第四話
よく切れる包丁は錆びる。これは昔からよく言われる事ではあるが、昨今ではステンレス鋼製の包丁を買う人が多くこの言葉を実感できない人が多い。
だが、本当によく切れる包丁は簡単に錆びてしまう。切れ味が最も重要とされる包丁は柳葉包丁である。そしてその柳葉包丁では、本焼きと呼ばれる全鋼製で出来たモノが一等とされる。その切れ味は正しくほれぼれする程。誤って刃の部分で皮膚を撫でれば、それだけで切れる。それ程の一品だ。だが、手入れを怠ればすぐに錆びてしまう。それこそ、水を張った桶に数分放置するだけで錆が浮いてくる程だ。実に錆びやすい。
この錆びやすさは、刀身に使われている炭素含有量が関係してくる。鉄の純度の高い鋼は錆びにくいが、炭素を多く含有する鋼は実に錆びやすい。本焼きで作られた柳葉包丁は、刀身の全てが炭素量の比較的多い鋼で出来ている為に錆びやすいのだ。斬れるのと錆びやすいというのは不可分。両立する事は難しい。
そして、炭素含有量の高い鋼は、前述のように脆い。刀身に柔らかさがない為に、簡単に欠け、折れる。
切れ味に関与するのは刀身の素材だけではない。
剃刀のようによく切れるという言葉ももはや死語になりつつあるが、これも切れ味を表す言葉である。刃物というのは薄ければ薄い程、切れる。日本刀よりも、包丁よりも剃刀の刃が薄い為の言葉だ。刃物は接触面積が小さければ小さい程に圧力が高まり、対象の分子間結合力を弱めさせ切れるのだ。ならば、もし仮に、刃の幅が水素原子一個分の刃物があれば、魔法が存在しない世界であればあらゆるモノが切れる。こんにゃくだけ斬れないなどという事はなく、どんな頑丈な物質であろうとも地球上に存在する全てが切れる刃物が完成する。
つまるところ、切れ味とは素材と刃の薄さが関係してくる。
ならば、刀で切れ味のみを追求すれば…………それは、撫でれば切れ、触れれば切れる剃刀のように薄く、酷く錆びやすくて脆いモノが仕上がるだろう。
万物を斬り捨て、一太刀のみで役目を終えて潰えるだろう刀が――――――――
「こんなモンかね」
久方ぶりに着る服の着心地と動きやすさを確認して宗近は、力を込めて頷いた。
四か月ぶりに着る冒険者としての服装。日々、着流しで過ごしていた為に、納屋の奥の方に仕舞い込んであったのを慌てて取り出した。四か月というが、化学繊維製でもない服は当然のように放置すれば虫に食われる。また、最後に着用してから手入れも怠っていた為に、ほつれなどを確認しなければならない。採取用のナイフの刃こぼれも確認せねばならない。後は、医薬品の類だ。ファンタジーな世界だけあって回復薬が存在するのが実にありがたい。ペットボトルみたいな割れにくい容器に蛍光グリーンの液体がそれだ。ちょっと形容するのが難しい程に臭気がキツク、飲むのに勇気がいる品物なのだが。良薬口に苦しというが、飲むのに覚悟がいるような味の薬はどうかと思う。
服は厚手の麻生地の迷彩柄。緑の生地に茶色のまだら模様が浮かぶ柄は森林戦闘を想定された迷彩を施してある。その上に肩や肘、膝、それに心臓を守る皮鎧を纏っている。低危険度の魔獣とはいえ軽装備すぎないかと思うかもしれない。が、それは早計だ。この世界の魔獣というのは真実、危険だ。魔力的な防護をしていない生身の人間ならば低危険度の魔獣といえども容易くミンチにされる。考えても見るがいい。大木をへし折るようなイノシシの突進を金属の鎧を纏った所でその衝撃を受け止めたり、流したりすることなど出来ないはずもない。
この世界において、防御とは基本的に回避だ。受け止めるという防御の仕方などは絶体絶命時の最後の虚しい抵抗と同義。
故に、冒険者のスタイルというのは軽装が基本。まぁ、中には高危険度魔獣の皮や鱗を鎧にしている猛者もいるが、鎧自体がただの金属鎧とは比較にならない程軽い。また、鎧の着用者自体の身体能力が非常に高い。故に、高危険度の魔獣を倒すような英雄でさえも動きは軽く、早い。結局、基本防御方法は回避となる。
