Go back in time
僕が初めて彼女に会ったのは、五歳の夏だった。
口がまわり、非常にこまっしゃくれたガキだった僕は、通っていた保育園を抜け出すことがあった。
僕の家は母子家庭で、母は日中レジのパート、夜は工場でコンビニ弁当を詰める仕事をしていた。夜間は母方の祖母が泊まりに来ることで、何とか母は一家の大黒柱でいられた。
母が働いている以上僕が保育園に行かなければならないのはわかる。
だが、どうにもかったるいのだ。
なぜ他の奴と手をつながなければならない。なぜ歌ったり踊ったり、描きたくもない絵を描かなければならない。
ちょっとしたことでべそべそ泣く子どもも、訳知り顔で僕を窘める大人も大嫌いだった。
たった一人の家族である母のため最低限は繕ったが、子どもらしく振る舞うことも疲れるものだ。
ときどき、こうして息抜きするくらいは許してほしい。ちゃんと担任にはばれないように抜け出しているのだから。
「君、そこで何をしているの?」
頭上から聞こえたしわがれた声に慌てて顔をめぐらせると、つばの広い帽子をかぶった老婆がいた。あとから知ったことだが、彼女の年齢はこのとき六十ほどだったが、幼児である僕にとっては祖母と同年代らしいというだけで随分と老齢に見えたのだ。
「こんなに暑いのに帽子もかぶらないで。汗だくじゃない。お茶でも飲んでいきなさいな」
声色に咎めるような色はなく、鈴を転がすような優しい声だった。老婆は僕の返事を待たずに優雅に微笑んで家の方へ歩き出す。
こちらを振り向くことはしないが、僕がついてくることを確信しているような足取りだった。
―――なぜ、そのとき老婆についていったのか。
いまだにその答は出ない。
「私は、悠木弥恵というの。あなたのお名前は?」
グラスに入った麦茶をそっと差し出しながら、老婆が首をかしげた。
大してものを知らない僕から見てもとても品が良い。うちの祖母ならグラスも音を立てて置くだろうし、おかわりはセルフで! とテーブルにポットごと置くだろう。
「宮内颯人です。…いただきます」
小さく頭を下げると、老婆はふんわりと笑った。
「どうぞ。良かったらお菓子もあるわ」
できた子だ、とか、生意気だ、と第一印象で言われることが多い僕は、老婆の反応がちょっと意外だった。
きっかけは、本当にただそれだけだった。
「弥恵さん、郵便来てるよ」
「あら、ありがとう。テーブルに置いておいてくれる?」
勝手口から声をかけると、洗濯物を取り込んでいた弥恵さんが振り返った。
おじゃまします、と小さく言いながら居間へと上がらせてもらう。
初めて会った夏の日から、僕は保育園を抜け出すときには弥恵さんのところへ遊びに行くようになった。
遊びにとは言っても、特に何をするわけでもない。僕を子ども扱いもせず大人扱いもせず、ただほんのりと微笑んでくれる弥恵さんとの時間が心地よかっただけだ。
弥恵さんの家では、縁側で一緒にお茶を飲んだり、ときどき家事を教えてもらったりした。最近母の仕事がますます忙しくなり、家事が疎かになることが多かったので少しでも手伝おうと思ったのだ。
「そうね。家族として、やるべきことを負担するのは当然よね」
どこかで、偉いわねと褒めてもらえるのではと期待していた僕は、衝撃に目を見張った。
「子どもがやるべきじゃないとか言わないの? 小さいのにかわいそうに、とか?」
「子どもでも大人でも、自分ができることをやろうとすることは良いことでしょう? かわいそうかどうかは、颯人くんが決めればいいじゃない」
弥恵さんは、決して僕を甘やかさなかった。そして、子どもだと侮ることもなかった。
そういう姿勢は、今になって思えばやや異質だったのかもしれない。少なくとも、僕の周りにはそんな人はいなかったから。
だが、弥恵さんがそういう姿勢でいたからこそ、僕は僕のままでいられた。
妙に大人ぶる必要もなく、子どもらしく振る舞う必要もない。とても心地の良い居場所だった。
学齢期になった僕は、少しずつ弥恵さんの家に行くことが減っていった。保育園のような狭いコミュニティではないので、話が合う友人もちらほらできて忙しくなったためだ。その友人たちに弥恵さんのことを知られるのも、どこか気恥ずかしかったせいもある。
入学したばかりの頃は、六年もここに通うのかと校舎を見上げてうんざりしたものだが、気づけば最高学年になっていた。
