第一話
鉄を打ちて幾年。我が槌、未だ至尊となる作を生む事あたわず。理想は遠かれど、我が魂はその先を求み続く。
鉄は熱いうちに打てということわざがある。
鉄は熱してやわらかいうちには、打っていろいろな形にできることから来ており、人間も純粋な心を失わず、若く柔軟性のあるうちに心身を鍛えることが大事だという慣用句だ。しかし、今はその慣用句の意味でなく文字通りをこなさなければならない。
男の目の前には輝赤色に光る鉄が。摂氏にして850℃以上。触れれば簡単に火傷をする。近くにいるだけで汗は止めどなく流れ、喉は水分を欲してしまう。熱い。暑いなどという生温いモノではなく、熱い。だが、鉄を打つには今少し熱が足りない。火床に鉄を入れ、ふいごで更に温度を上げる。炭は赤々としている処か白く発光している。熱く、熱く。鉄を熱する。
輝黄赤色に変化した鉄を鉄床の上に。焼ける鉄と肺の中まで焼けそうな空気。知らず、男の頬は緩んだ。久しく打てなかった鉄。久しく嗅がなかった鍛冶場の匂い。心はこの時点で満たされる。
唐突に男は己の両頬を打ち鳴らし、叱咤する。鉄を前にして緩むとは何事か。もはや会えぬ恩師がいれば鍛冶場から叩きだされていた事は想像に容易い。一人前と認められ、久しぶりの鉄打ちとはいえ、気の緩みは許されない。男は職人だ。生み出す道具に真摯に向き合い、己が持つ技術の全てを駆使せねばならない。
眼を開け、鉄を見据える。そこにはまだ輝黄赤色に輝く鉄が煌々と。
カァンと甲高い音が響く。鉄打つ独特の弾力が手に返る。喜びも楽しみも余禄である。己の感情を削ぎ落とし、無心に鉄を打つ。幾度も、幾度も。火花が散り、腕と顔に、否、体全体に襲い掛かる。火花というが、実質は鉄に付着した不純物。皮膚に付着すれば熱いなどではなく、当たり前のように火傷をする。だが、男は無心に、鉄を打つ。幾度も、幾度も。
本音を言えば相槌が欲しい所であるが、生憎とこの小さな鍛冶場には男が一人のみ。無い物ねだりである。
鉄の声を聴き、鉄の色を視て、鉄の匂いを嗅ぐ。鉄の全てを見極めんと幾度も槌を振るい、火床に入れ直して鉄の温度を保ち、また叩く。鉄を叩くときに最も重要なのは温度だ。どの温度で適切な打撃を叩きこむかは熟練の技を要する。次いで切れ込みを入れて、今度は折り返し鍛錬。
不純物を取り除き、鉄の結晶を細かくし、在り方を整える。とかくこの工程は、我慢の連続だ。熱さと疲れとの戦い。だが、手は抜く事など以ての外だ。幾度も鉄を打ち、鍛錬する事によって日本刀独特の粘りとしなりが生まれる。刀鍛冶における基礎といってもいい重要な作業だ。ここで、日本の近代刀鍛冶における最大の特徴ともいえる、皮鉄と心金を作り出す。
無心に鉄を打ち続け、気付けば日も暮れ、胃は空腹を訴えている。不眠不休で鉄を打つ事も男にとっては出来なくもないが、久しぶりの刀鍛冶。万全の体調で打ちたい。何よりも、刀というのは単日で出来る訳ではない。皮金の折り返し鍛錬が終わっても、心金の詰み沸かしから折り返し鍛錬。皮金と心金を合わせる造りこみ。刀の原型を作る素延べ、刀としての完成型を槌で作り出す火造り、やすりなどによる整形の生研ぎ、土置き、焼き入れ、鍛冶押しがある。
江戸時代に弟子を入れて九人もの作業で三日に一口を仕上げる事が出来たという。それだけの人数を要しても最低でも三日はかかるのだ。機械化が進んだ現代においてもそれなりの日数がかかる。無論、これは刀身が出来上がるまでの話だ。そこから柄をつけ、鞘を作り、研ぐともなれば、完成するのに最低でも一月は要するだろう。さすがに、不眠不休で打つことが出来るこの男でも一月は持たない。
火を落とし、明日に備える。仕上がるまで先はまだまだ長い。道具も不揃いなこの鍛冶場で、いつ仕上がる事か。
だが、男の表情に翳りはなく、幾度も手の感触を確かめながら満足そうな笑みを浮かべて鍛冶場を閉めた。仕上げに飲んだ水は、今まで飲んだどんな物よりも甘露だった。
未だ黒ずんだ刀身。水でしとど濡れるその刀はまだ本物の美しさを見せてはいない。だが、見る者が見れば分かるだろう。そこに極限まで研ぎ澄まされた機能美の一端を。
焼き入れは一度で終わりではない。焼き入れの後に再度、加熱し急冷を繰り返す焼き戻しという作業が残っている。ここで刀に頑丈性を持たせる。
