第六話
良い刀は曲がる。それは刀が頑強でありながらも柔軟性を有しているからに他ならない。だが、不思議な話だ。刀のロックウェル硬さはモノにもよっては六十を超える。
ロックウェル硬さとは工業材料の硬さを表す指標であり、表面の押し込みに対する硬さを表す。圧力をかけられながら元の状態を維持しようという力の表れだ。数字が高ければ高い程、力に対して状態を維持する力が強く働くが、過負荷がかかると折れや割れにつながる。逆に数値が低いと過負荷に対して折れや割れる前に曲がる。
包丁などでHRC何々と書かれているのを見る事があるだろう。それが一般的に見る事の出来るロックウェル硬さだ。刃物の場合は零~七十で表記され、七十に近い程よく斬れる。だが、それは前述のように硬いが脆いという事でもある。規定圧力以上をかけると刃先は簡単に欠ける。ロックウェル硬さ七十ともなれば落しただけで使用不能に陥る。
だが、刀の業物はロックウェル硬さ六十を超えながらも曲がる。硬く、脆いはずなのに粘り柔軟性を持つ。心金と皮鉄を組み合わせず一つの鋼で作り出した無垢鍛えと呼ばれる技法で作られた刀がその相反する性質を持ち合わせているのだ。未だ科学的には説明できない神秘が刀にはある。
硬さを有しながらも刀は曲がり、しなる事で折損を防ぐ。しかし、刀が曲がるというのは仕手の技量の拙さが最大の原因だ。テレビで素人が振った刀のスローモーションを見てみると想像以上にぐわんぐわんとたわみ、ゆがんでいるのが見て取れる。これは仕手の未熟さを刀が補って折損を防いでいるのだ。しかるべき仕手が刃筋をしっかりと立て刀を使用すれば三.二ミリの鉄板を斬り裂いて尚、欠けず、まくれず、曲がる事もない。
だが、戦闘において予想外というのは常に起きうる。一流同士の戦いともなれば、必ずしも仕手が刃筋をしっかりと立てて斬撃を放てるとは限らない。そして当然、刀は曲がる。刀が曲がっても尚、戦わねばならない場合、かつての侍はどうしたのだろうか? 驚くべき事に浅い曲がり程度ならば切っ先をつまんで元に戻すのだ。使用可能な状態まで戻るのだ。といっても応急処置でしかない。それ以後も使用を考えるのならば鍛冶師に直してもらう必要がある。
宗近が使用した刀は浅い曲がりとはいえず、火床に入れてしっかりと鍛え直さねばならないレベルまで曲がっている。いや、ヤバンナドルンド相手に直す事が可能な曲がりで済んだことを行幸と思うべきだ。いくら刀が折損を防ぐために自ずから曲がるとはいえ修復の限度はある。仕手の技量の拙さが酷い場合はZ字に折れ曲がる。ここまでいくと修復など不可能。
血払いを済ませ、軽く砥石を当てて刀身についた血と脂を落した刀に応急セットから取り出した包帯を巻きつける。あまりにも簡易の鞘だが、不意の衝撃から多少は守れる。
曲がった刀は鞘には入らない。『反りが合わない』という言葉があるが、これは刀身と鞘の反り寸法が合わずに鞘に納まらない事をいう。言葉通り、一時的に反りが合わない状態なのだ。この言葉の様に鞘と刀の関係性を表した『元の鞘に納まる』という言葉もある。刀から生まれた言葉は存外に多い。
「帰ったら、まずは柄の中を洗わねぇとな」
白い布で巻かれた不格好な刀を見てはぁっとまた重いため息を吐く。幾ら近代科学の結晶で作られた刀とはいえ手入れを怠れば当然、錆びる。特に生物を切った場合、ハバキを通して柄の中まで血が入り込む。血が多すぎると目釘穴から血が湧き、普通の柄糸ならばじゅくじゅくと嫌な握り心地になる。当然、柄の中にある茎は血塗れになり、放置すればそれが錆びを呼ぶ。刀で生き物を斬った後は、すみずみまで手入れを怠るべからず。