身体強化の魔術を使うのが上手い冒険者は体を軽くして武器を重くする。魔獣の生命力は総じて高い。その為、一撃の重さが必要になる場面があり重量武器を選ぶのだ。身体強化の魔術を使っている為、武器の主流でありながら扱い辛い大剣であろうとも人によって片手で軽々と振り回せる。
だが、重量武器を扱うのであれば長柄武器の方が扱いやすいのが事実である。現にバルディッシュやハルバートなどもこの世界にはあるにはあるが、好まれて使われることはない。
理由の一つとして、宗教が絡んでくる。テュルキエ国ではアセナ教という宗教が国教となっており、その主神アセナが使っていた武器が身の丈を超えるグレートソードだった。その事から国民にとって男が握る武器とは大剣という意識が根付いている。
そして、実利的な理由として大剣は魔法陣を刻むのに適しているという点がある。魔術とは発動させるのにイメージが肝要であるが、戦闘中にいちいち魔術の起動など前衛職がしていられる余裕などありはしない。だが、剣身に魔法陣を刻めば魔力を流すだけで魔術を起動できる。魔術の起動を簡易化する事によって思考のリソースをより戦闘に費やせるようになるのだ。
ただ、魔力を流す行為もイメージを伴う。無論、魔法陣無しでの魔術の発動に比べれば容易い事だが、戦闘中におけるロスは誰しもが避けたい。大剣であれば掌から一直線に魔力を伸ばすイメージだけで魔法陣を起動する事ができる。反面、威力も扱いやすさも上の長柄武器では刃の部分に魔法陣を刻まねばならない関係上、魔力を伸ばした後に曲げるようにイメージしなければならず不便なのだ。また、大剣系は剣身が広く長い為に多くの魔法陣を刻む事が出来、戦闘における幅が広げる事が出来る。
世間に名を馳せる冒険者の七割近くが大剣を使う事からも、その有用性が認められている。
魔法陣が刻まれた大剣――魔剣は一本で高級車一台を買ってお釣りがくる値段である。魔剣の所持は一流の冒険者である証として誰しもの憧れだ。
身軽さを重点においた街中でもよく見かける冒険者スタイルの宗近だが、一つだけ一般的な冒険者とは異なる点がある。それは、腰に佩いた四本の剣。
いや、正確に言うのならばそれらは、一本の鉈と、一口の刀、刀に近い形をした二本。
全て彼の自作。だが、一口の刀だけは特別だ。そう、この世界に唯一存在する、紛う事なき本物の刀。完成された唯一の品。この世界に来る直前に打った、彼がこの世界出身でない事を示す唯一の品。それが、その刀だ。
「あんまり出したくはないんだがなぁ。だが、いざって時の保険は用意しとかないといけねぇし」
ブチブチと言い訳と文句を重ねたような愚痴を吐きながら、刀身のチェックを怠る事はない。いざという時に斬れない、では話にもならない。まぁ、そんな柔な代物を作った訳ではないが、一応である。
抜きはなった一刀は曇りも歪みも一切ない美品。無垢鍛え、つまり心金も刃金もないただ一つの鋼で作られた刀。鎌倉時代から安土桃山前期に作成された古刀にはよく見られる造りだが、江戸時代以降の日本刀には珍しい一品である。
刃長は二尺六寸五分(約80.5cm)、反りは約一寸、重ね(刀身の厚さ)は約二分(0.6cm)とやや大きめの作刀だ。
だが、現代刀剣界の人間が見れば顔をしかめかねない駄刀だ。刃紋は乱刃ではあるが型紙を使ったかのように定型を保っており遊び心なく、地金の出来を見る錵と匂いは評価に値もしない。ハバキも鉄拵えで美がまるでない。重ねも厚めに出来ている。鍔は鍛鉄でワレモコウに雀と実に凝った一品であり芸術性と実用性を兼ね備えた些か不釣り合いな一品である。鍔以外は実に駄作だと多くの者がいいかねない刀だ。そして、何よりも特徴的なのが、この刀、実は玉鋼で作られていない。組成としては、鉄、炭素以外に、マンガン、ニッケル、タングステン、ケイ素を添加した特殊合金である。わざわざ、純鉄を一端作ってから炭素以外の成分を混ぜ合わせた特殊すぎる合金である。花も欠片もない駄刀、されど見る者が見れば分かるだろう。その刀から上がる霜気が――――斬れる刀としての凄みが。