「颯人くん? 久しぶりね」
中学校の制服の採寸をしに行った帰りだったと思う。
声をかけられて振り向くと、弥恵さんがいた。
温かそうなニット帽をかぶり、真っ白なコートを着ていた。
以前から身ぎれいにしておしゃれだった彼女だが、久しぶりに見るともう僕の祖母と同年齢には見えなかった。
「…弥恵さん。お久しぶりです」
なかなか会いに行かなかった後ろめたさが手伝って、随分と他人行儀な声が出た。
「ふふ。学校に入ると忙しいものね」
微笑んだ弥恵さんを、冷たい風がなぶる。
思わずぶるりと震えた僕を見て、弥恵さんがあらあらと笑った。
昔と変わらない温かで優しい声だった。
「立ち話をしていて風邪を引くといけないわね。じゃあね、颯人くん」
あっさりと踵を返した弥恵さんに、なぜ、と声をかけそうになって口をつぐむ。
なぜ『うちへいらっしゃい』とは言ってくれないのか、懐かしいとは思ってくれなかったのかと失望がこみ上げた。
―――何、期待してるんだ。
物欲しげな気持ちに慌てて蓋をして、僕も家へと急いだ。
中学を出た僕は、全寮制の高校へ進学を決めた。
私学であるそこは、成績を条件に授業料や教科書代を免除したり、寮費も格安にしてくれるという、我が家にとって理想の高校だった。
中学を出たばかりの僕を手元から離すことに母は抵抗したが、家庭のためではなく僕自身が行きたいのだと言えば、『寂しくなるわ』と肩を落とすばかりになった。
高校の三年間はなかなかに過酷だった。優遇制度はすべて優秀な成績が条件なのだ。少しでも成績が落ちれば警告が出て、経済的負担が迫ってくる。他の生徒は決して安くない授業料や教科書代を払っているのだから、優秀な成績を修めることくらいは当然だとは思うものの、言うほど楽ではなかった。
異性にも同性にも交友関係も広がって、勉強時間の確保も容易ではなかったが、当初の予定通り僕は母にほとんど負担をかけずに高校を卒業することができた。
大学進学を控えた僕は、母の強い希望もあって春休みを実家で過ごすことになった。大学でも寮に入ることになったため、しばらくゆっくりしていってと頼み込まれれば、僕としても断りづらい。
その日は確か、近所をぶらぶらしながら本屋にでも行こうかと出かけたのだったと思う。
通りの向こうから、つばの広い帽子をかぶった女性が歩いてくるのが見えた。
広くない通りだったから脇に避けようとして、言いようのない既視感に襲われる。
あれ、と思って目を見張ったところ、先に女性が声を発した。
「あら、颯人くん。お久しぶり」
六年ぶりだとは思えないほどの、変わらない口調だった。
「……お久しぶりです、弥恵さん?」
語尾が微妙に上がってしまったのは、確信が持てなかったからだ。
子どものころは弥恵さんのことを随分と老齢の女性だと思っていたが、今こうして見ると年齢を重ねてはいるものの、僕の祖母と同年代の女性ではない。むしろ母と年齢が近いのではないだろうか。
中年太りと年中戦っている母とは違い、ほっそりとした弥恵さんのたたずまいは鈴蘭を思わせた。
「ええ。もう大学生になるのかしら。…時が経つのは、あっと言う間ね」
「弥恵さん?」
彼女にしては珍しく、どこか捨て鉢な言い方に首を傾げてしまう。
いつも鷹揚で笑みを絶やさず、飄々としていた弥恵さんが、こんな言い方をするのは初めてだと思う。
「…何でもないわ。じゃあね、颯人くん」
僕が問いかけた次の瞬間には、弥恵さんはいつもの微笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。
―――あとから思えば、彼女はいつも未来の約束はしなかった。
『また今度』とも『次』とも、決して言わなかった。
それは彼女の寂しさであり、僕との間に確かに引かれた厳密なラインだったのだ。
大学生になった僕には、彼女ができた。付き合う子とはそれなりに長続きしたし、それなりに大事にしてきたと思う。だが、大抵は『私のこと好きじゃないんでしょ』『両思いって感じがしない』と言われてフラれた。
僕なりに誠実に尽くしてきたつもりが、相手が欲しいのはそれではないらしい。しばらく悩んではみたものの、考えるのも面倒になってしまった僕は、清い男女交際をあきらめた。