『家路を思い浮かべている所悪いのですが、まだ仕事は終わっていません』
胸元の遠話装置から聞こえる無機質な静止の声。命を削る戦いをした後だというのに帰還を拒むオペレーターとは些か冷たい。心身共に疲れ果てた宗近は抗議の声を上げようとして。
『先程の個体は母親です。ヤバンナドルンドが陣取っていた大樹の根元に生後三か月を過ぎていない仔ヤバンナドルンドがいるはずです』
「それを先に言え!」
疲れが吹き飛び、ひゃっほうと無邪気な声を上げながら大樹の根元にいる獲物に飛びかかった。
血抜きされた二百五十キロを超える巨体と添えられた三十キロの仔ヤバンナドルンドが三頭。母親のヤバンナドルンドと比べると子供は随分と小さいと思えるが、肉をとるには十分すぎる大きさだ。しかも三頭。これだけの収穫であれば十分な報酬が見込める。
『転移の準備は万端です。皆さん、今か今かと待っていますよ』
「なぁ、常々思うんだが。これって転移って呼んでいいのか? いいのか? 俺が知ってる転移と全然違うんだが…………」
『くっちゃべってないで早くしてください。競りの為にすでに食肉業者が揃っています。あんまり遅いとギルドの中で暴動が起きます』
「…………分かった」
しぶしぶと納得がいかないと態度に隠さずに宗近は服の中から一枚のカードを取り出した。メタリックでありながら幾何学的な紋様が精緻に描かれたカードは遠話装置に良く似ている。これが転移装置だ。遠話装置同様にレンタル可能だが、転売不可の非売品である。転売した場合、その人間はギルドによって抹殺される危険物だ。紛失でも懲罰は免れない劇物である。
転移装置は回路だけで動力である魔石は自己調達せねばならないが非常に優秀だ。設定された場所まで荷重、角度などなど全てを自動演算して荷物を転移してくれる。
「やるか」
意を決して転移装置に魔石を乗せる。転移装置が魔石から魔力を吸出し、魔法陣を展開する。淡く輝く幾何学模様の魔法陣は、素人目には転移装置に刻まれた紋様とほとんど同じだ。碧の魔力を漏らしながら魔法陣が回り、周囲から風を吸い込み始めた。ヤバンナドルンドが魔法を使用した時と同等の暴風が吹き荒れる。
轟々と音を立てながら、魔法陣は風を吸い込み続ける。碧の魔力をより一層輝かせながら風を吸い込み。
「臨界だ。行くぞ、ディメア!」
『了解です』
ドンっと戦艦の砲が火を上げたのと変わらない爆音が響いた。音は森中に響き渡り、小動物が慌てふためいたように逃げ出した。そして、上空には、ヒューンという擬音が似合いそうな様子でヤバンナドルンドの骸が空を飛んでいた。飛んでいた。森に恵みを与えるかの様に首元から血をポツポツと落としながら飛んでいた。
転移装置。魔力で風を極限まで圧縮して指定位置まで吹き飛ばす素敵アイテムである。残念ながら宗近の誤訳ではない。誤訳ではないのだ。何故か、この世界ではこの方法が転移と呼ばれている。ついでに言うと着地ではなく着弾する。着弾地点を整形していなければ貨物は木端微塵だ。形を崩さずに運ぶ場合は転移装置の使用は不適切である。
「絶対にこれ、転移じゃねぇよなぁ」
耳を塞いでいた手を外して、遥か彼方に飛んでいくヤバンナドルンドを見つめながら宗近はぼそりと幾度目かになるか分からない呟きを漏らした。異世界の常識との隔たりは未だ厚い。
「なぁ、なんかお前の後ろからすげぇ怒号が聞こえるんだが。爆発音とか金属音とか…………ガラスの粉砕音まで聞こえたぞ」
『今回は仔ヤバンナドルンドまで売買の対象ですから。刃傷沙汰にならないといいのですが』
「お前の後ろから聞こえている音がまだ刃傷沙汰に発展していないと認識されている事に俺は驚きを禁じ得ない」