そして、刀身の組成以外に装飾も実に特徴的だ。柄材は、よく見られる朴の木ではなくカーボン。更にその上にザイロン繊維強化プラスチック(FRP)で補強し非常に頑強に仕上げられている。握りにはサメ肌と似た素材を使っている。元々はエチレンプロピレンゴム(ラケットやバットのグリップテープによく使用される)で脱落を防いでいて手に吸い付いて離れない仕様だったのだが経年劣化には耐えきれなかった。二つの目釘は特殊硬化樹脂が使われ、柄糸は高密度ポリエチレン素材である。釣りをする人ならば知っているPEラインと同じ素材である。無論、普通は絹糸を使う。目釘を覆う目貫も実に長く、柄とほぼ同じ長さをしている。しかも、逆目貫と日本刀を拵える上での作法も逸脱して、完全な柳生拵となっている。鞘ももちろん、カーボン素材にFRPを巻いてある。その他各種金具はアルミ合金である。
日本刀を知る人間が見れば驚愕し、憤慨しかねない品である。しかし、同時にこれは現代科学の粋を集められて作られた、真の意味での現代刀でもある。
だが、残念ながらこの刀、恐らくだが日本の法律上では刀と認められない。銃砲刀剣類登録をするための条件を満たしていない為、警察に見つかり次第即逮捕及び廃棄される。運が悪いと玉鋼を欠片も使っていないせいで認められないのだ。明治、大正、昭和の時代に作られた軍刀がこれらの理由により数多く切断された。
そんなありえない刀を一頻り眺めた後に、宗近はフンと鼻息荒く気合を入れた。そう、これと同じような、否、これを超える刀を作るのだ。元の世界で世界最高峰の実戦刀と謳われたこの刀を超えるのだ。意気込み強く、雑念を振り払った。
四本の剣と刀を付けた状態での動作確認を怠る事はない。動きやすさは、生存率に直結する。確認を終えた後、また頷き、彼はギルドへと向う。
意気込みに反してその背中は、刀を打っている時の様な逞しさは無かった。
鬱蒼と茂る森。人の手が全く入る事のない森は暗い。間引きされていない木々が立ち並び天を覆い尽くして日が差し込まない。薄暗く、どこか異界のように思える。古来、人は山を神聖視しながらも魑魅魍魎の住処と恐れた。それはきっと、踏み入れれば二度と帰ってこられないと思わせる程の薄暗さが関係しているのだろう。
森の中は実に雑多な音が溢れている。鳥の囀り、虫の鳴き声、木々の揺れる音、水の流れる音、獣のいななき。匂いにしても実に雑多で、都市部に住んでいるだけでは嗅ぐ事のない不思議な臭いだ。故に、森や山に入る人間は気を付けなければならない。普段ならよく聞こえる耳も、雑多な音が溢れた山林の中では耳は些細な音の違いを聞き漏らし、異臭を感じれば気付く鼻も鈍る。ましてや生い茂る草木によって視覚から得られる情報も随分と減衰する。人間が外部から情報を取得する感覚の約九割が視覚に頼っている。視覚の遮りとは最も恐ろしい。
耳鼻目はさして役に立たず、周囲を警戒しながら山林を走破せねばならない。未開の山林とはかくも人に牙をむく。
「くっ」
周囲を警戒しながら歩んでいた宗近が唐突に何もない場所で歩調を崩した。目を凝らしても地面には落ち葉が敷き詰められているだけで何もない。だが、その落ち葉の下を見る事が出来れば、高さ十センチほどの石がある事に気付くだろう。視覚には映らない危険物が山林には満載している。危険は目に映るモノだけではないのだ。
『右方三十八、下方六十、距離五より熱源反応!』
突如聞こえる警告。声に従い視線を動かすがその先に見える木の根と落ち葉、僅かばかりの石ころのみ。声の主のいうような何かは見えない。
だが、宗近は見えずとも即座に鉈を引き抜き、指定された場所めがけて振り下ろす。瞬間、空気割く重い音が。続いてスコップを土に突き刺すような音が森に広がる。手ごたえは、残念ながらない。
『逃げられました』
「追い払えただけで十分だ。ありがとうよ、ディメア」
『仕事ですから』