それなりに身だしなみに気を配り、そういう場所へ出かければ、出会いの機会はいくらでもあった。後腐れない相手と肌を重ね、顔も名前も忘れていく。我ながら不健全だなとは思うものの、とても楽なその生き方を僕はなかなか改められずにいた。
ただ一方で、罪悪感にとらわれることが増えた。そのせいもあり、母の顔を見づらくなってしまい、さらに実家からは足が遠のいた。
―――あれは、その数少ない帰省のときだったと思う。
木魚の音が遠くから聞こえる、暑い日だった。
例年お盆は暑いものだが、その年は特にひどかった。心なしか、蝉の声にも覇気がないように感じられる。
「人遣いが年々荒くなるな」
腰が痛いとここ数年言うようになった母は、僕の帰省に合わせてこれでもかと用事を押し付ける。今回は雨どいの修理をしろだの庭木を伐採しろだの、業者に頼んだ方が賢いのではないかと思われるものをわんさと頼まれた。
ゆすった袋の中では、工具やネジなどがずっしりと主張している。
買いに行くだけでもこんなに億劫なのに、これからもっと大変なことがあると思うと、このまま寮へ逃げ帰ってしまいたくなる。
ふと、陽炎が揺らめく道の端に、蹲る白いものが目に飛び込んできた。
近づけば、白い服を着た長い髪の女性だということがわかる。
熱中症でも起こしたのだろうか。
「あの、大丈夫ですか」
声をかけるが、女性は顔を上げない。
熱中症のときは、どうするのがいいのだったか。確か、首筋やわきを冷やして水分を摂らせるのだったか。吐き気があるときは救急車を呼んだ方がいいのか。
「……だい、じょうぶ。少し、眩暈がしただけ」
そっと顔を上げた女性は、ハッとするほど美しかった。年の頃は三十代半ばといったところか。蒼白に近い顔は女性の美を損なうことなく、むしろ引き立てているように見える。儚げで容易く手折れそうな華奢な身体つきに、匂い立つようなつややかな肌。
そんな場合ではないというのに、腹の内からあがってきた熱を僕は静かに嚥下した。がっつくにもほどがあるだろう。
「申し訳ないけれど、家まで連れて行ってくれる?」
内心ひどく動揺していた僕には気づかない様子の女性は、眉を下げて頼んできた。
二つ返事で引き受けた僕の中には、もちろん下心が過分に含まれていたことは言うまでもないだろう。
「え…ここって」
「どうぞ、入って」
驚く僕には気づかないようで、女性はおぼつかない足取りで玄関から居間へと向かう。
掃き清められたタイル張りの薄暗い玄関。
突き当りに飾られた異国の油絵。
決まった場所できしむ床板。
息苦しくなるような、懐かしさと苦さが僕に怒涛のように襲ってきた。
「あの、あなたは弥恵さんの…?」
恐る恐る問いかけると、居間の畳へしどけなく横座りした女性が頷き微笑んだ。
弥恵さんの娘にしては、若すぎる。孫ということだろうか。そういえば弥恵さんの面影がある。
「そう。もうずっと会っていないのに、よく覚えていたわね」
「……とても、良くしてもらいましたから」
女性が示したところからグラスを取り、冷蔵庫の麦茶を二人分注ぐ。
こういうときはスポーツドリンクの方がいいのかもしれないが、女性の家にはないようだった。
「ありがとう」
言ってグラスを傾ける女性の仕草はひどく艶かしい。軽く反らされた喉が音もなく上下する様さえ、扇情的だった。
「あ、わっ」
女性に見とれていて、グラスをつかみ損ねた。
トッ、と軽い音を立ててグラスは僕のジーンズを濡らしてから畳に転がった。
「すみません、何か拭くものを…」
立ち上がろうとした僕の濡れたジーンズを繊手が掴んだ。
「いいわ、あとで…」
艶然と微笑む姿に、ごくりと僕の喉が鳴った。
ほっそりとした指が、膝立ちになった僕のジーンズに置かれている。布ごしに触れられたところが、じんじんと痺れるようだ。
ひそやかな吐息とともに向けられたとろりとした視線に、確かな火がともされるのがわかった。
―――熱い。
うねりながらせりあがってくる激情に、目も眩むほどだった。
彼女の問いかけに、そのとき僕が返事をしたかさえも定かではない。
少女のような恥じらいを垣間見せながら、ときに大胆に振る舞う女性に僕はすぐに虜になった。
出会った日に深い関係になることは僕にとっては珍しいことではなかったが、ここまで夢中になったのは初めてだった。
