後編
今回の後編で『完結』にするには中途半端かなと投稿直前に思い、次話『その後』に続きます。
「ヴァルト様は婚約されたのでしょう?」
「相手が発表当日に逃げたがな」
「ええっ? お相手がお逃げになったんですか?」
驚くしかない。思わず涙も止まってしまった。
ヴァルト様を置いて逃げるなんて、信じられない!
だって、ヴァルト様は見目形が優れているし、爵位継承するであろうし、頭脳も明晰だしで結婚相手としての条件は申し分ない。なによりヴァルト様のことをとてもお好きなお方だと、奥様ははっきり仰っていたのに。
「一体何が……あ。もしかしてあたしが言っていた『お嫁さんにして』という戯言を気にされて?」
「――― お前が言っていたのは全て戯言、だったのか?」
ヴァルト様の口は引き攣り片眉が上がった。
「いいえ、本気でしたけど、あたしが言うたびにみんな戯言と笑っていたでしょう?」
「いや、皆が笑っていたのは、俺がお前の言葉に動揺しないよう澄ますのに必死な姿が滑稽だったからだが」
「……あれ?」
混乱してきた。
あたしを笑ってたんじゃないの?
「半年前の俺のパーティで、俺はお前と婚約することを発表するつもりでいた」
あたしは驚いた。声も出せないくらい驚いた。
ヴァルト様の婚約相手があたし? そんなの微塵も聞いてない!
「十年前。お前を嫁にしたいと母上に伝えたとき、手放しで喜ばれた。『お前は私に似て見る目がある』と。なのにあの日お前は逃げた。母上には『逃げられて当然』と呆れられた。俺の、何がいけなかったんだ?」
母上は教えてくれないのだ、と小声で続いた。
いやいや、奥様にあたしを嫁にしたいと言ってくださったのなら、そのことをあたしに教えててくださいよ! そうしてくれてたらさすがに逃げませんでしたよ!
ん? あれ?
「じゅ、十年前? 一年前とかじゃなくて?」
「俺が八歳の時だから、十年前だ」
胸張って偉そうに言わないでください。
そもそもそんな重要なこと十年間も黙っているなんてあり得ないんですが。
「奥様がヴァルト様と婚約されるのは、あなたの事をとても好きで可愛らしい人だって言ってましたよ?」
「だからそれはお前のことだろ。いやお前は俺の事などもう……」
「好きでした! 今でも、好きです! で、も」
ヴァルト様と目が合う。
言葉を詰まらせたあたしに、目だけで先を話せと促された。
「ヴァルト様はいつもあたしのことを『普通平凡バカ』って言ってたし。料理だって誉めてくれなかったし最後まで普通って言ってたし。どう考えてもヴァルト様はあたしのことを好きだなんて……」
「俺の味覚はお前の味が普通になったんだよ」
「は?」
ヴァルト様が眉間に皺を寄せた。
「だからお前以外の食事が苦痛になった。お前の味に慣れすぎて、普通としかいえなかった」
「なにそれ……」
あたしの味で『普通』になったから『おいしい』の基準が『普通』になったってこと?
「それから、お前が嫁にしろというのがいつも誰かがいるときばかりだったから「平凡」と返していた。俺は愛は二人きりの時に語るものと信じている。俗っぽい真似はできないと言っていたつもりだ」
―――『俗』イコール『平凡』?
そんなの、わかるわけないじゃない!
「で、でも、二人でいるときもヴァルト様はいつも変わらず素っ気なくてっ」
「お前が嫁にしろと言えば、いつでも即座にすると答えるつもりだった。だがお前は一向に言ってこなかっただろう? 本当に俺の所に嫁に来たいのか判断しかねていた」
ジロリ、と睨まれた。
睨まれても困る。そんなお顔も素敵すぎて見惚れちゃう…いやいや二人の時にお嫁さんにしてなんて言えるわけがなかった。
だって、二人きりの時に言って拒絶されたら、どうして良いのかわからないじゃない。笑って誤魔化すこともできずに泣いてしまうこと確実だったから。
「母上からお前がずっと俺のことを好きだと言ってくれていたのをパーティの日に聞いた。マデリーネ」
はっ、と顔を上げた。
ヴァルト様の口からあたしの名前が出たのは一体いつぶりだろう。
「マデリーネ・ニコラウ。俺と結婚してくれないだろうか」
いつになく、真剣な瞳で強張った表情のヴァルト様。
本気で言ってくれているんだ。
嬉しい、嬉しいよ。
でも、駄目。
ヴァルト様のお相手になるなら身分も申し分ない方でなければいけないでしょう。あたしにはどう足掻いてもそんなの無理。
「無理、です。あたしにはヴァルト様に釣り合う身分では……」
「そうか。お前は知らなかったんだな」
ヴァルト様が天を仰いで溜め息を溢す。
「それについてはすぐに解決する」
ヴァルト様が手で御者側の壁をトンと叩くと、馬車は静かに動き出した。
「後で返事は貰うからな」
ヴァルト様はそう言って口をつぐんでしまった。
トランティ邸に着くと、玄関口で奥様が待ち構えていた。
馬車を降りたヴァルト様を見て奥様が挨拶をする。
「先はすぐに出て行かれたので改めまして。こんな田舎までようこそ、リンドグレン様。あなたのお母さまとは旧知の知り合いなのですよ。それから……」
奥様があたしの方を見た。
「来るのが遅いわ。バカ息子」
奥様の視線はあたしを越えて後方に向かっていた。
そこにいたのは、お父さん。
「バカ、息子?」
「嫌だなあ、母様。駆け落ちしたんだから、顔出しできなくて当然の息子だろう?」
「お、お父さん?」
爽やかに奥様に言葉を返したお父さんに、あたしの頭はパニック!
