第二話
「畜生、何がいけなかった」
場末の酒場で男が一人、頭を抱えていた。知っての通り刀工、青江宗近である。髭をぼうぼうとはやし、顔にはいくつか火傷痕が残っているような筋骨隆々。上背は高く百九十近く、槌を振り下ろすための腕は若い女の腰ほどもある。地を踏みしめるための太腿は腕よりも更に太く、背筋は鬼の顔が刻まれているかのよう。そんな男が酒場で管を巻いていた。ビール一杯で。
周囲は喧騒に包まれているが、宗近が座るカウンター付近はお通夜の様に賑わいが無い。筋骨隆々の大の男がブチブチと文句と陰気を垂れ流しながら酒を飲んでいるのだ。さもあらん。
「道具は、多分、原因じゃねぇ。槌も鉄床も、やすりも前から使ってたヤツだ。ナイフとか剣を作ってる時にはあんなバカげたことは起こらなかった。なら…………材料か。炭か? 炭がいけなかったか? 赤松に似た良さそうな樹で作った炭だから買ったんだが。それとも、火床か? 親方の所じゃ魔火炉を使ってたが…………いや、そうなると炭が悪い事になる。それとも、まさか、鉄か? 鉄の精製が悪かったのか? 魔石の類でも含んでたっていうのか…………いかん、一番あり得る気がしてきた。いや、待て。だったら、親方から何か一言有る筈だ。いや、それとも常識過ぎて、教えられなかったのか?」
ブツブツと頭の中で一人ブレインストーミングを繰り返すが、結論は出ない。もし、答えを出すのならば検証実験の繰り返し、トライ&エラーを繰り返すより他はない。
先程青江宗近が仕上げた、斬った巻き藁が凍る刀(破壊済み)という二度目の、訳のわからない失敗に耐えきれずにヤケ酒を煽りに来たのだ。斬ったら起きる変な現象が己の身に降りかからなかった事は不幸中の幸いだ。
コトリと音が鳴り、目の前には新しいビールの入った汗を浮かべたグラスが置いてある。その先には老紳士と呼ぶべき髭を奇麗に生やした細面の男が立っていた。髪の色の割に背筋は伸び、顔に刻まれた皺は生きた年月を感じさせる。こんな場末の酒場にいるのにはあまり相応しくない人物だ。
「マスターか。まだ、注文しちゃいねぇぜ?」
「杯が乾いている事にも気付かれていませんでしたから」
柔和な笑みと気遣いが沈んだ心には実にありがたい。
この場末の酒場には相応しくない細身で細面の老人は、店主である。酒場の親父というよりもマスターと呼びたい格好だ。こんな細見で荒くれ者ぞろいの場末の酒場を切り盛りできるのか疑問に思うかもしれないが、かつては武闘派で有名なマスターである。酔って暴れる客位は簡単に叩きのめせるのだ。
「ありがとうよ」
「いえいえ、おごり、などとは一言も言っていませんから」
「ひでぇや、マスター」
にっこりと笑って催促するマスターに苦笑いを浮かべて新しいビールを口に付けた。二口、三口とビールで喉を潤してもマスターは目前でグラスを磨き続けている。給仕の女性がてんやわんやと、大声で呼び出されたり、注文を繰り返したり、セクハラされかけたり、セクハラ仕掛けた相手をぶちのめしたりと忙しいというのに。
酒場の中、一人陰気な男を気遣ってくれている事にはすぐに気づけた。
「故郷の武器を再現するのは、やはり上手くいきませんか」
グラスを丁寧に磨くマスターから明日の天気はどうですか? とでも言わんばかりの当たり障りのない言葉に、宗近はプッと笑いを零した。自分にとっては大きな悩み事でも、他人にとっては明日の天気とさして変わらない悩みだと今更ながらに気付かされる。
「上手くはいかねぇな。二口ほど仕上げたが満足いくにはまだまだ」
「こちらには無い物ですからねぇ。刀、でしたっけ?」
「あぁ、こっちは剣が主流だからな。炉の形式も違うし、色々と苦労するのは分かってた話だなぁ」
「えぇ、無い物を求めるのならば、苦労をするのは当然かと」
その通り。無い物を作り上げるのには苦心せねばならない。幾ら作り方を会得していても、道具すらなかったのだ。ましてやここは異世界。苦労しない筈がない。
「そうだな。二回も続けて失敗したから気負い過ぎてたかもしれねぇ。急ぐモンでもない。ついでに言うと需要もねぇしな」
「それじゃ、趣味、ですね」
「趣味か。そうだな。趣味だなぁ!」