何度も何度も、僕と彼女の境界線を確かめ、それを越えられないか試す。そのたびに彼女は微笑み、息をつき、するりと身をかわすようだった。
「ねえ、名前を教えてよ」
僕の腕の中で白い肩をゆっくり上下させる彼女に問うと、うっすら微笑む。
「―――次のお休みに、会ったときにね。今はまだだめ」
その微笑みは、何かを堪えるような、強く願うような、苦しいものに見えた。
翌日も、その翌日も、僕は彼女の元へと向かった。
ごちゃごちゃとうるさい母を黙らせるため、もちろん家の頼まれごとはすべて終わらせた。
「明日、僕は戻らなきゃいけないんだ。連絡先を教えてよ」
彼女は、携帯電話を持ってはいないようだ。だが、弥恵さんも使用していた固定電話は繋がっているのではないか。
「ふふ。あいにく電話は引いていないの。…会いに来てくれるのを待っているから」
真っ白な背中に、するすると長い髪が滑っていく。
何度も唇を滑らせて花を散らせても、その背中は決して僕のものにはなりはしない、と囁くようだった。
力で押さえつけるほど子どもではないが、ドライになりきれるほど僕は世慣れてもいなかった。
痛みをごまかすように、熱をぶつけることしか、そのときの僕にはできなかった。
名前を教えてもらえないままに、月日は流れた。住所は調べればわかっただろうが、宛名がわからない上、勝手に調べて手紙を送ったりするのは些か躊躇われた。
だが、帰省の度に弥恵さんの家を訪ねても、彼女は不在だった。
めぐる季節よりも、授業のことよりも、就職先よりも、彼女に会いたかった。
何度か肌を重ねただけなのに、この執着心は常軌を逸していると我ながら思う。
だが、もう僕自身では止められるラインではなかった。
一方で、年上の女性にからかわれただけだったのかもしれないという諦めもあった。
大学を卒業して社会人になると、学生のときとは異なる忙しさに追われるようになった。
彼女のことは折に触れて思い出すが、焦がれるようなものは少しずつ薄れてきたような気がした。
もう、今回で訪ねるのはやめにしよう。
そう決意しながら帰省したのは、社会人になって三年目のことだった。
実家の最寄り駅におり立ったその足で、弥恵さんの家へ向かう。
庭の花、きれいに刈られた植え込み、何度来ても変わらない、懐かしい家だ。
旅行鞄を片手にインターホンへ手を伸ばしたところ、急に扉が開かれた。
「あら、こんにちは。久しぶりね」
インターホンに指をあてたまま固まった僕は、きっと間抜けな顔をしていたと思う。
くすくすと笑った女性は、軽く詫びて手招きした。
「ごめんなさいね、つい。…あがってちょうだい」
その柔かな微笑みは、泣きたくなるほど懐かしいものだった。
「私に何か訊きたいことがあるのかしら?」
コーヒーをすすめながら、女性がいたずらっぽく肩をすくめた。
豆から挽いたのか、甘い香りが鼻をくすぐっていったが、飲もうという気は起こらなかった。
「…次のお休みに会ったら、名前を教えてくれると」
彼女の答えは、薄々わかっていた。
だが、同時にそんなわけがないと否定する思いもあり、確かめずにはいられなかった。
そう言ったわね、と微笑んで彼女はコーヒーを飲んだ。
「私の名前は悠木弥恵というの」
長くなるけれど、いいかしら。
そう前置きした彼女は、再びカップを傾け唇を湿らせた。
「今の私は、きっと二十代前半か…もしかしたら、十代後半にでも見えるかもしれないわね」
確かに、彼女の肌も髪も唇も、成熟しきった女性の色香はなく、どこか青い危うい魅力があった。
でも、彼女は、僕が抱いた“彼女”だ。
「あなたと初めて会ったときは、あなたが五歳。私は六十歳だったわ」
弥恵さんはあの当時、連れ添った夫を亡くしたばかりだった。子どもはおらず、夫婦二人で老後を楽しもうと話していた矢先の夫の発病と死だったそうだ。
「夫の病気はね、日本でも数例しかないとても珍しいものだったの。おかげで随分あちこちで実験動物のように扱われたわ」
治療法が見つかっていない病だったため、様々な新薬、放射線治療、手術…。手当たり次第と言ってもおかしくないほどの闘病生活だったそうだ。
「あなたはまだ小さかったから覚えていないかもしれないけど、あの当時若返り細胞とも言われた細胞を人工的に作り出せたある大学のチームがいてね。そこから提案があったの」
