩っている他の魂さんたちに話しかけてもまともな返事が返ってくることがありません。みなさんはぼーっとしていらっしゃるばかりで、まあいうなれば気持ちいいお風呂にゆったりと浸かっている状態になっていらっしゃいます。だからといって温泉にありがちな他の(おきゃくさま)に他愛のない話をこするわけでもなく、ただひたすらにぼーっとなさっていらっしゃるだけです。つまらん。

まあ、そうは思うのですが、いかんせんもともとの私というのは人づきあいをとても苦手としておりまして気の利いた言葉一つ紡ぐことなどありませんでした。そのせいか人と少しでも交わろうとすればあからさまな無視をされたり罵倒を受けたりしておりました。理不尽すぎる。ですがそれも記憶にある幼少のころからのことですから、もしかすると私という存在自体が皆さま方に不愉快な思いをさせるモノだったのかもしれません。魂となってはじめのうちは私のような存在に話しかけられても返す必要などないと思われていらっしゃるのだろうと考えていたのですが、それでもただ揺蕩っているだけの状況が理解できずに何度もしつこく声をかけておりましたところ、どうやらそれは違うのではないかと気づいたのです。なにせ私以外のどの魂さんも声を出すことなく、もちろんほかの魂さん同士が話し合うこともなく、ただそこにふわふわとされていらっしゃるだけだったからです。

なーんだ。私がコミ障のせいかと思っちゃったわー。

あははとしらじらしい笑いを周りに提供させていただいたのですが無反応。魂さんたちは相変わらずぼーっとされていらっしゃるだけでした。まじつらい。

いじいじといじけても隠れる場所もなく、たぽんと揺蕩っているだけですし、時計も太陽もない乳白色の世界ではどれほどの時が経っているのかも定かではありません。

周りにたくさんの魂さんたちがいらっしゃいますが、自我がないようなので生物というよりは静物です。もうどうでもいいやと投げやり気味に歌を歌ったり一人ボケ突っ込みをしたりと気ままに暮らしておりました。そうすることで気が狂わないようにしていたのだと、後々思ったことは内緒です。



ここで少し、私 江坂 愛生のことを語らせていただきます。

私は江坂 智倫とその妻 (まな)から生まれた三番目の子供でした。一番目は母親似の愛らしい顔立ちをした兄 倫周(のりちか)、二番目は父親似で凛とした雰囲気を持つ姉 智広(ちひろ)。眉目秀麗な両親と兄姉で完成された家族に、あるときひょっこり授かったのが三番目の私だったのです。

私を身に宿した時、母は飛び上がらんばかりに喜んだそうですが、父も兄も姉も眉を顰めたそうです。

なにせ当時母は四十三歳。高齢出産といわれる年齢です(ちなみに高齢出産は三十五歳からを指すそうです)。兄と姉を産んだ経験のある経産婦でしたが、最後に出産してから十年たつと初産婦扱いされるそうで、母は高齢出産の初産婦という扱いになったそうです。その上重度の鉄欠乏性貧血ですから、出産に踏み切るにはつらい状態。貧血のほうは鉄剤を飲んだり点滴をして改善すればいいかもしれませんが、母はこれ以上数値が下がると輸血しなければならないレベルだそうで、日ごろから食事療法やタブレットを飲んでいるにも関わらず異常数値をたたき出し、出産は見合わせたほうが良いと医師から忠告されたそうです。

それにもかかわらず出産したいと願った母の強い要望に初めは出産に反対だった父も折れ、出産に踏み切ったそうです。

ですが、やはり医者の忠告は聞いておくべきでした。

母は私を出産したために亡くなり、父の手には母を殺して産まれた私が残されたのです。

母を愛してやまない父と兄姉でしたから、母の命を奪って産まれてきた私は許されない存在だったのでしょう。産まれてすぐ世話ができないという理由で乳児院に預けられました。その頃の記憶はありませんので割愛させていただきますが、保育園に上がることのできる年齢になるころ、なぜか父が迎えに来て本来の家に住むことになりました。家に帰ることであんな未来が待っていると知っていたのなら全力で拒否したことでしょう。