焼き入れの湯船から引き上げた時の胸の高鳴りは刀の処女作の時のように高鳴った。否、今のこの男にとっては紛れもなく処女作だ。
刀は焼き入れの瞬間まで完成するかどうか分からない。最後の最後に、焼き入れで失敗し、刀身がなまる事もある。それまで見逃していた小さな傷が刀身に大きく影響を与えて失敗作となる事も多々ある。焼き戻しでも温度管理に失敗すればひどく脆い刀に仕上がる。細心の注意を間断なく注がねばならない。それを思えば男の心情も分かる。鉄を打つ時には食いしばったかのような厳しい顔も、今は僅かにほころんでいる。
だが、男の仕事はこれで終わりではない。
江戸時代以降、日本刀製作は分業化が進み、刀工の仕事は茎仕立てで終わり、次の匠へと仕事が引きつがれる。しかし、今、この男の生み出した刀を引き継ぐべき匠がいない。鍔や刀身に彫刻を施す刀剣彫刻師、刀身を磨き上げる研師、ハバキなど刀身以外の金属製品を作る白金師、鞘や柄を作り出す鞘師、柄を固定する柄巻師、鞘に着色及び装飾を施す塗師といった職人が現代では必要だが、ここにはいない。故に、刀として完成させるには男が全てをこなすしかないのだ。
開いた時間を利用して鍔を作る。作り慣れぬ故に凝った意匠などないそっけない鍔である。だが、鍛鉄で作り出された鍔は素人が振った剣ごときで両断出来ぬほどに硬く締め上げる。更にハバキ、柄頭の原型をいくつか作る。
刀装具を作る合間に刀身のねじれを調整する。内面に生じた応力(制作過程で刀身内部にため込まれた力)を現出しきってから最終調整しなければならない。どれ程高名な刀匠だろうとこのねじれは生じる。鍛冶押しをしなければならない。
刀の反り具合を修正し、砥石で荒削りをする。細かな疵や、肉の付き具合、地刃の姿を確かめながら丁寧に研ぐ。これが、刀身の最終調整である。続いて、刀としてのあるべき姿を成す為に、茎を仕上げる。やすりで成形し、目釘穴を打ち、柄の滑り止めとして鑢目を入れる。
刀身の完成を待ってやっと柄と鞘の作成に手を出し、四苦八苦。失敗を重ね幾日も要し、苦心の末に漸く格好のつくものが仕上がった。だが、男にとっては納得がいかないのか口をへの字に曲げている。
そして、完成した柄にはめ込みやっと刀としての体を成した。
次に研ぎ。刀身づくりに比べれば楽だと侮るなかれ。刃物の切れ味は研ぎによって変わる。仮に三流鍛冶が作り上げた刃物であろうとも、一流の研ぎ師が研げば驚くべき切れ味を誇る。切れ味の良さは長くは続かず、簡単に折れるが。
男の恩師は古き良き刀工であり、研ぎについてもよく男に教え込んでいた。男に超一流とは言わないが、一流半の腕前があったのは研ぎ師がいないこの場では行幸な事だろう。
研ぎといっても荒砥ぎ、中研ぎ、仕上げ研ぎと包丁の様に三種類に分かれる訳ではない。合計14種の研ぎ行程がある。もっとも、それは現代の美術品としての作業工程なので、男はそこまでする事はない。男が行うのは実用性を重視した研ぎ、そう――――斬る為の研ぎである。男の師は現代では数少ない実戦刀を作っていた。故に男も研ぎについては幾分か詳しい。教え込まれた技術とその先達に感謝を浮かべ、刀身に傷がない事に安堵の笑みを浮かべる。
幾日かが過ぎ、男は笑みを浮かべていた。鞘と違って研ぎには納得がいった様子である。
白木の鞘に納めて神棚に一度奉納する。奉じる神は天目一箇神と金屋子神。両柱共に、鍛冶の神様である。刀工は鍛冶の神を信じる。焼き入れ時に折れやひび割れは珍しくない。研ぎ終わった後に罅を見つける事は高名な刀匠でも多々ある。作刀の出来は神のみぞ知る。故に刀工は神を信望する。されど、ここに神はいない。神に祈る事にここでは意味がないとしても、幼い頃から行ってきた事は早々に変える事は出来ない。だが、それでも男は神に感謝を口にする。もう一度、刀を打てることが出来た喜びを神に伝える。それが例え、伝わらずとも意味がある。
白木の鞘を片手に、男は家の裏庭に出る。そこには数日前に用意しておいた巻き藁。試し切りとして用意したそれは今か今かと男を待っている。今か今かと斬られる為に刀を待っている。
八相に構える。手には刀の感触。幾度も刀は構え、斬った事はあれど今の胸の鼓動の大きさもそれらの比ではない。生み出した刀の良し悪しはここでしか判断できない。刀は斬ってみるまでその良し悪しが分からない。見た目では決して良作か駄作かの判断はつかない。