『訴えられなければ刃傷沙汰ではありません。結局、力のある者が正義なんですよ』
「それでいいのか、ギルド職員」
『我々は公務員ではありません。そもそも、ギルドは民間企業ですよ?』
「……………………そういえば、そうだったな」
グローバル企業であるギルド。そう、ギルドは企業であって国の出先機関ではない。故にギルドには平等や公平という概念は存在しない。力ある者が常に勝者となりえる民主主義の企業だ。そして国土を持たない国と呼んで差支えない程にバカデカイ組織である。国であろうともギルドの意向を無下には出来ない程にデカイ。抱える兵力と遠話装置や転移装置(?)などなどの特許によってギルドは国に縛られずに独自性を保っている。政治に関心がないのが救いだ。
さて、宗近が仕留めたヤバンナドルンドでこれ程にギルド会館がお祭り状態になっているのは訳がある。ヤバンナドルンドは魔法や打撃などで無駄に傷を与えられると肉の質が落ちる。最高の品質で用意するには鋭利な刃物で致命打を与えた上で、心臓が生きている状態で血抜きをせねばならない。そして、宗近が用意した粗刀・剃刀の斬味はこの世界において歴史上においても比類ない程に鋭い。鋭利な刃物(今回は両方とも無残に散ったが)によって仕留められた肉はこの世界において最高品質のヤバンナドルンド肉となる。しかも、王侯貴族のメインディッシュにさえ使われる生後三か月未満の仔ヤバンナドルンドまである。食肉業界でお祭りにならない筈がない。
「報酬はどれぐらいになりそうだ?」
『心臓と肝臓も状態が良いので……え? 値下げ交渉しろ? どうしますか、ムネチカさん』
「釣り上げろよ! 目一杯釣り上げろ!」
『という訳でして、値下げ交渉は不可能そうですが…………え? 工房賃料の値下げ?』
「今は、目先の利益優先だ!」
『はい、完全に無理です。刀の完成が先だそうです』
交渉を全てディメアに丸投げした宗近はどっかりと腰をおろして血生臭い中で弁当の用意をし始めた。森の中で小休止の際にも小腹を満たす程度の食事は摂取し続けたが、さすがに一仕事終えた後だとガッツリと食べたくもなる。
出発前に露店で買ったピザをかぶりとかじる。ピザといっても円形の平たい生地ではない。テュルキエでピザと言えば、ピザ生地を舟形にして中に具を詰め込んで焼き上げる物だ。具はミンチに葉物野菜、トマト、タマネギ、キノコ、ニンニクと食べごたえのある食材ばかり。生地が舟形ではあるが表面には溶いた卵で蓋がしてあるので具が冷めにくく、肉汁が蒸発する事無く噛むたびにあふれ出る程。生地の表面はカリっと焼き上げられているが具に触れる内側はモチモチとしており非常に食感が楽しめる。軽食や手軽な食事などにピッタリである。
むぅと、わずかに宗近は眉をひそめる。元々の顔が強面であるからか、少し眉をひそめるだけで不機嫌さが丸出しで子供が近寄れない位だ。
「やっぱ、握り飯の方がうめぇよなぁ」
はぁ、とため息をついてもはや懐かしいとしか言えない握り飯を思い浮かべる。
この世界に飛ばされて五年。醤油も味噌も、刺身も食べていない。米はあるにはあるのだが長米種であり、食べるとパサパサしている。チャーハンやパエリアは地球にいた頃同様、美味しく頂いているのだが米の飯が食いたい。叶うならば炊き立てツヤツヤの白米の上に採れた新鮮、黄身が箸で摘まめる程に味の濃い卵を落して醤油を添えてかっ込みたい。故郷の味を忘れてしまいそうなのが、切実に恐ろしい。