家で待っていたのは地獄でした。

母が命を懸けて産んだ私を、兄も姉も受け入れることはできませんでした。

一緒にお風呂に入ればシャワーを無理やりかけ、息ができなくてもがく私を見て喜び、食事は床の上に直接おかれ、箸もスプーンもないため鷲掴みするしかなく、犬のようだと嗤っていました。外に出るときは手をつないで歩いてくれましたが、無理やり引っ張るので肩の関節は外れやすくなり、手首には青あざがないときがありません。彼らが気に入らないことがあるとすぐ私に当たるので、人前で服を脱げないほどのせっかんの痕が残っていました。それを父は知らないふりをしていました。

自分の境遇がおかしいと気づいたのは小学校に入学するための事前検査の日でした。

この時ばかりは父も仕事を休み、私を小奇麗にして小学校に連れていきました。

父親は待合室、私は六年生のお兄さんの手をとって身体検査や学力検査をするためにあちこちの教室を歩いていたのですが、どんなに優しくされても私が随分とびくびくとしていることに先生方が気づいたそうです。

まず初めにお兄さんの差し出された手をとることができませんでした。

自分の名前を言えませんでした。

自分が何歳かもわかりませんでした。

聴診するために服を脱ぐように言われて青くなって蹲ってしまいました。

服を脱げばあちこちに青あざとみみず腫れがあったそうです。

先生方は私を見ながら内緒話をしました。

そしてしばらくすると見たことのないおばさんが私を学校から連れ出してくれました。

連れていかれた先で出されたご飯を私は手づかみで食べていると、困ったように首を傾げてお箸を持たせてくれましたがお箸を使ったことのない私は上手く操ることができずに癇癪を起しました。

おばさんは根気よく私に付き合い、丁寧なご飯の食べ方を教えてくださいましたがそれも一瞬のことでした。

大人たちのやり取りの中、私はまた家に戻されました。

私は先生やおばさんのおかげで自分の境遇を知ってしまいました。

それまでは当たり前だと思っていた暴力を、兄や姉の行動やそれを容認している父を、恐ろしいと感じるようになったのです。

ですが家に戻されると当たり前だった暴力がなくなりました。その代り兄や姉から無視をされるようになりましたが。そしてそれまで与えられていた、何も置かれていなかった部屋にはなぜかテレビとベッドと机がありました。父がいうにはテレビで勉強するようにとのこと。スイッチの入れ方とビデオの再生の仕方を教えてもらいました。部屋から出ることを許されるのはトイレとお風呂だけで、それ以外は部屋にいることを強制させられましたが。私はテレビからいろいろなことを教わりました。何度も何度も再生をした教育番組は話の内容を一言一句覚えてしまうほどです。食事を差し入れられる時、時々に新しいDVDがあり、そこ事に歓喜しました。そうして親の愛情を与えられている子供ならば親から教えてもらえること、保育園や幼稚園に通っていた子供ならば知っているべきことはすべて教育番組から知識を得ました。

そうして小学校入学に挑んだのですが、同じような年頃の子供に接したことのない私は極度の人見知りでした。だいたい身近な人は家族しかいません。私を虐待した上、存在をないものとしている家族ですから、コミュニケーションなどまともにとったことなどありません。ですから自分以外の人というのはそういうものだという認識しか持っていません。ましてや同い年の子と遊んだことなどなかったのです。関わり相方などわかるわけがありませんでした。私は随分とおかしな子供だったのです。子供というものは残酷で、異質な存在というものを簡単に見つけだし排除します。おかしな子供であった私は友達だという空想上の存在などできるわけもなく、入学してすぐに排除対象となりました。何日も同じ服を着て、何日もお風呂に入っていなくて、髪を整えることもなく臭い、言葉もまともに話さず目も合わせない私は、子供たちの格好の餌食です。「くさい」「汚い」「よるな」「ばいきん」など、先生がいないときには必ず言われましたし、文房具が無くなるのは当たり前、教科書もいつの間にか水に浸かっていたり書き方ペンの芯がぺったんこになっていたりもしました。教室の誰かが忘れ物をすればまず私から奪っていかれ、忘れ物をしたのは私になっていたこともありました。

そんな私でしたから学校に行くのがだんだんと億劫になって学校を休むようになりましたが、そうすると今度は先生が父と話したようで父から学校に行くように命令され、登校時間になると家を追い出されました。

