第二章 遙かなる神話
水の巫女として不思議な力を持つエレミアという美しい少女がいました。砂漠地帯で水が貴重なハバタルカという都で徐々にエレミアの評判が広がります。
遥か昔、大地がまだ神々に愛されていた頃、とある国に「エレミア」という不思議な力を持った美しい少女がいた。少女はハバタルカという貿易によって栄えた都で商人の子として生を受けた。少女には生まれつき水を使って過去や未来を知る力があり、その噂は街の人々から王や貴族たちにまで伝わった。砂漠の真ん中にあってハバタルカがここまで栄えたのは、一重に巫女たちの尽力があったからこそだと老人の間では語り伝えられていた。この都は乾いた大地にありながら泉が湧き、森が茂る豊かなオアシスだった。別名【砂上の楽園】とも呼ばれ、ことに異国から遥々砂漠を横断してきた者にとってハバタルカは神秘的な都として映った。ハバタルカの四つの泉を守り守護する巫女を《青の聖女》と呼び、この地では女性の最高位を意味した。女王や貴族よりも尊ばれた存在であったと言える。そのため王族や貴族はこぞって自分の娘を幼いうちから有名な寺院や神殿に送り込み、巫女の修行をさせた。そんな中でエレミアの噂はたちまち各地の神殿にも広まり、身分の高い巫女たちを脅かした。しばらく経つと、政権を我が者にしようと企む者たちがエレミアを養女に迎えたいと次々に申し出てくるようになった。少女の父・イザヤはこれを見て娘の将来に不安を抱いた。このままではいずれ国の諍いに巻き込まれてしまうのではないか・・・。これからすくすくと成長していく我が娘の身を案じ、イザヤは今後いっさい人前での占いをしないようにエレミアに固く禁じた。エレミアは気の優しい父親にとても懐いていた。幼くてその時はまだ父親の言葉の意味を理解できずにいたが、その後言い付けをきちんと守り人前で無闇に占いをすることは無くなった。そうしてこの日以来、徐々に町から神秘の少女の噂は消えていった。ごく一部を除いては・・・。そして、少女の傍らではエレミアと面差しが良く似た美しい女性が少女の成長を温かく見守っていた。「マリアーナ」と言う名のエレミアの実の母親であった。この母と娘がこれから起こる事件の重要な鍵を握ることなど、この時はまだ誰も知る由もなかった。
ハバタルカで幾度目かの春が過ぎ、エレミアは十四歳の誕生日を迎えた。髪も身長も伸びて、あどけなかった少女の顔立ちは前よりずっと大人びたように見えた。胸元まで伸びた長い髪をくるりと両側で結わえると、父から贈られた異国の髪飾りで軽く束ねていた。身体も少し丸みを帯びていっそう少女らしくなったようだ。エレミアは時折一人で森を訪れては誰も居ない場所でこっそりと水占いをして遊んでいた。
ところがそんなある日、森で不思議な少年と出会った。見たことも無い白銀の髪、深海の色を映したような青い瞳・・・。少女は声をかけるのも忘れ、しばらく少年に見入っていた。エレミアの姿に気がついた少年は少女の姿を見ると、自ら歩み寄って行った。
「君は水の神の祝福を受けているね。」
通りの良い声で少年は和やかに微笑むと、そっとエレミアの長い髪に触れた。高山の冷たい水に触れた時のような爽快な空気が彼女の周りを包んだ。・・・何故だか恐れは感じない。
「あなたは?」
エレミアが少年に尋ねた。
「僕の名はイマーム。今まで長いこと各地を旅して来たけれど、神々の祝福を受けた人を実際に見るのは今日が初めてだよ。―君の名は?」
今度は少年が少女の名を尋ねた。
「わたしの名はエレミア。・・・神々の祝福って?」
少女は少年の言葉に首を傾げた。
「清らかな魂を持った人間に各々の神様が人に行う洗礼のことだよ。君は昔水の神の洗礼を受けているはずだ。その証拠に君は水に触れると水の精霊の声が聞こえる。」
誰にも話した覚えはないのに何故か少年は彼女しか知らないはずの秘密を知っていた。
「あなたはいったい・・・。」
「君に近しい者、とでも言っておこうか。」