宗近にとっては刀を作る事は生きがいであり、生きる目的だ。だが、工業製品とは悉く、需要があってこそ価値が生まれる。本人以外の誰も求めない、価値の無い物を作るのは正しく趣味と言っていい。
この世界において刃物と言えば剣であり、それは片刃の曲刀ではない。両刃の直剣、それも大剣こそが求められる。そして、武器に求められるのは悉く、頑強さだ。どんな衝撃を受けても決して折れる事の無い武器こそがこの世界において必要不可欠。まぁ、壊れない器物など存在する訳はないのだが、それに近付ける努力は必要だ。故に、鋭さを得る代わりに細身であることを選んだ刀は見た目の段階で選ばれない。
また、この世界の剣士に刀をほいと渡しても、誰も使いこなせない。欲しがるのは珍品コレクターぐらいだ。
剣と日本刀の扱い方は全く別である。刀は周知の様に引いて斬る。その時に刃筋が整っていないと斬り抜く事は出来ない。だが、剣は押しつぶして切るのである。端的に言えば、押して切る。鈍器同様の扱いだ。包丁で例えるのならば、柳刃包丁と中華包丁並に違うのだ。根本的な扱い方が異なり、剣と同じ様に扱われてはすぐに曲がる。刀とは熟練の操刀技術があって初めて真価を発揮するのだ。例え、剣道家であろうとも真剣を振った事もない者には扱いきれない。
他のどんな武器よりも斬れるからといって、熟練の技を要する難解な刀は決して需要が生まれる訳ではないのだ。ましてや大剣こそが武器という風潮のある世界で大太刀でもない定寸の刀なんぞ売れる訳もない。
「えぇ、ですが、その為に五年も費やす事が出来たのです。その執念を思えば、必ず、貴方の納得のいく物が出来上がりますよ」
「そう、願いたいねぇ」
苦笑を浮かべつつ、少し温くなったビールを一口。やはり、幾度飲んでも日本のビールであるラガーとは違う味わい。だが、それにもすでに慣れてしまった。
宗近がこの世界――といっても名前はない。異世界間の交流のない場合、世界は世界でしかない。この異世界に飛ばされて早、五年。五年も立てば、否が応でもこの世界に順応する。未だに、ジャポニカ米と醤油と味噌と日本酒が無いのには我慢が出来ないが。
だが、ビールはよく冷えている。そしてこの酒場も空調が行き届き、他の客の熱気で蒸し暑いという事はない。部屋の壁に僅かな光を漏らす紋様。レジの方を見れば貨幣や紙幣ではなく、カードで決済をしている。会計をするすべての客が、である。ついでに、大半が帯剣していたり、杖を持ち歩いている。
この世界には剣と魔法が横行している。
それも、日常的に使う魔法に関しては非常に発達している。水道を捻れば飲める水が出て、触れるだけでコンロに火が付き、空調も思いのままである。宗近がほぼ日本にいるころと同じ様な生活をしている、というだけでどれ程魔法技術が発達しているか分かるだろう。それほどに魔法は、この世界においてありふれた物だった。科学の代わりに魔法が世界を覆っている。電気の代わりに魔力が使われていたり、電池の代わり魔石が使用されている。そんな文化水準である。
進化というモノはたいてい重ねれば重ねる程に収斂していく。鳥と蝙蝠の翼の形が似ているように、イルカと鮫のフォルムが似ている様に。魔法を使っても便利さを追求すれば科学と同様の結果を生むモノが出来るのは必然だったのかもしれない。
そんな世界なのに、剣が当たり前のように使われている。剣、否、剣に限らず刃物や鈍器の武器というのは発達した技術を持つ世界においては時代遅れな代物だ。
現代において戦場で使用される武器が銃にとって代わられたように、この世界で銃に代わる武器に戦争の主役が奪われていてもおかしくはない。戦いにおける最も有利な武器とは、射程の長い武器だ。日本の鎌倉期において弓が武士の誇りであり、力比べをするのに使われたように、戊辰戦争で銃や大砲が使われたように、第二次世界大戦で制空権が勝敗を左右したように、現代においてこぞってロケット技術を磨くように。射程の長さとはすなわち、強さなのだ。
だが、この世界ではそういった代物は未だ生まれていない。兵士一人一人に行き渡るまで携行できる大量生産された銃に似た何かは存在しない、何故か?