終わりの見えない闘病生活で、経済的にも精神的にも弥恵さんたちは追いつめられていた。
「夫の身体に、若返り細胞を植えつけることで、病と拮抗する力がつくかもしれない、と言われたの」
訊けば、莫大な研究費の幾ばくかは悠木夫妻に負担してほしいとのことだったが、もし弥恵さんも実験に協力してくれるなら、研究費はすべて研究チームが負担しようという条件を提示された。
藁にもすがる気持ちで、弥恵さんは条件をのんだ。
「でも、あの研究論文は認められなかったんじゃなかった?」
研究論文が発表された当時のことはわからないが、数年後に“客観性を欠く研究結果だ”と言われて闇に消えた研究だったはずだ。
「そうね。あまりの事態に、国自体がもみ消しにかかった研究だから」
弥恵さんに移植された細胞は爆発的に増え、弥恵さんの身体を作り変えた。一方で弥恵さんの夫に移植された細胞は、彼の他の細胞を巻き込みながらあっという間に死滅したという。
若返り細胞に期待されたことは、体内の細胞に影響を及ぼし、内臓を作り変え、健康な身体を維持すること。
だが、弥恵さんに植えつけられた細胞は、それにとどまらなかった。
「私は、ただ夫を助けたかった。そのためなら実験台にされたって構わなかった。でも結果、夫は死に、私は加速的に若返る身体を手に入れただけ」
国の監視つきというおまけまでついてね。
そう吐き捨てた弥恵さんは、きつく瞳を閉じた。
「…ごめんなさい、颯人くん。なにも知らないあなたを騙して。気味が悪いでしょう? 本当は八十近いおばあさんなのに、あなたが好きだなんて……」
震える弥恵さんは、今にも消えてしまいそうで、思わず肩を引き寄せて頬を寄せた。
「…あのとき抱いた彼女と、弥恵さんが同じ人だとはわからなかったけど、僕は弥恵さんを好きだったよ。いつも僕自身を見てくれて、居場所をくれた。おばあさんの弥恵さんも、三十代の弥恵さんも―――今も、弥恵さんが好きだよ」
触れ合った頬に、温かい涙がつたう。
ふるり、と弥恵さんが微かに震えた。
「…ありがとう、颯人くん。……でも、もうここには来ないで」
信じられない拒否のことばに、まじまじと弥恵さんを見ると、そこには決意の色があった。
「若返りは…年々加速しているの。五年もすれば、赤ん坊になって、そこから先は私はどうなるかわからない。だから、私のことは忘れ…」
「ふ、ざけるなよ! そんな勝手な理由で、僕の気持ちをなかったことにしようなんて、許さない!!」
叫ぶ強さのまま締め上げた肩が痛むのか、弥恵の顔が苦痛に歪んだ。
僕の腕が弥恵を苦しめているという事実に、もっと、という欲がふつふつと沸き上がる。
いつからだったかなんて、わからない。
弥恵はずっと僕の中に刻み込まれていた。
老いた弥恵も、色香で僕を惑わす弥恵も、ものを知らぬ少女のような弥恵も、ひとつも溢してなるものか。
「絶対に、もう逃がさない。あの日僕を見つけたのは弥恵だ。今さら、やり直しなんて、きかない」
悦びなのか、悲しみなのか。
また新たな涙が、弥恵の白磁の頬を流れていった。
◇◇◇◇
闇の中で、子どもが泣いている。
はじめは啜り泣きだったのに、それは次第に大きな嘆きへと変わっていく。
「どうした? 嫌な夢でも見た?」
隣からかけられた声に、子どもは大きくしゃくりあげた。
「みんな、いなくなっちゃうの。わたし、ひとりぼっちになっちゃうの」
人々が死に絶えた大地で、たった一人、時をめぐる。終わりまで行ったら、また始まりへ巻き戻る。大切なものを忘れ、自分が何者であるかも忘れ、なにも残らない。
寂しいと嘆いても、なぜだと怒り叫んでも、誰もいない。
「みんな、わたしのこと、きらいだから、おいてっちゃうの?」
こすりすぎた頬は、闇の中でも赤くなっているのがわかった。
子どもの顔をすっぽり覆うような掌が、闇から伸びる。
「…僕は、置いていかないよ。ずっと弥恵のそばにいる。赤ちゃんの弥恵も、今の弥恵も、おばあちゃんになった弥恵も、大好きだよ」
温かな声を聞いた子どもの泣き声が止まった。
大きな瞳が驚きに見開かれている。
「わたしがおばあちゃんになったら、はやとはすっごくおじいちゃんだよね?」
「…そうだね。たくさん長生きしなきゃいけないね」
慈しむように濡れた頬を撫でる手が、子どもを新しい眠りへ誘っていった。