久方ぶりに打った刀。ないない尽くしの中、七転八倒の最中で生み出された刀。期待と不安が胸を締めて、気分は昂揚する。男は、やはり、と思う。やはり、己は刀工なのだと。鍛冶屋なのだと。
心の昂揚は収まらず、一度息を吐き。柄の感触を確かめて――――口をへの字にまた曲げた。手に当たる感触。柄の滑りはいかんともしがたい。せめて鮫の皮が欲しい所だが、生憎とそれも今回は手に入らずじまい。鞘も叶うならば、鹿の皮を巻いて漆を塗りたいものである。男が作った刀は実用重視で美術品としての刀ではないのだが、刀とは美しくあるべきもの。機能美という美しさはあって然るべき。
内心の忸怩たる思いを振り切り、息を吐き、刀を振り下ろす。ヒュっと風を切る音と共に、刀は宙を踊った。
サパリという音を立てる事もなく、水を吸い、人体を模した巻き藁は一刀両断。切り口はほれぼれする程。剣士としての心得も男にあった事、なによりも刀自体の出来の良さ。この二つが見事にかみ合い、最高の結果を示した。
ふつふつと喜びが湧きあがってくる。が、まだだ。男は刀工である。巻き藁を切った刀身の欠損具合を注意深く見る。欠けはない。曲がりもない。まくれもない。実に威風堂々と元の形を保っている。
日本刀なのだから斬れるのは当然だ。斬鉄剣などという言葉があるが、本物の日本刀は然るべき腕前の持ち主が振るえば当たり前のように鉄を斬れた。レンガに振り下ろしても欠けもしないのが本物の日本刀だ。これは、理想論ではなく現実である。それが作れる刀工は歴史上においても実に少なく、条件が異なれば同じ刀工であろうとも欠損を生じさせる。
使用し、それでも耐えきれた物だけが名乗る事が出来る日本刀という名。故にこそ、環境が整わない中でそれを生み出せたのは類稀なる努力の結果だろう。ここに、新たに完成したのだ。正しい意味での日本刀が一口。
男が破顔した。作業途中では笑みを浮かべる程度しか顔は変わらず、鉄面皮かと思う程であったが、満面の笑みである。三十路を超えた男が浮かべるような笑みではない気もするが、この、ないない尽くしの中での改心の出来栄え。喜ばない方がどうかしている。だが、喜色満面の笑みを浮かべながら刀を振り回す様はどう見ても気違いだ。
喜びを噛み締め、涙すら浮かべそうな男の視界の端で、火が上がった。巻き藁が、燃え上がっていた。乾いた巻き藁ではない、水をたっぷりと含んだ男が斬った巻き藁が轟々と燃え上がっていた。
「は?」
素っ頓狂な声が喉から漏れる。
巻き藁が燃えた。水をたっぷりと含んだ巻き藁が。男が斬った巻き藁が。
炎は気炎を上げ、瞬く間に巻き藁を燃やし尽くした。立て木の消し炭すら残らず完全燃焼させ、灰だけとなった。そこに一陣の風が吹く。巻き藁だった灰は風に巻き上げられどこかへと旅立った。
男の目の前には斬った巻き藁はすでにない。何故か? 燃えてしまったからだ。
「………………馬鹿な」
目の前の現実が認められずに男は頬を渾身の力を込めてつねった。痛みがあるばかりで、斬った巻き藁は戻ってこない。瞬きを幾度繰り返そうとも、巻き藁は消えたままだ。
「…………もう一度、試し切りだ」
念のためともう一つ用意していた巻き藁に向かって刀を振り下ろす。
斬った。燃えた。風に乗って飛んで行った。
先程と全く同じ事が眼前で起こる。訳が分からない。男は普通の刀を打ったはずだ。実用的な刀を打ちはしたが、決して斬ったら燃えるような刀を作った訳ではない。
「きぃええええええええええええええええええええっ!」
気狂いのような猿叫を上げて、男は苦心に苦心を重ねた末に作り上げた刀に向かって鉈を振り下ろした。幾度も幾度も、振り下ろしてへし折った。刀とは折れず、曲がらず、よく斬れるモノが最上とされる。だが、それは理想であり、幻想である。それを備えた刀は実在しない。というか、そんな物体が物理学的に存在するはずがない。評価の高い天下五剣や最上大業物ですら届きえない理想である。ましてや、刀というのは構造上、横からの衝撃には弱い。ならば、理想を追い求める最中である男の一口は当然の如く、ぽっきりと折れてしまった。
「ふざけんな、異世界ぃいいいいいいいいいっ!」
この男、青江宗近という刀工は不幸にも異世界に迷い込んだ刀工であった。
翌月、青江宗近が打った刀で斬った巻き藁は燃えなかった。燃えなかった、が、何故か巻き藁は切り口から氷漬けになった。異世界、恐るべし。