奥様はお父さんのお母さん?
ということは、奥様はあたしのおばあちゃん?
駆け落ち? お父さんとお母さんが駆け落ち?
「あ、あの、一体……」
一人慌てていると、
「ようこそ。可愛い私の孫娘マデリーネ」
にっこりと笑んで奥様はあたしを抱きしめてくれた。
応接室。
あたしの隣に奥様が座り、対面にお父さんとヴァルト様が座っている。この席次になるまで揉めに揉めた。
「可愛い愛娘に半年ぶりに会ったのだから、私の隣で」
「俺の婚約者なのだから、当然俺の隣だろう」
「いえいえ、まだヴァルト様はマデリーネとは婚約をしておりませんし」
「婚約したも同然なのだ。構わないはずだ」
鼻息荒く言い合う二人を一瞥して奥様が一言。
「マデリーネ。私の隣に座りなさい」
これで全てが決定したのだった。
隣に座る奥様をチラチラ見る。
奥様がおばあちゃん?
確かにお父さんとお母さんの兄弟とか親戚とか会ったことはないけど。でも、うん。お父さんと面持ちが似てる気がする。
「一体、どういうことなんでしょうか?」
この中で一番的確な説明をしてくれそうな奥様に訊ねる。
奥様は良くできました、と言いたげな表情で頷き、説明を始めた。
今から二十年ほど前、トランティ家に料理人の女性、エーリアルがやって来た。若くて美人で料理が上手なその料理人に、トランティ家末っ子であるフレデリクが惚れ込んでしまった。
フレデリクは、エーリアルとの結婚の許しを両親に申し出たけれど、身分が異なると猛反対を受けてその結果駆け落ち。
行先は幼なじみの嫁ぎ先であるリンドグレン領。フレデリクとエーリアルはそこで仕事を得て、新生活を始めた……ということだった。
フレデリクはお父さん、エーリアルはお母さんの名前だ。
「お父さんの幼なじみってもしかして」
「俺の母上だ」
ヴァルト様が答えてくれた。
リンドグレンの奥様があたしに親切にしてくださっていたのは、幼なじみの子供だったというのもあったんだ。
「フレデリクは甘やかされた末っ子でしたからね。駆け落ちしてもすぐに泣き帰ってくると思ってたのですよ。そうしたら二人の仲を許そうと思っていたのに、連絡一つ寄越さない。二十年も経ってからようやく手紙を送ってきたと思ったら、マデリーネを雇ってほしいという一文だけ。孫との感動の初対面もさせてくれないなんて、あの人と共に育て方を間違えたと心底後悔したわ」
「やだなあ、父様も母様も。コートニーからはマメに連絡がきていたでしょうから、私は控えてただけですよ」
コートニー、様はヴァルト様のお母さま、リンドグレン家の奥様の名前だ。
その名を呼び慣れているところを見て、本当にお父さんとコートニー様が幼なじみなんだと実感する。
あれ? 父様?