故郷味補正を除いても携帯食料という意味でおにぎりは中々に優秀なのだが、それを差し引いてもこのピザ、携帯食料として適していない。冷めれば生地の内側のモチモチとした部分が時間経過と共にガチガチに変化し、肉汁が冷えて雑味が増し脂が舌に残って水が欲しくなる一品へと変貌していた。森への道中で早朝にも関わらず開いている店で初めに見つけたのがこのピザの露店だったのだ。正直、ちょっと選択を間違えたと思っている宗近だった。
血臭漂うこの地でのんびりと本来は食事をすることは出来ない。臭いが鼻につくのは慣れで済ませられるが、血臭というのは本来、肉食獣を呼び寄せる。魔獣以外の普通の肉食獣も当然の事、肉食の魔獣に、肉を多く食べる雑食の魔獣などなどが血の臭いにおびき寄せられる。肉食獣というのは他の獣からの横取りも当たり前のようにするのだ。血の臭いがすれば当然、餌にありつけると思って寄ってくる。
が、その心配はない。先程使った転移装置のおまけ機能として付近の空気を一時間近く上空へと巻き上げて臭いを充満させない。この森には空にいる魔獣の類は生息していないので安心して休息も、食事もとれている。
合間合間にテュルキエ独特の飲料、アイランで口の中の油を流す。アイランとはヨーグルトを水、塩で飲みやすくした代物である。地方ごとに特色があり、水の代わりに瓜の汁やニンニクを使用したり、黒胡椒やミントを入れたりとヴァリエーションは豊富である。宗近のお気に入りは生姜入りで飲み口もピリリとしてアイラン独特のしつこさが消える。
テュルキエ国で大人気の飲み物であればついつい飲んでしまうという位に好まれている。が、当然の如く宗近の嗜好には会わない。典型的な日本人なのだ、宗近は。
『相も変わらずな顔をしてますね』
「俺にとっちゃ、ここはまだまだ異国だからな」
五年経てども故郷は恋しい。渋みのある温かい茶で食後は締めたい。だが、幾ら緑茶が恋しくともこの異世界から帰る術はない。
宗近が調べられる範囲で調べても異世界人の事が記された文献は見当たらなかった。この世界初なのか、それとも国によって隠蔽されているのか。どちらかは宗近に判断する事は出来ない。だが、無い物は無いと諦めるには日本の暮らしは便利すぎ、色褪せるにはまだまだ早すぎる。不慮の事故でこの世界に来てしまった為に恋しさは一入。だが、魔法を習得する事も出来ず、元の世界に魔法が無かった事からも帰還は絶望的だ。諦めて、この地に根を張って生きるしか術はない。
『故郷…………ですか』
「この国で生まれて、この国で生きて、この国で死ぬだろうお前にゃ、関係のない話だな。当たり前の事なのに、それがちと羨ましいぜ」
『……そうですか』
それきり、装置の向こうでディメアは押し黙ってしまった。年下の娘に何を愚痴っているのか、とため息をまたついた。
「血生臭いここだと休憩も碌に出来ねぇ。ディメア、帰りもしっかりと頼むぜ」
『任されました』
口が悪く、笑顔の一つも浮かべない無愛想な娘だが三年の付き合いもあると、やはり可愛いもの。穏やかな空気を取り戻して、宗近は町への帰路に――――
『0度、二百直進! 木立に隠れて!』
警告もなく緊急回避が告げられ穏やかな空気が一変する。数字だけを端的に告げられた場合は、真の意味での緊急事態。死の危険が目の前に迫る非常事態だ。
言葉が耳に届いた途端に体が動き出す。動かなければ死ぬ。思考するよりも体が理解して足を必死に動かす。もたつきそうになる足を叱咤して、木々が生い茂る森の中へと体を投げ出す。同時に、先程までいた広場に轟音が響いた。耳をつんざき、鼓膜を打ち破る程の音。音と共に体を押し流すような強い風。立っている事すらままならない台風並みの豪風。
まるで、転移装置で大型貨物が着弾したかのような有り様。