簡潔に告げられる言葉に安心感が増す。そっと息を吐いて、警戒を緩めて鉈を鞘に戻す。本来、警戒の為に手に持ち続けるのが理想なのだ。鉈は全長六十センチ、たかが七百グラム程度の代物でペットボトルを持っているのと大差ないと思いがちだが、重心の位置により実際の重さよりも重く感じやすい。刃長四十五センチだが、その長さが何かにひっかかりかねない。石を乗り越えたり、木の根に躓いたりした時に両手が自由である必要がある。森の中は人の世の常識が通用しない。
「それでも、助かったぜ」
紡ぐ感謝の言葉は森の中で響く。何故なら宗近の周囲には誰もおらず、彼唯一人。独り言をしている様にしか見えない。
声は宗近の胸元になる金属製のプレートから発せられている。冒険者ギルドからレンタルしている遠話装置。小さな魔石を動力源とする装置は一対となっており、魔石の中の魔力が切れない限りは洞窟の中だろうと会話が出来る優れものだ。無論、非売品である。
しかし、この遠話装置、映像を送るという機能はついていない。ならばどうやってディメアは、しかも熱源でモノを視れたのか。
「便利だなぁ。その眼」
『正直、一度に多用すると気分が酷く悪くなります』
不機嫌と、聞くだけで分かる声が漏れてくる。きっと遠話装置の先では非常に珍しく不機嫌な顔をしているに違いないと宗近は少し笑う。ここは非日常。されど、こうして会話をしているだけで随分と孤独と不安は解消される。
ディメアの眼は千里眼と呼ばれる力を秘めている。千里眼、地球においては遠くを見通せる眼の事を言うが、この世界での千里眼は更に特別なモノとなっている。千里眼に限らず、未来視、テレポート、物体の重量変化及び重量操作、千人力、韋駄天、念動力、魔力無効化などなど千差万別にある能力の総称をオザールヘディエとされている。
オザールヘディエの保持者は十数万人に一人程と非常に少なく、神に与えられし力とも人類の新しい可能性とも呼ばれる。
そしてそれは、ある日突然覚醒する。元々持って生まれたモノなのか、何かの要素で目覚めるのかは判然としていない。だが、その力は既存の技術とは比べるまでもなく優れたモノであり、再現不可能な力となる。決して努力によって習得できるものではない。故にオザールヘディエを持つ者は多くの存在から狙われる。国から、犯罪者から、傭兵から。特別な存在ではあるが必ずしも後ろ盾がある訳ではないが為に、狙われる。また努力して得た力ではない故の嫉妬と羨望の視線が常に集まる。
ディメアのオザールヘディエ、千里眼は動かずとも世界のありとあらゆる場所を複数同時に見る事が出来る。ディスプレイを分割してみるような感覚だ。無論、分割する数が多ければ多い程、魔力消費及び脳にかかる負担は大きい。二十か所も同時に眺めていると五分もすれば使用不能に陥る。また赤外線を感知する事も出来、夜間及び遮蔽物の多い場所での見通しの良さがある。多角的、多次元的に見る事が出来る為、情報の精度が高い。
特殊であり便利な能力と思うかもしれないが幾つか不便な点は存在する。一つは先程述べた分割数の上限。一つは壁越しには見る事が出来ない事、一つは視覚のみで他の五感情報を拾えない事、最後に視覚に情報処理が傾けられるため、千里眼使用時は所持者が無防備になる事が上げられる。更にオザールヘディエ保持者全てに共通して通常魔術が酷く苦手とする事である。魔力を固有のオザールヘディエに流す事に慣れ過ぎたが故の弊害である。あらかじめ魔法陣が描かれた道具類は発動できる為、日常に支障はないが、不便は不便なのである。
神に与えられし力、と呼ばれはしても決して万能ではない。まぁ、全てを見通す事が出来ないという理由で権力者に消されないのだからある意味でこれは幸運なのだろう。もし、壁越しに見る事が出来、音声まで拾えれば密会など覗き放題だ。確実に千里眼を保持したことがバレた時点で消される。
「…………悪いな」
『仕事ですから』
ディメアの口から紡がれる言葉は実に事務的である。だが、その言葉の口調からは僅かな苦笑と微笑ましさが混じりあっていた。言葉というのは文字とは違い、決してそれだけで意味をなさない。その言葉を紡ぐ向こう側の態度が、意味を書き換える。例え事務的な言葉であろうとも、その言葉の中に含まれる感情は決して事務的でなかった。
『それに、死なれると困ると上からも言われてますから』
