中編
ブックマークありがとうございます。
前後編の予定が、前中後編になりました。
「依頼の品は、後でトランティ様の所へお届けしようと思ってたのに」
「町での買い物がてら、ですから」
あたしは果樹園でレックスさんとのんびり話をしながら歩く。トランティ、というのは今お仕えしている奥様の家名だ。
今日ここへ受け取りに来た果実はリンゴとイチジクなので、まずはとリンゴ園に向かっている。
「こちらの果実は美味しいので、余計な味付けしなくても素材だけで充分なんですよ」
「うちの物を気に入ってもらえて嬉しいよ」
レックスさんがにっこりと笑う。
奥様からお見合いのお話をいただいたのは一カ月前の事だけど、あたしもレックスさんも至って普通。それまでと何ら変わりない。多分あたしの返事が消極的だった事で、様子を見ているのだと思う。
「リンゴはこっちの方がいい? それともあっちかな」
言いつつリンゴを吟味しているレックスさん。果実に触れている彼の大きな手は荒れている。働いている男の手だ。私の手も一緒。
瞼に刻み込んでしまった綺麗な指の形の、滑らかな肌の彼のものとは全然違う。
目の前にいる彼の方があたしと同じ世界にいると思える。
そうだ。ヴァルト様は『王子様』だった。『夢の国の王子様』は絵本の中に存在するのであって、現実にはいないのだ。
そろそろ目を覚まさなきゃいけないよね。
『……バカ』
あらやだ。このタイミングで幻聴だわ。
「この、平凡、普通、バカ!」
「え?」
幻聴、じゃない?
慌てて振り返れば、肩を震わせて仁王立ちしている王子様……ヴァルト様の姿が。
今日も素敵な、彼だけに仕立てられた青い服を見事に着こなしている。旅装にしてはこの周辺ではかなり華やかな姿だ。なのに、表情だけはいただけない。眉間の皺が魅力を半減させている。
「マデリーネさん。知り合いかい?」
滅多にお目にかかれない美貌に目を瞠って、レックスさんが聞いてくる。
「え、はい。前に仕えていたご主人様です」
それにしても何でここに?
あたしは偶然でもヴァルト様に会わない場所を希望した。奥様はヴァルト様の行動範囲を全てご存じの上でこちらの職場を紹介してくださった。あたしの居場所は知らないことにしてもらっており、お父さんとお母さんにも口外しないよう伝えてある。それなのにヴァルト様がここに来たということは、あたしと話をするために捜し出した、ということ?
「何か不手際がありましたか? ヴァルト様のお世話に関しては全ての手順を細かく記載した手引き書を元に、フランクリンさんに説明したはずなんですが」
「不手際だらけだっ」
怒りを含む声だった。
あたしには何が不手際だったのか見当もつかないので困惑してしまう。
物の置場所も掃除の仕方も衣服の脱着の順番もちゃんと手引き書に書いて教えたし、お弁当はお母さんが作っているはずだから味に文句はないだろうし。仕事の引継ぎはしたし、あたしが持っていた仕事は終えたのを確認してリンドグレン家を出たはずなのに。
「えーと、すみません。私、何をやり残していったのでしょうか」
かなりの理由がなければわざわざこんな辺境の地まで来ないはずだけど、いくら振り返ってみてもその理由が全く思いつかない。
「この、バカ……っ」
眦つり上げて怒ってる……姿も相変わらず格好良いなぁ。
また見惚れちゃった。やっぱりあたし、ヴァルト様の事が好きだ。
自覚して肩を落とす。
ヴァルト様は半年前に『お嬢様』と婚約している。元々手の届かない人だったけど、夢さえ見れない高いところに行ってしまったのに。
あ、もしかしたらここに来たのはそのお嬢様に関してのことかも。
「婚約者様とうまくいってないんですか?」
ヴァルト様は腹が立つくらい乙女心が全く理解できない人だから、贈り物をするにも何を選んで良いのかわからないのかもしれない。だって、あたしへのプレゼントは全てお菓子だったもの。まあ、あたしの場合はヴァルト様からいただいたものだから何でも嬉しかったけど。
新しい側仕えのフランクリンさんは男性だから同世代のあたしに相談するつもりでいたのに、いなくなってしまって困ったんだろうな。
「婚約者様への贈り物選びなら、お付き合いはできませんけどアドバイス位なら、あたしできると思……」
「このバカ!」
怒鳴るなり、彼はあたしの手を掴んで歩き出してしまう。
あああああ、ちょっと待って、フルーツ! まだフルーツ手にしてない!
「す、すみません! リンゴとイチジク後で届けてもらえますか?」
顔だけ振り返り、叫んでお届けを依頼すると、苦笑しながらレックスさんが頷いたのが見えた。
良かった。奥様はリンゴのコンポートを楽しみにしているんだもの。
「あ、ああああ、あの、フランクリンさんは?」
以前あたしがしていたように、通常彼の側には一定の距離を保ってフランクリンさんが待機しているはず。それなのに、その姿がどこにも見えない。彼があたしのような平民の手を掴んだ時点で側仕えから注意を受けるのは通例なのに、その叱責がいまだないのはおかしい。キョロキョロと周囲を探してしまう。
「ここに来るに当たって別の人物に付き添ってもらっている。あっちだ」
速足で果樹園入り口の馬車に連れていかれる。リンドグレン家の馬車だ。その馬車の前に立っているのは―――
「お、お父さん!?」
「側仕え兼御者として来て貰った」
「え、ええっ!?」
ということは、あたしの居場所をヴァルト様に教えたのはお父さんなの?