『至急、応援を呼びます! それまで凌いで下さい!』
それきり彼女の声は聞こえない。警告もなく緊急回避を告げただけあってやはり相当な事態だと実感が募った。
バサリ、バサリと大きな生物がはばたく音が聞こえた。猛禽類などという可愛い大きさの生物の羽ばたき音ではない。もっと大きな、最低でも五m以上はあるような、本来なら空にいる事も出来ない筈の大きさの生物が奏でる音。ぞわりと、背筋が粟立つ。空を飛ぶ事の出来る大型生物はこの異世界においても少ない。天馬、鳥頭獣、怪鳥、そして龍。
そのどれらもが宗近の手には余る化物ばかり。この世界においてもごく一部の限られた人間以外は歯が立たない化物ばかりだ。
恐る恐る、木立に隠れながら空を窺う。音が大きくなるばかりでまだ、音の発生源は見えない。だが、聞こえてくる音だけでなく脳髄の底から警鐘が大きくなり始める。圧倒的な死が近づいている。どうしようもない死が近づいてくると。
そして、それは現れた。翼長は十五m以上。まるで家そのものが飛んでいるかのような異様。眼は爬虫類の様に鋭く、サメのように尖った歯がずらりと口から生えている。肌は象のように鈍では傷すらつける事も敵うまいと思わせる程に分厚い。規格外。先程まで対峙していた大型のヤバンナドルンドが仔犬のように思えてしまう程に、桁が違い過ぎる。立ち向かう事すら愚か。ネズミのように目に触れない様に逃げ惑う事しかできないそんな相手。
空の王者である龍。その最下位に位置するカナツディナソー。
最下位とはいうが、龍という存在の中でだ。龍種の最上位、エイダーとはくらべものにならないが、カナツディナソー単体で村一つが楽に滅ぶ。分厚い皮膚は刃を通さず、空を自在に駆け回って矢も魔法も容易く避け、ブレスは長屋一つを丸々燃やし尽くす。一対一で対峙して勝てる人間などそうそういない。そも、龍種と遭遇して対峙する事の出来る人間がどれ程いるか。竜種とは最強の証。何せ、高危険度魔獣と最下位であるカナツディナソーが同率の危険度として語られているのだから。
姿はプテラノドンが最も近い形をしている。だが、プテラノドンと違うのは肉を食いちぎる歯があり、獲物を掴んで空に羽ばたける事。地上に落としたからといって油断の出来る相手ではない。
舞い降りたカナツディナソーはしきりに地面を睨みつける。その様は獲物を求める猛獣そのもの。
転移装置で安全地帯をつくるために巻き上げた血臭。それがあだとなったのだ。この森には空に君臨する魔獣の類はいなかった。だが、空を自在に駆け回る魔獣にそんな人の物差しなど意味はない。気まぐれで五百キロ以上も移動する彼らの前では、人の常識など意味をなさない。
昨日の受け付けの時に、近隣でカナツディナソーが出たという噂話が流れていた事を、今更ながらに思い出す。
歯の根が合わずにカチカチと歯が鳴るのが止まらない。体は痙攣を起こしているかのように震えが止まらない。
見つかれば死ぬ。見つからなくても戯れの行動だけで死ぬ。それが分かるからこそ、何も出来ない。何をした所で意味をなさない。飛び出して一撃を与えるというのは蛮勇に他ならない。宗近の戦闘技術はヤバンナドルンド戦で明らかになったように決して高くはない。
カタカタと震える体と共に刀がカチャカチャと音を鳴らす。右手で音を小さくするのに必死になってしまう。右手で刀を抑えながら、恐怖に染まった心とは別の所で、必死に同意する。あぁ、その通りだ、と恐怖で強張った指で握った刀に語りかける。
鍛冶師だからこそ分かる。生みの親だからこそ分かる。カチャカチャと刀の音が鳴るのは必死に訴えかけているからだ。
斬りたい! 斬りたい! 斬れる! 斬れる!