「研ぎ師、育てた方がいいんじゃないか?」
『親方はムネチカさんに決定ですね』
「うへぇ、藪蛇だった」
『将来は安定しますよ』
「その先に、俺が求めるモンがあればいいんだが、生憎とそうじゃないだろ?」
研ぎ師として仕事を選んだ場合、彼は決して刀工に戻れないだろう。その多忙さに全ての時間を削り取られて、研ぎ師として名を遺し、弟子を残してこの世界の土に帰るだろう。彼の研ぎの腕は一級品だ。誰もその手を放さない。誰もその手で研ぎ以外をさせる事はない。
安寧を求めれば理想には辿りつけない。安寧を捨てて、野垂れ死ぬ覚悟で挑まねば理想には辿りつけない。現代刀の始祖、水心子正秀の様になれなくとも目指す心構えが必要だ。
『目標まで距離、三キロ。このまま直進してください』
ディメアの声を頼りに道なき道を邁進する。サポートについたディメアの千里眼のお蔭で索敵、警戒などに力を割く必要が無い分、宗近の足取りは早い。
ペロリと指先に唾をつけて森の中を複雑に流れる風の流れを見る。風は進行方向から吹き付けてくる事が指先から感じられ、宗近はニヤリと笑みを浮かべた。
狩猟において風向きというのは非常に重要だ。野生動物は匂いに敏感で風上に立とうものなら簡単に気配を察知され逃げられる。野生動物の大半が人の嗅覚の最低でも千倍はある。人では感じ取れない微かな臭いであろうとも野生動物相手には酷く強い匂いに感じられるのだ。
「そろそろ休憩するか」
『助かります』
残り三km地点から十五分ほど進んだところで宗近は腰を下ろした。無論、彼が疲れたからという訳ではない。宗近の体力は冒険者の平均から見ても十分にある方だ。が、ディメアは別である。前方の赤外線による認識、対地、対空、後方、左右両方の通常認識、目標の監視による七つ同時視点での監視及び警戒は、警戒しながら森の中を進む事と比するのが愚かしい程、魔力及び精神に過負荷をかける。
ゴキュゴキュと飲料をがぶ飲みする音が遠話装置から聞こえる。喉を鳴らす音は聞いていて気持ちいい程だが、宗近の顔は青くなるばかり。
「おい、魔力回復ポーションそんなにがぶ飲みすんな」
『くふっ、マズイですね。まるで薬品臭さを濃縮したような味です。もう一本』
「無理して飲むんじゃねぇ! 俺の財布が!」
『舌の心配ではないのですね…………好きで飲むわけがありません。サポートの為です。途中で切れる方が大惨事ですよ』
メディアが喉を鳴らして飲んでいるのは唯の飲料ではない。魔力を回復する特別なポーションでかなり高い。二百五十mlで五千テュルクする。味はドクター○ッパーから炭酸を抜き、正○丸と陀羅○助丸更に独特の風味を濃縮したような味だ。特殊な嗜好の持ち主でもない限り好き好んで飲む者はいない。尚、現在冒険者ギルド直営店でセール中。十本買うと一本おまけがつく。
それをがぶ飲みされてはたまらない。サポート代の中には当然、この魔力回復ポーション代も加算されている。飲まれれば飲まれる程、請求されるのだ。受付の時に宗近がサポートを渋るのも分からないでもない。
さらにボリボリと飴を噛み砕くような音が。
「飴、美味いか?」
『反吐が出る程マズイですが、精神疲労を回復するという売れこみのプラシーボ効果に期待する他ありませんね』
「自分でプラシーボって認識してたら、意味ねぇんじゃないのか?」
そんなんで疲労は回復できるのか心配になるが、これもまぁある意味でいつもの事だ。自分で自分を持ち上げて精神を保たせているディメアには頭を下げる他ない。
この世界には魔力回復薬と同様に精神疲労回復薬も存在する。粘土と腐った牛乳をふいた雑巾を足したと表現すべきような人間の味覚を殺しに来ている味だ。これも魔力回復ポーション同様の不人気品だ。窮地に陥ればだれでも服用せざるを得ないが。
これも当然高い。が、一度も精神疲労回復薬代は請求された事はないので、ディメアが噛んでいるのは本当にクソマズイ飴なのだろう。
五分ほどの休憩の後に宗近は歩みを進めた。