何日かは公園とかでぼーっとしていたのですが、朝ごはんも貰えず、給食も食べれないのでは流石にお腹が減ってしまって苦しかったので、給食目当てで学校に行くようになりました。先生はあからさまにほっとしていましたが、同級生たちはとても嫌そうな顔をして私を見ていました。

学校に通っている間、遠足や修学旅行には行くことがありませんでした。

お弁当や水筒、旅行の費用などを用意されなかったからですが、私は別段行きたいとも思いませんでした。なにせ同級生たちは私をいじめる対象としか見ていなかったからです。斑とか無理やり組まされた時の彼らの顔ったら! 彼らが嫌がるのと同じくらい私も嫌なんだとどうして気づいてくれないのか不思議でしたが、どうせ当日になれば病気になって休むのだから今ぐらい我慢しようとホームルームを乗り切った記憶があります。

中学になっても彼らの態度は変わりません。それどころか他小学校からの人数が増えた分、行為は執拗になり増幅しました。

掃除時間になっても誰一人動かず、学校から一秒でも早く一人に慣れる空間、つまりは私の部屋に帰りたいばかりの私はたった一人で掃除を終わらせます。

彼らのいる教室にいるより先生といる方が楽なので率先して先生のお手伝いをしたりもしました。

家にいても勉強するしかすることがありませんから、ベッドに座りながら教科書を隅から隅まで読み、わからないことはDVDを見ながら、それでもわからないと翌日学校に行って先生に聞いてみたりもしました。

同級生たちはそれが余計に気に入らないようでした。「いい子のふりをしている」「先生に媚をうっている」など言われ、小突かれ、水をかけられましたが意味がわかりませんでした。

人との距離の取り方は相変わらず学べないままでしたが成績だけは学年の上位におり、内申も申し分ないと先生に太鼓判を押されていた通りに私は県下一と言われる公立高校に難なく合格しました。

人間として大切なことができない私、皆から蔑まれて生きている私ですが、このことだけは素直に喜んだものです。先生方に報告するとものすごく褒められたことは私の一生の宝です。

ですが現実は冷たいものでした。

入学通知書を胸に家に戻ると普段は私を無視している兄と姉から罵詈雑言を受けました。久しぶりに定規で叩かれもしました。

「なぜ働きにでない!嫌味たらしくあさひ高校なんかに入学するだなんて!」

……人は嫌っている人間が何をしても、どんなに良い行いをしても、褒められるべきことをしたとしても嫌うのだなと知りました。

兄や姉の出身校はあさひ高校よりも随分と下のランクだったそうです。蔑んでいる妹が自分達よりも成績が上の高校に入学できることが許せなかったと、後になって知りました。友人が沢山いる彼らだというのにどうしてそんなことで腹が立つのか理解できませんでした。

高校はとても楽でした。

皆がみな成績ばかりに気を取られ、人と交わることが少なくて済んだからです。

先生方も個人の人間性を見るよりも数値で人間を図るほうを良しとしたために、私は随分と良い生徒扱いをされました。ただ、実験など個々ではなく人と組んですることがどうしてもできず、その時だけは酷く落ち込んだものでした。

家族は相変わらず私に無関心で、兄も姉もいつのまにか家を出ていました。そうすると残るは私と父だけですが、父は私と顔を合わすのも嫌らしく私が起きている間に家に帰ってきたためしがありません。それどころか家に帰ってこなくなり、ときどきテーブルの上にぽんとお金が置かれてあるようになりました。

私は、いらない子なんだと。どれほど嫌われないように虐められないように、彼らの望むとおりに動いていても彼らは私を相いれない。 私という存在がいることが許せないのだと強く思いました。

苦しい。

喉の奥が締め付けられたようでした。

高校で比較的平穏な生活を送れるようになった私には、家庭で貫かれる無関心とお金さえ与えておけば死なないだろうと放り置かれるお札に酷く苦しみを覚えるようになったのです。

それは今さらながらに日に日に積み重なっていきました。

人の気配のない家に帰り、だだ死なないように投げ入れられたお金で生きるためだけに食パンやちり紙を買う生活は私の米粒よりも小さな心をじわじわと凍らせていったのです。

誰かに相談できればよかったのですが、そんな勇気は持ち合わせてはいません。

それと同じく、大学進学の件を父に相談できるほどの気力も持ち合わせていませんでした。

高校二年生のころから国立大学を勧められていたのですが、私を厭う父が大学の費用を出してくれるとは思えません。それどころか高校を卒業したら私はあの無味乾燥な家にいることを許されないのかもしれません。あんな家だというのに、私は家を、家族を欲していることにやっと気づいたのです。そしてそれはどれほど願っても手に入れることができないことだと欲した瞬間に理解したのです。