そう、刀が告げている。その通りだと宗近も理解している。エイダーならともかく、カナツディナソーの皮膚ならばこの刀で斬れるだろう。鉄さえ容易く断つこの刀ならば、必ず出来るだろう。
だが、いかな名刀とて素人が握れば竹光にすら劣る。仮にこの刀の正当な持ち主がここにいたならば、カナツディナソー如き容易く屠っていただろう。一刀の元にその首を、胴を真っ二つにしていただろう。だが、本来の担い手はここにはいない。正当な担い手ではない宗近しかここにはいない。
あぁ、くそっと心の中で毒づく。なんて報われない刀だと、なんて憐れな刀だと。目の前にその威力を測るに申し分ない獲物がいて、斬り裂く事が不可能ではない斬味を誇る刀がここにあって、担い手がいない。なんと、なんと不運な刀なのか。
恐怖する心とは別の所で忸怩たる思いが胸を締め付ける。ヤバンナドルンドを斬った時以上の、鍛冶師としての悔しさ。宗近が敵うならば、叶えたい。叶えてやりたい。だが、カナツディナソーの威容の前に委縮しきっている宗近では刀の願いを叶えてやる事は出来ない。刀もろとも、死へと旅立つしか出来ない。何も出来ないのだ。
ちくしょう、ちくしょうと小さく、何度もつぶやく。刀の哀れを嘆いて、何度もつぶやく。
その呟きが、宗近の時間を奪った。
あるはずの獲物を探す瞳はギョロリと音源である宗近を捕えた。僅かに喜色を浮かべた瞳。その瞳はヤバンナドルンドと異なり、驕っている。強者故の驕り。一方的に弱者をいたぶる事しかした事がないモノの瞳だった。
別の所にあった忸怩たる思いが吹き飛ぶ。恐怖のみが心を縛り上げて他の事など考える余地もない。震える子羊のようにカナツディナソーから隠れていなければならなかった。もはやネズミ対ライオン。一矢報いる事は叶えど、勝利を得る事も、逃げる事も出来るはずもない。
カナツディナソーの瞳が、望外な喜びに満ちて瞳孔が細くなる。
ガタガタと震えが止まらない。息をする事すら出来ない。尋常な勝負など出来るはずもない、一方的になぶられる未来しか見えない。
『動いて!』
胸元からディメアの悲痛めいた声が宗近の耳に届く。救援を発見できたのか、それとも見るに見かねて声援だけでも届けようとしたのか。だが、宗近の強張りきった体は言う事を聞かない。動かしたくても、もう動かせないのだ。体が、心が、本能が敗北を認めてしまった。
『我武者羅でもいいから逃げて!』
初めて聞く、ディメアの必死な声。それが絶体絶命な場であるにも関わらず、何故か似合わない気がして、止まっていた息がヒュー、ヒューと酷く不格好ながらも動き出す。体はまだ、動かない。
『刀を打つんでしょう! 刀が完成するまで死ねないって!』
その通りだ。青江宗近の生きる意味は刀を作る事。鍛冶師として己の師、己の生に恥ずかしくない刀を生み出す事。古今無双の刀を打ち上げる事。刀が史上最強の武器であることを証明する事。敗北を未だに認めていなかった魂が熱を持つ。魂が唸りを上げる。鍛冶師としての、刀工としての魂が生きなければ、生きて刀を打たねば、と吼える。されど、体は錆びついたかのように動かない。
『帰ったら、宗近さんが行きたいって言ってた定食屋に一緒に行ってあげますから! その、手とか、握って、だから!』
「いや、そういうのは一人で行くし、気を遣わなくていいぜ?」
でぃめあは、ひろいんとしてさいごのじゅもんをとなえた!