魔獣の存在である。魔獣という、人間よりも強い個体。人間よりも速く、人間よりも固く、人間よりも力のある魔獣という存在が銃を発達させなかった。銃というモノは根本的には人を殺す為のモノである。無論、猟銃はその限りではないが、設計思想の中に鋼鉄と同等の皮膚を持った生物を撃つなどという事はない。ましてや、魔力によるシールドを張る個体に対して対応法など考えられていない。無論、いずれはこの世界でもそう言った武器は生まれるだろう。だが、現状では銃に似た武器は、必要とされず、生まれてもいない。
話が逸れた。剣の重要性について今一度語ろう。魔獣の中でも魔力に対して強い反発性を持つ種族や、人と比べて魔力を膨大に持つ個体などにより魔力差によるレジストが起こり、魔法が通用しない事がままある。そう言った手合いには己の肉体を強化して原始的な武器で直接攻撃するのが最も有効なのだ。そのため、この世界では未だ剣が武器として使われ、魔法と共存している。
「五年かよ。長ぇな。本当に長い」
もう一口、ビールを含んで愚痴をこぼす。かつての日本にいたころがもはや懐かしい。あちらの世界での日常の記憶はすでに擦れ、明瞭に思い出せるのは鍛冶に関する記憶だけ。
宗近が異世界に来た理由は不慮の事故が起きて神様に詫びがてら転移した訳でも、魔王の脅威によって王族や宗教家によって呼び出された訳でもなく、ただ意識を失った後に目が覚めたら草原にいた。
手元にあったのは直前に研ぎ師から返却され拵えまで完成された刀が一口。身にまとうのは鍛冶用の着流しとトランクスのみ。携帯も財布すら身に付けてはいなかった。ほぼ裸一貫で草原に放り出され、方々手をつくしやっと街に付き、生活の拠点とする事で事なきを得た。特殊な能力も、莫大な魔力も、チートなアイテムも一切ない。ただの人間として宗近は異世界に転移した。
そして、流れ着いたこの都市、城塞都市エディルネ。テュルキエ国の一地方都市であり相当発展はしている。日本でいう所の仙台ぐらいの発達具合である。きちんと水洗便所が公衆便所にまで普及している。残念ながらウォシュレットはまだ開発されていない。
鉄の打つ音に惹かれて鍛冶屋に住み込みで見習い弟子として働く事となり、工房を立てる資金を得る為に冒険者ギルドで働いたりもした。
文に起こせばこれだけだが、言葉の違い、文字の違い、文化の違い、生活習慣の違い、食生活の違い、何よりも常識の違い。様々な違いを擦り合わせて現在に至った。この世界に来た当初は言葉遣いの丁寧な好青年だった宗近なのだが、今では立派な三十路を超えた言葉遣いの荒いオヤジになってしまった事から、その苦労が窺える。
長さや重さなどの単位や、数学の概念が現代日本と同じだったことが救いと言えば救いだ。
「随分と遠い所まで来ちまった」
ビールが照明の光に当たり、ノスタルジックな気分になってくる。つい、己の足跡を確かめたくなる時もたまにはある。
宗近の出身は岡山県、細々と生き残っていた青江一門の血筋である。生まれた時より、祖父とその弟子の槌の音を聞いて育ってきた。赤子に渡す一般的な玩具よりも小槌を与えられただけでご機嫌になったという話は、幾度も親から聞かされたものだ。はいはいが出来る様になると隙を見ては鍛冶場に潜り込もうとした、とも。五歳の時には祖父にねだった結果、炭切りだけはさせてもらえるようになった。五歳が刃物を持つなど以ての外と母親と祖母は怒ったが、三日も土蔵に引き篭もって無言の抗議を上げた所、折れてくれた。
十一歳にもなると相槌を打たせてもらえるようになった。早朝に起きては相槌を打ち、学校から帰っては相槌を打ち、土日には友達とあまり遊ぶ事もせずに鍛冶場に入り浸った。祖父は喜んだが、サラリーマンだった父があまり良い顔をしなかったのを思い出せる。