少年は屈託の無い笑顔で答えた。年の頃はエレミアと同じくらいか、少し上だろう。風が吹くたびに白銀の髪がサラサラとなびいている。すんなりと伸びた手足や端正な顔立ちが少年の動作にどこか気品を持たせていた。遥か遠くにある海の町で漁師をしていたというだけあって、肌は褐色に焼けていた。身なりは粗末だったが人を惹き付ける魅力を十分に持った少年だった。何故、遠くの海の国からこのような砂漠の地を訪れたのか・・・。それは謎だった。エレミアがいくら尋ねてもイマームはその質問に答えようとはしなかった。ただ穏やかに微笑むのである。何か訳有りな少年にエレミアは不思議な懐かしさを感じていた。―そしてこの二人が恋に落ちるのにそう長い時間はかからなかった。
こうして森で二人の逢引が始まった。
「イマーム!」
頬を赤く染めてエレミアがイマームに駆け寄った。青年も待ちかねたように両手を広げ、彼の胸に飛び込んで来るエレミアを抱き止めた。
「やあ、エレミア。待っていたよ。」
二人は青々とした木々に囲まれ、そっとキスをした。こうして逢瀬を重ねるようになって既に一年が経過していた。一方、イマームがこの地に現れてからというものハバタルカは異様な速度で大都市へと変貌していた。それというのもここのところ急に作物の実りが良くなり、前よりいっそう豊かな雨に恵まれていたからだった。神殿では、ハバタルカに水神が降り立ったに違いないと歓喜する者もあったが、そう思っても不思議でないほど砂漠の地でありながら水に悩まされたことが無かったのだ。
それまでは毎年決まった季節になると、選りすぐりの巫女たちが雨乞いの儀式の為に大神殿に集められたものだった。華やかな式典が催され、町や国外れの村から次々と貢ぎ物が神殿へ届けられるとそれがそのまま寺院や神殿の収入になった。この他にも巫女は泉を守護する他にも状況に応じて水源を探り当てるダウジングを行っていた。探し当てられた水源を元に井戸が掘られ、砂漠に暮らす人々の生活を影から支えていた。いくらハバタルカが森や水に恵まれていると言っても砂漠の国には違いないのだ。この国で『水』は命と同じ重要な意味を持つ。そしてそれを守る《青の聖女》も同等の重みを持っていた。
ところがそんな人々の意識に変化が現れ始めた。祈りなど捧げなくても雨は降り、穀物は有り余るほど実った。寺院に通う人は少なくなり、神仏への信仰も少しずつ薄れ始めていた。小さな街だった昔とは違い、巫女の能力よりも家柄を重視した《青の聖女》選出は知らず知らずのうちに人々の信仰を失わせていたのだ。ここ数年、実際に巫女としての力を持った者などもはや神殿には存在しなかった。影で水源のありかを助言していたのは他でもない一介の町民であるエレミアだった。そこへ突然豊富な雨に恵まれたものだから、更に急速に神殿への尊敬の念は失われていった。ついに貢ぎ物さえ無くなり、国中の神殿は財政困難に陥った。
そんな中で、派手なパフォーマンスにより国民の指示を得ていた神殿が一つだけあった。余所の国からフラリとやって来て、いつの間にか国の権力者の位まで上りつめた「ソドム」という名の男だ。彼の運営する西の大神殿はこの国の人々の単純な気質を上手く利用し、今では国王と同等な権力を持つ法王の座にまで上りつめていた。もちろん巫女育成になど力を注いだ訳では無い。人々の憧れや欲望を巧みに操って仮初の信頼を得たに過ぎないのだ。彼と豊かな水源が国にもたらしたものは多くの人々の精神の腐敗だった。譲り合いの道徳心はとうの昔に失われ、自分たちの私腹を肥やすことに夢中になる貴族たち。自然への感謝の気持ちを忘れ快楽に溺れる街の人々。気が付けば騙し合いの中で貧富の差が大きく出始めていた。労働からいったん離れてしまった町の人々の心はもう元には戻らなかった。本来なら豊かな恵みも天からの贈り物であり争いを生むものでは無かったはずだ。・・・それがどうだろう。今では真面目に働く者が収入を吸い上げられ、私欲に生きる者が楽をして富を得ている。新・法王となったソドムもその一人であった。力の無い村人から収入を吸い上げ、街の人間に大判振る舞いをして人気と指示を得ていた。その野心家な中年男が次に目を付けたのが、昔国中で噂になった『神秘の少女』エレミアだった。聞けば偏狭な地には類稀な美貌を持つと言う。好色な権力者にとっては興味深い話題だ。もし噂通りの能力者なら政治的にも役に立つ。・・・いや、神秘の力など無くても美しい容姿があればそれだけで十分イメージ効果がある。それにまた別な楽しみ方もあるというものだ。ソドムはエレミアを自分の神殿の巫女として迎える決意をした。少女の願いなど気に留めることもなく・・・。この時エレミアはまだ十五歳であった。