私は何のために生きているのでしょうか。

生まれて初めて疑問を持ちました。

皆から愛されていた母を死なせて産まれたために厭われ、そのまま乳児院に捨てるように入れられた私です。なぜか三歳で家族のもとに戻されましたがその後待ち受けていたのは兄姉による幼児虐待と父親の無関心でした。そのせいで人として育てられずコミュニケーションが不足し、六歳で児童相談所に世話になったにも関わらずまた元に戻されてのネグレクト。

誰も私を愛してくれない。

誰も私をその瞳に映してくれない。

私には生きる価値も意味も何もないのだと、高校三年生にして悟りました。

爆発したのは、日本の最高学府への扉が開かれた日のことでした。

成績のことを気にしていた兄姉のことを思えば、最高学府へのチケットは父の関心を少しは買えるのかもしれない。

なぜ私はあの時そう考えてしまったのでしょうか。

目の前にあるのは無惨にも破かれた証書の残骸。

誉れの一つも与えてはもらえない、現実。

私の中にあったなにかがぱりんと音をたてて壊れました。


それからの私はどうやったら彼らの中に私という存在を忘れないようにさせてこの世から消えることができるのか、そのことばかりを考えるようになりました。

山で遭難すれば捜索に莫大な費用が掛かり彼らに負債を与えることができますが、私が山に登ったことを証明させることができなければ捜索隊はだしてはもらえないでしょう。

断崖に証拠を残して海に飛び込めば捜索には費用はかかりませんが、証拠を見つけてもらえるまで彼らはきっと私を探さないでしょうし、記憶にも残りそうにありません。それに証拠を獣に持ち去られるという不安もあります。

電車に飛び込むという手もありますが、細切れになった肉片を片付ける、全く非のない駅員さんに申し訳ないという気持ちが勝ちました。

睡眠薬の多量摂取というのは私的には楽ですが綺麗な死体になりすぎて彼らには印象に残らないでしょう。

どうすれば、いいのでしょうか。

その頃、私はよく衝動的に手首をカッターで切っていました。

呆としているといつの間にか右手にカッターを持ち、左手の手首をゆっくりとなぞっているのです。そうするとざわついていた心がとても落ち着いて、じわじわした痛みに恍惚を得ました。

ああ、これだ。

私はそのままお風呂場に行き、大動脈に刃を立てた後、合わせて手首に深くナイフを入れました。そしてお湯を流し血が凝固しないようにしてから睡眠薬を煽りました。

これで眠っている間に血が失われ浴槽の中に沈み込んだ私をいつか父が見つけることでしょう。

水に沈んだ遺体は時間を置くとぶよぶよに膨れ上がりどろどろと溶けていくそうですが、そんな風になる前に流しっぱなしのお湯が床に溢れだして風呂場に私がいることに気が付くでしょう。

まさに自殺。いかにも自殺。

無関心な父も浴槽で血を流しながら死んでいる娘を前に警察を呼ばないわけにはいきません。

ご近所様にはよい井戸端会議のネタを提供できることでしょう。否が応でも父には印象に残ること請け合いです。ざまあみろ、です。

そんなことを思いながら意識のなくなった私はずぶずぶと湯船の中に沈んでいったのでした。



……回想が長くなってしまいましたが、以上が私のつまらない人生でした。

魂となって長い時間母乳みたいな色の中で揺蕩っていると色々なことを客観的に考えるようになったのですが、ここまであの家族に縛られなくてもよかったのではないかと思います。父や兄姉の虐待がいかに不当であったのか。不安要素しかない出産に笑って踏みきったのは出産で命を落とした母自身でしたし、父も妊娠が分かった当初は反対をしていましたが母の説得に負け、最後は頷いていたではありませんか。学校での成績は良かったはずですのに、浅慮なあの頃の私を大ばか者と罵りたい気持ちでいっぱいです。やるせなさすぎです。