中学に入って、学校にも行かずに鍛冶場で鍛錬していた所を一家総出で怒られ、しぶしぶ学業と鍛冶を両立させた。長期の休みには祖父の背中を凝視して必死に学び取ろうとしたものだ。中学二年の夏から包丁づくりを許され、喜びに飛び跳ねたのを覚えている。
進路ではもめたモノだ。高校に行けと両親と祖母は言うが、弟子入りをして鍛冶をより学びたいという気持ちが強かった。祖父のとりなしのお蔭で定時制高校をしっかりと卒業する事でなんとか説得できた。夏休みを利用して方々と歩き、師として敬うべき人物をなんとか探し当てた。実に良き師に巡り合えたと思う。
師の下で刀の鍛造はもとより、金属工学も学ばせてもらった。学習の毎日だったが、鉄の、鋼の事を理解するたびにワクワクとした毎日だった。師には休日に少しぐらいは休めとよく説教された。怠ける弟子は多かったが、休まない弟子は初めてだ、と別れの席で困ったような嬉しいような顔で言われたのは、今でも面はゆい。
刀工資格を取り、家を継ぐために帰ってきて絶望した。師と祖父の間にある隔たりを知ってしまったが故の、絶望だった。ふと目に入った祖父の刀が、いやにけばけばしかった。まるで白粉と紅を塗りたくった花魁のような艶やかで華やかでありながらも容易く手折れそうな刀だった。温室育ちのような、ただ眺めるための刀のように見えた。それを不思議に思い、畳表で試し切りをした所、切っ先が折れた。何故、こんなにも簡単に折れてしまうのか不思議に思うくらいに簡単に折れた。
師の刀は違った。まるで田園風景眩しい田舎で野山に触れて育った溌剌した少女を思わせるような地に足の着いた強さがあった。幾度畳表を切ろうとも、少し曲がる事はあっても折れる事だけは決してなかった。それが一体…………
結果、祖父と殴り合いの喧嘩になる寸前に家を出奔する事にした。だが、鍛冶しか知らない若造に行く当てなどなく、師に頼り、師からの紹介である家に仕える鍛冶師に身を寄せる事となった。師の師という事もあり大人物で、厳しくもよく学ばせてもらった。
十五歳から家を出て、家に帰ったのは両手で数える程。家族を養うために志を曲げた祖父の事も今ではその心根が分からないでもない。鍛冶で食っていくのは非常に苦しい。刀工資格を得て、刀を作るだけで生きていける刀工は一割ほどしかいない。それを知れば、如何に厳しい職業か想像もつく。家族に、特に祖父に不義理な事をしたと帰れなくなってから強く思うようになった。
だが、生活が苦しくとも志を捨てるつもりはない。食に困ろうとも志だけは捨てるつもりはない。
今でも覚えている。初めて見た古刀の輝きを。冬の晴れた空に似た抜けるような青さ。青い地金に刻まれた歴戦潜り抜けた証である誉傷。魅了された。武器としての機能を極限まで追求したが故の美。それに心奪われた事を。
火床に向かい、炎を操り、鉄と語らう祖父の姿。一つ一つ個性の違う鉄を、炎を操って自在に変化させるその背中にしびれた。憧れた。例え、祖父の刀が師に劣ろうとも、あの背中だけは忘れる事は出来ない。
ぐいっとビールを飲み干す。過去に長々と浸るにはまだ、若すぎる。宗近にとって重要なのは至高の刀を打つ事。刀工にとってこれ以外の生きる意味など持ち合わせてはいない。例え、世界が変わろうともする事は刀を打つ事だけだ。青江宗近の魂は、生まれる前から刀工となるためと、決めているのだから。
生きる意味がある彼だからこそ、こうして今も胸を張って生きている。
「……マスター。やっぱり、勝手にそっちが酒を出したんだからおごりだよな?」
「…………金欠ですか?」
「炭代が高くついてよ、ついでにいうと今月はこれから試し打ちなりなんなりで…………ちとヤバイ」
「………………つけておきます」
「すまん」
胸を張って生きていけるはずだ!
その二週間後、相変わらず水をたっぷりと含んだ巻き藁を斬った。結果、巻き藁が突如放電をし始め、塵すら残らなかった。試し切りで斬った巻き藁二本ともが。そして、宗近は当然の如く猿叫を上げ、脇差をへし折った。