「奥様は未亡人なのでは?」
「夫は仕事こそ息子に譲りましたが、元気ですよ。未亡人、というのは暇な人たちの勝手な噂。ここに来た理由が私の静養という話は本当ですけれどね。あとしばらくであの人も完全に引退してこちらに来る予定です」
「なら、その時に改めて家族と共に挨拶に伺います。父様や母様のお蔭で私が立派に育ったこと、エーリアルと共に働きながらマデリーネをここまで育てたことを知ってもらいたいので」
「ええ。それは認めます」
奥様が溜息を吐いた。
「コートニーからの手紙でお前の働きぶりとマデリーネの成長は知っていました。それから、マデリーネが実際にここで働く姿を見て、エーリアルの教育が行き渡っていることもよくわかりました」
お父さんが満足そうに微笑んだ。お母さんを褒めてもらえて嬉しいんだろうな。
「今度は私に今回の茶番について説明してもらえるかしら。なぜマデリーネがここで『働く』ことになったのか、コートニーからの手紙ではすべてを知り得なかったもの」
奥様の注文に、お父さんとヴァルト様が顔を見合わせ、目で互いに譲り合う。なかなか結論がでないようで、静かに時間が過ぎる。
あ。奥様の額に青筋が。
あたしがあわあわしていると、目の端であたしのその姿を見て取ったヴァルト様が決意してくれた。
「お…私が説明します」
ヴァルト様の言葉に奥様の青筋が綺麗に消えてホッとする。テーブル向こうであたし以上にお父さんがホッとしていた。
ああ、奥様にお父さんが連絡していなかった理由がなんとなくわかった。下手に連絡とるとどう対応していいのかわからないからタイミング待ってたんだね。
ヴァルト様は時々詰まりながらも説明をしてくれた。
ヴァルト様はあたしとの結婚を十年前にコートニー様に申し出て、了承を貰っていたこと。その際にお父さんの出自も聞いていて、彼的には順調にあたしとの交際を続けていて半年前のバースデーパーティーで婚約発表をするつもりでいたこと。ところが、発表直前にあたしがトランティ邸にむけて出立してしまい、ひと騒動になったこと。コートニー様があたしの行き先を知っていることは、なんとなくわかっていたこと。あたしが果樹園の跡取りとの見合いの話があったとお母さんから聞いて、居ても立っても居られずコートニー様に詰め寄り、あたしの居場所を聞き出したこと。そしてお父さんを連れてトランティ邸に来てみたら、あたしが果樹園にいることを聞かされ、慌ててネルソンさんのところに馬車を走らせたこと。
「それで? そもそもなぜマデリーネはリンドグレン領を出ることにしたの?」
「それは…」
ヴァルト様があたしを見る。
「私がマデリーネに何も言っていなかったからです。十年もの間好きだということも、婚約のことも何一つ。だから彼女は私に愛されていないと思い逃げました」
「まあ、それは逃げられて当然ね」
奥様は眉一つ動かさずに肯定した。
「マデリーネ。世の男性は美味しい料理で胃袋を掴まれると言ったことがあるでしょう? 目の前にいい例がいるわけだけれど」
奥様がお父さんを見た。
「貴女も見事に彼の胃袋を掴んでいたようね。それで、マデリーネはこれからどうするの?」
お父さんからあたしへ視線を移す奥様。
馬車の中でヴァルト様と話して、ヴァルト様の思いはわかった。あたしは今でも彼のことを好きだし、お嫁さんにしてもらいたいと思っている。
でも。
「身分違いはどうしようもないでしょう?」
「ん?」
お父さんが笑顔で首を傾げた。
「リンドグレン家は名門の伯爵家です。わたしはそんな名門に釣り合う身分では…」
「フレデリク。トランティ家の説明はしていないの?」
「してないですよ。なんせほら、私たち駆け落ちしてニコラウを名乗りトランティ家とは縁を切ったつもりでしたから」
あははと頭を掻いて笑うお父さん。
奥様の額に青筋が再び出現。
「トランティ家は侯爵家です」
「え?」
奥様は上品だし良家の別荘とは思っていたけれど、侯爵家?
こちらに来てからは『別荘』という言い方で通っていたから、トランティ家がどちらの良家なのか耳に入る機会もなかった。
「リンドグレン領とはかけ離れた辺境域ですけれどね。一応地方領主ですよ」
「マデリーネの家系のことは父親のフレデリクの口から伝えるべきと思っていた母上は、フレデリクに早く己の出自を伝えるよう促していました。それでものらりくらりと逃げるので、母上はその都度イライラとしていまして。今回それもあってフレデリクに来てもらったわけですが」
コートニー様の気持ちがよくわかると奥様が頷き、いやだなぁとお父さんが笑う。
「逃げてたわけじゃないですよ。必要あれば言おうと思っていましたがマデリーネが嫁入りするのを少しでも遅らせようとしただけです。マデリーネは私の可愛い娘ですからね」
「マデリーネ、困った父親で悪いわね。貴女の後見人には私がなるわ」
育て方をやはり間違えていたわ。それとも血筋かしら、と深く長く息を吐きながら何故か奥様が謝ってくれた。
あたしの後見人に、奥様…トランティ侯爵夫人がなってくださる?
「これで身分の問題は解決したな。馬車の中で返事は後でと言ったが、改めて」
ヴァルト様の声音がガラリと変わった。
「マデリーネ・ニコラウ・トランティ。俺、ヴァルト・リンドグレンと結婚してくれないか」
人前で愛は語るものではないと言ったヴァルト様が、彼の信条に反した状況下で、お父さんや奥様の前であたしにプロポーズしてくれている。顔は強張っているし、ぶっきらぼうな言い方だけど、それでも。
そんなヴァルト様に見惚れちゃうんだよね。
だから、あたしの返事は十年以上前から決めている。一目見た時から決まっている。
「ヴァルト様。あたしをお嫁さんにしてください!」
お読みいただき、ありがとうございました。