たぽんたぽんと体を跳ねさせ、己の不甲斐なさを誤魔化そうとしたりもしましたが、静物と化したほかの魂さんたち相手にどうにも恥ずかしくなって不貞寝などしてみました。起きてからの虚しさは半端なかったですが。

それからの私はなんだか吹っ切れたのでしょう、先にも述べさせ頂きましたように歌を歌ったり一人ボケ突込みをして現れては消えるほかの魂さんたちの動きを見ながらまったりと過ごしておりました。



そんなある時。

目の前にいた魂さんがすっと消えたなあ、また新しい魂さんがくるのかなあとか思っていましたら、魂さんではなく神様が権現されました。

この世界で揺蕩ってから初めてのことです。

すすすーっと体が逃げ腰になってしまったのは、私が意識のある魂だからでしょうか。それとも他の魂さんたちのように現れては消えるという芸当ができないせいでしょうかわかりませんが。

神様はおっしゃいました。


「悪戯好きの疫病神に気に入られてしまった貴方の無垢な魂は産まれる時にキスをされてしまった。そのせいで現世の貴方はその魂の輝きに相応しくない不幸に見舞われ続けることとなってしまった。

自殺した人間の魂は本来ならば輪廻を外れてこの輪廻の海にやってくることはないが、貴方はもともとの魂から歪められた人生だったことと魂の輝きを失わなかったことでこの海までやってくることができたようだがそこまでだった。貴方の力だけでは次の生に向かうことができないようだ。

輪廻の輪に弾かれる行為を行いながらも輪廻の海までやってくることができ、なおかつ前世の自我を保ち続ける珍しい魂を持つ貴方は退屈にあえいでいた私を十分に楽しませてくれた。そこで私は貴方に少し力を与えようと考えた。まあなに、ほんの気まぐれというやつだ。さあ、私の手のひらの上に乗りなさい。そうすれば次の生を得ることができるだろう」


なんてことでしょう。

ここに来きては消えていく魂さんたちは前世での穢れを払い清められて次の生に向かう魂さんたちだったのです。どおりで魂さんによって消えるまでの時間がまちまちなはずです。ということはやはり私の魂は随分と穢れていたのでしょう。私の前からいる魂さんは存在せず私が一番の古株となっていたのですから。神様が魂に力がないとおっしゃる理由もわかりました。ですがそんな私に神様が気まぐれを起こされて次の生に向かうようにしてくださるとおっしゃるのです。なんて素晴らしい! 10枚しか買わなかった宝くじの前後賞合わせて三億円当たったような、そんな気持ちでいっぱいです。

私は早速神様の手のひらの上に乗っかりました。ふるふると震えてしまったのは致し方ないことと思います。

神様は手を私の体―魂ですが―を包み込むように持たれました。ほんわりと滲んでくるような温かさを感じました。魂でも温もりを感じるのですね。驚きです。

そうして手の中にふぅと息を吹かれました。私はその息の流れに乗って神様の手の中から輪廻の輪に戻ることになったのです。




―――――ですが。





なにこれ!こんな人生望んでないっ!!


なんとびっくり、心を新たにして臨んだ新しい人生だというのに、また江坂 智倫と(まな)の第三子として産まれたのです。

前世である自分に生まれ変わるって、何!?

そして前世と同じく、母はまた私を産んだために亡くなってしまい、私は退院とともに乳児院に預けられることとなったのです。


えー、なにこれ。なんでこうなるの?

ただ一つ前世と違うことといえば、私が今後の人生の展開を知っていることと、体は新生児ですが心は大人……いえ、十八歳だということです。冷汗をかく新生児って……。

仕方がない。折角神様が与えてくれた”やり直し”の人生です。

今度は家族に心を殺されず、自分を殺すことのないように生きてやろうではありませんか!



目指せ、愛され人生!

目指せ、老衰!!


さあ、今度こそ人生を楽しみましょう!!




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
[一言] 連載もしくは続編希望!!
[一言] 家族も屑ながら、神様も根本的な解決をしないで上から目線の屑だった
[一言] 記憶を持っての新たな人生......。 本来なら心踊る展開だけど、このお話の場合は微妙な気持ちに なりました。なにせ自殺へと追いやった家族へと再びなんて、 正直いってホラーな展開かと。 復讐…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