『距離一キロ。視線の先にある大樹が目印です。その根元にヤバンナドルンドは陣取っています。これに向かって直進を。これより音声ガイドを切ります。ご武運を』
距離一キロにしてディメアの声が途切れる。最後まで事務的だったが、最後の最後に色気のある言葉にあいつらしいという感情を浮かべて、顔を引き締める。雑多な音でにぎわう森とはいえ、人の音声は本来その世界にない物。故にその音は野生動物にとって不可解で危険なモノと認識され、警戒される。ましてや、魔獣ヤバンナドルンドの聴覚は非常に優れている。その点から考えれば、ちょっと遅すぎる気がしないでもないが…………
青江宗近、刀鍛冶関連に技能値を全振りした男が狩猟を行っているのだ。諦めて欲しい。
距離二百。大樹が周囲の栄養全てを吸い取っているのか低い草木はなく、宗近の眼からはヤバンナドルンドの姿が確認できた。風下を陣取り、音も極力殺している。また、ヤバンナドルンドの動きからして気取られているとは思えない。ヤバンナドルンドは聴覚、嗅覚こそ発達しているものの視力は人間でいうと0.1と、非情に悪い。まぁ、肉食動物でもない限り視力がいい野生動物というのは早々いないのだが。
じりじりと、じりじりと距離を詰める。理想は背後からの不意打ちで一刀の下に尻を斬る。その後に首を切り落とす。これに限る。これが出来れば肉質は最上級となり、自身の負傷も少ない。
呼気を殺す。緊張による乱れた息は、呼吸音が大きくなりすぎて気取られやすい。静かに、また一歩足を踏み出す。
汗がにじみ出て、体が熱い。緊張から溢れる汗はぬめりが強く得物が抜けやすくなる。掌についた汗をズボンで拭い、また更に一歩進む。
そこで、ヤバンナドルンドと目が合った。気取られた。
彼我の距離はまだ百五十メートルはある。だが、油断は出来ない。ヤバンナドルンドは時速にして五十キロほど。それも平地ではなく森林の中で、しかも魔法を使わない状態で、だ。地球における世界最速のスプリンターすら凌ぐ速度。また、ヤバンナドルンドは――まぁ、幾度もいうようにほぼイノシシなのだが――急停止や方向転換が非常に上手い。猪突猛進という言葉から一度走り始めると直進しかしないように思えるがそれは勘違いだ。さらに、鋭く発達した牙はナイフと評するほどに切れ味を誇る。突進のさいに口元に掠めるだけでも大惨事につながる。
突進してくるヤバンナドルンドを睨みつけたまま腰を落すにとどめる。まだ武器は抜かない。周囲の木々が邪魔をして思うように刀も鉈も振るえない。避けるのならばギリギリの瞬間に。回避が早すぎれば不安定な姿勢のまま突進され、遅すぎれば牙の餌食となる。
絶妙に回避するには十秒待たねばならない。十秒、待つには長い時間だ。外聞を気にせず一目散に逃げ出したい。元より宗近は鍛冶屋。戦う事など得意ではない彼が逃げ出したとしても誰も責めはしない。
震える体と竦む足に喝を入れる。宗近は戦士ではない。宗近は英雄ではない。宗近は勇者ではない。それでも敵に挑まねばならない時がある。そう、具体的には来月分の食費と炭代、ついでに保険代とツケを支払う金銭を得る為に!
水心子正秀
山形県出身の幕末の刀工。太平の江戸が長く続いた為か江戸時代中期から後期にかけては刀工のほとんどは見栄え重視で刀を作り、実用に耐える品が減っていった。斬れて頑丈な刀よりも化粧を施され美術品としての日本刀がその時代にはよく売れたからだ。だが、黒船来日による日本の平和が脅かされると実用重視の刀の需要が高まった。時代に背中を押されて鎌倉、室町時代の古きよき刀(戦場において実用に耐える代物)を取り戻す為に邁進したのが水心子正秀だ。
彼の復古理論を広めんが為、自らが収めた技術を十数冊にまとめて公開した大人物である。刀鍛冶とは秘匿技術が多く、弟子の中でも特に優れた弟子にしか詳細を教えなかった。ましてや弟子ですらない刀工に己の技術を公開するなど当時としてはありえない事だった。
彼の影響を受けない刀工は当時いなかったとされる程に偉人である。ただ、残念な事に彼自身の作刀は古刀に追いつけなかった。また彼の残した著書が現代の刀の製作の基本となっている。