何を言われても黙っててね、って何度も何度もお願いしたのに、酷い!
お父さんに抗議する暇も与えてくれず、驚いた状態のままヴァルト様に押し込まれるように馬車へ乗せられた。
時間を置かず馬車も動き出す。
ヴァルト様は無言であたしを正面から睨んでいる。エメラルドグリーンの瞳が冷たく光り、以前のように気安く笑いながら
「お元気でしたか」
と聞くことさえもできない位に車内の空気は冷たい。
こんなに不機嫌極まりないヴァルト様は初めてだ。彼は幼少から感情のコントロールはお手の物なのに。
しばらくすると、蹄の音が止まった。馬車が停車したのだ。
周囲は田園風景。トランティ邸に向かう一本道の途中だ。
「何でこんなところで停まるの?」
お父さんに声を掛けようと窓に近寄ろうとしたら、ヴァルト様に腕を捕まれた。
「話がある」
「え?」
端正な顔が数センチ前にあり、思わず息を詰める。綺麗なエメラルドグリーンにあたしの顔が映っていた。
「なぜ俺に黙って家を出ていった?」
「それ、は…」
リンドグレン家にいても、あたしには明るい未来がなかったから。
いくらヴァルト様の事が好きでも、可愛らしいお嬢様と彼の仲睦まじい姿を目の当たりに見ることなんてできそうになかったから。
顔を逸らして俯く。
「あの時俺はお前に訊ねた。俺と結婚する気はあるのか、と。お前は勿論ですと答えただろう。嘘だったのか」
「だ、って…」
膝に置いた手をグッと握る。
嘘じゃなかった。本心だった。
でも、ヴァルト様があたしの『お嫁さんにして』という発言を冗談と受け止めていたことはわかっていたし、そんな戯言を言っても許してくれていたヴァルト様にずっと甘えていただけだし。
「お前は俺と結婚したいのか、したくないのか。どっちなんだ」
ヴァルト様がイライラしながらあたしに問いかける。
彼はいま何て言った? 結婚?
したいかしたくないかと問われれば、答えはひとつだけれども、婚約を済ませているヴァルト様の言うことに素直に答えを返せない。
きっと何か裏があるはずだ。
もしかして、婚約者様がマリッジブルーになってしまわれたのだろうか。その相談相手にあたしになってもらいたいということではないか。それにあたって、あたしがヴァルト様に好意を持っていると困るから、いまの質問をしたのではないか。
うん。
筋は通ってるね。きっとこれだ。
あたしは顔を上げて首を傾げた。
「婚約者様が結婚を躊躇っていらっしゃるのですか」
「躊躇っているのはおまえだろう」
躊躇う、というより戸惑いだけどね。好きな人が自分じゃない人と婚約して結婚するんだから、混乱の一つもするでしょうよ。
「俺はあの日婚約発表をする気でいた」
「知ってます」
奥様からちゃんと聞いていました。
「全てうまく進んでいると思っていた」
「そうでしょうね」
ヴァルト様のことだから、当然でしょう。
「婚約発表しようとしてもお前がいないのでは話にならないだろう!」
「あたしは関係ないじゃないでしょうっ!」
怒鳴るヴァルト様に向かってあたしも怒鳴る。
婚約発表の場にどうしてもあたしはいなきゃいけなかったの? 二人の姿を見せつけられて、彼への思いを断念しなきゃいけなかったの? 笑顔で二人を祝福しなければいけなかったの?
そんな簡単にできるわけないじゃない!
自分の長年の思いを冷たく無下にされて、悲しくて情けなくて思わず涙が零れ落ちる。
あたしの反論に口を噤んだヴァルト様を、瞼を閉じて遮る。次いで大きく深呼吸を一つし、呼吸を整える。
「ヴァルト様のことをとても思っていらっしゃるお嬢様と婚約される事は知っていました。あたしだってヴァルト様の事が好きだったんです。なのに、あなたの婚約発表に立ち会わなければいけなかったんですか? おめでとうと言わなければいけませんでしたか? あなたを諦めるのに、そこまでしなきゃ……」
「ちょっと待て。何でお前が俺を諦めるんだ?」
頭が良くて記憶力も良いのに何言ってるの、この人は。
好きな人が自分よりもお似合いの人と婚約するというのなら、諦めるしかないでしょうに。
本当、乙女心がわかってないんだから。
「いくらあたしがヴァルト様の事が好きでも、さすがに婚約者様とご一緒の姿を見るのは辛い……」
「だから待て。何でお前は自分を見ると辛いんだ?」
「え?」
「は?」
あたしたちは不可解げに互いの顔を見ていた。
お読みいただき、ありがとうございました。