むねちかのこころにはみじんもひびかなかった!
業を煮やしたディメアはとんでもない発言をしてしまった。大胆な発言をして、ちょっとだけ頬を赤くしているかもしれない。だが、ディメアも酔狂で台詞をこの場面で発した訳ではない。基本的に人間とは生存欲と性欲は繋がりやすい。胸は小さいが年頃の瑞々しい肌を持ち、顔立ちは良く、無愛想だが気立ては悪くない娘からこの言葉を言われて普通、何か感じ入るモノがある。ちょっとはやる気が出てくるというモノ。胸は小さいが。
大抵の男はこう言われて奮い立たないはずがない。だが、残念ながら宗近の生存欲とイコールで繋がっているのは創作欲。年頃の乙女心とヒロイン力は今、無残にも無意味に散った。
僅かな沈黙の後、通信装置越しに怒気が伝わってくる。ビキビキと空気が軋むような音が聞こえる気がして、小さくヒィっと誰かが恐怖に強張る声が聞こえた。無論、宗近の声ではなくギルドにいる誰かの声だ。そして、気のせいかカナツディナソーがちょっと焦った目でそっぽを向いているような…………
『…………………………一か月、ご飯を作って上げます。三食』
喉が強張っているのか、非常に心が恐怖に染まり上がるような声で絞り出された声に、宗近の灰色の脳細胞が動いた。三食、料理を作らなくていい=鍛冶に専念できる。料理代を賄ってくれる=食費を炭代に回せる。と、危機的状況にもかかわらず一瞬にして計算が済まされた。
錆びついていたかのように恐怖に強張った体は宗近の思い通りに、否、彼の想像よりもちょっと調子がいいぐらいで動き始めた。
ヒロインとは一体………………
鉈も、回収した刃こぼれしている粗刀・剃刀も、無残にも砕け散った粗刀・剃刀の残骸を拾い集めた袋も、食料を入れたポーチも投げ捨てる。コンマ一秒以下の判断の遅れが死に直結する。カナツディナソーのブレスをヤバンナドルンドのように直近で回避する訳にはいかない。高熱のブレスは一m離れていても十分に脅威。反応を鈍らせる物は全て重り。されど、刀だけは手放さない。これは、本来の持ち主の魂の欠片。鍛冶師が己の判断で捨てていいモノではない。
「どれだけ逃げればいい」
『救援が来るまでおよそ二分です。足を良く見てください。少し怪我をしているでしょう?』
憮然とした声をしながらも律儀に答えれてくれるディメアの指摘に、宗近もようやく気付く。カナツディナソーの左足にはトラバサミに挟まれたかのような傷跡。傷からは今も血が少しずつではあるが流れている。つまり、誰かがカナツディナソーを狩ろうとしていた。その誰かは、ここから近い。罠から抜け出し、足りない血を補うために空の王者ともあろう龍がすでに死んでいる獲物を求めた。ならば、ここは絶体絶命の場ではない。
「なるほど、運がいいのか悪いのか分からないが、終わりが見えてんなら踏ん張れる」
『ご武運を』
ディメアの応援でより一層やる気が満ち、カナツディナソーを睨みつける。遥か彼方の格上。宗近単体では戦闘で同じ土俵に立つことは出来なくとも、時間を稼ぐだけならばまだ、なんとかなる。泥にまみれても、血が溢れだしても、片腕をなくしても生きてさえいれば、この異世界ではなんとかなる。最悪、四肢がなくなろうとも金とコネ次第でなんとでもなる。
逃げ惑い、木々の枝で皮膚が裂け、石に躓き額を割ろうとも、沼田場に足とられて泥に塗れようとも、汚泥を啜るはめになろうとも、生き残り、鍛冶場で刀を打つのだ。
生きて、刀を作るのだ。
ヒロインって一体なんなんだろう?