鳥籠の魔術師
「この城に残っているのは、もうお前ひとりだけだ」
数十時間ぶりに重たい木の扉が開かれると、空気が燻った匂いがした。机に向かって書きものをしていた魔術師は手を止め、声の主を一瞥すると顔色を変えずに言った。
「正確にはあなたを除けばひとり。ですね、王様」
王は小さくため息を吐く。一回り年下にも関わらず、自分にとってこの魔術師はずっと不可解な存在であり続けている。
「騒ぎは聞こえていただろう。逃げようとは思わなかったのか」
「この塔から逃げられる道など、いったいどこにあるでしょう。知っていれば、10年も待たずにとっくに逃げ出していました」
それに、と魔術師は続けた。
「あなたと約束しましたから。魔術が完成するまではここにいると。そうでしたね、王様」
王は頷く。相手の言うとおり、城の最奥にある塔の最上階に魔術師を閉じ込めたのは、ほかでもない自分自身だった。
後ろ手で扉を閉める。あと少しは、時間稼ぎができるだろう。あと少しだけは。
この部屋にちゃんと入るのは久しぶりだった。最初の頃は牽制の意味も込めてたびたび訪れたものだが、部屋が魔術師の気配に染められていくにつれ、足を踏み入れるのが憚られるようになった。ここ数年は長居することもなく、扉のところで立ち話をするに留まっていた。それでも魔術師の受け答えは機知に富んでいたので、王の求める回答は充分得られた。
王は部屋を見回した。ドーム型の天井と、壁に沿った何本もの垂直の柱は、鳥籠を思わせる。室内には黄金の測天儀、古ぼけた魔術書の山、羽根ペン、三角フラスコ、硝子でできた卓上遊戯、瓶詰めの薬草などが、隙間を埋め尽くすように位置している。
そして中央には、白に近い長い金髪を持つ美貌の魔術師。
目と目が合う寸前に、王はまつ毛を伏せる。正面から見据えれば、魔力に捕えられてしまいそうだった。
「どうだ、この部屋は」
そんなことが訊きたいわけではなかったが、口からついて出たのは当たり障りのない質問だった。
「居心地は悪くないですよ。研究に必要なものはなんでも与えていただきましたし、バルコニーに出れば新鮮な空気も吸えましたし。食事も1日3回届けていただきましたし……今日はまだですが」
魔術師はほんの少し唇の端をあげた。
「囚われの身としては、贅沢なほどです」
魔術師の口調は淡々としているのに、一言ずつ胸に細い針を差されるような気がした。王は黒い上着をかき合わせながら、あくまでさりげない様子で言った。
「食事は口に合っていたか」
違う、こんなことが訊きたいわけではない。そう思いつつも、どうしても素直な言葉が出てこない。
「ええ、捕囚にもきちんとした食事をいただいて。さすが繁栄を極める王国、そして慈悲深き偉大なる国王様」
「その繁栄も今日で終わりだがな。厨房から不意打ちをかけるとは、敵も考えたものだ。確かに、城を炎上させるにはもってこいの場所だ。おかげで初動が遅れて多くが犠牲になった」
魔術師は眉ひとつ動かさず聞き返した。
「料理を運んでくれていた侍女は?」
「わからん。だが裏の城門を開けたから、運がよければ逃げられただろう」
そうですか、という呟きに込められた感情は読みとることができない。王はまた胸が痛むのを感じる。それを振り払うように乱暴に椅子を引き、魔術師の向かい側に座った。
「こうなることも、お前には視えていたのだろう?」
魔術師は静かな笑みをたたえている。
「10年前に大人しく捕まえられたことすら計画のうちか」
「まさか。私はただの子どもでした」
「子どもといっても、いにしえの術式を司る一族の生き残りだ。世が世なら君主だ」
「その一族を滅ぼしたのはあなたでしょう、王よ」
王と魔術師はしばし向き合う。
先に負けたのは王だった。視線をそらし、バルコニーの外を見る。最奥にあるこの塔は、城の擾乱から忘れ去られたようにひっそりと静けさを保っている。
あの日もこうだった。遥か昔から、北西の砂漠地帯に暮らしてきた異教の民。人口は小さいながらも、神官の一族を中心として独自の文化を維持していた。争いを好まず、王国とは年に一度来貢することによって関係を保ってきた。
その関係を一方的に破って王は攻め入った。自ら前線で剣をふるい、丸腰の民たちの喉に突き刺す。ある者は泣き、ある者はすがり、ある者は祈ったが関係なかった。神殿を血で染めながら進み、殺戮の限りを尽くしたあと、最奥の部屋でその子どもを見つけた。
美しく、静かな子どもだった。
血と砂埃にまみれた王が剣を構えても、表情ひとつ変えなかった。それどころか手のひらをあわせると、刃の目の前で一礼した。王は切っ先を、子どもの喉ではなく髪飾りへと伸ばす。束ねていた紐が切れ、細く長い髪がさらさらと流れた。まるで月の光に照らされた砂丘のようだった。
その瞬間、いにしえの術式を伝えながら悠久の時を重ねてきた土地の記憶そのものに触れた気がした。世界は完璧な静謐に満ちていた。
殺すべきだと思った。だができなかった。
敵国の生き残りを連れ帰ったことに影で眉をひそめる者はあれど、表立って反対する声はあがらなかった。王位に就いて数年でいくつもの遠征を成功させ、領地を拡大し続ける凶暴な主君を止められる臣下はいなかった。誰もが王にひれ伏し、畏れた。
だが10年経てば、何もかも変わる。
「祖国の敵が滅びようとしているのに、お前は嬉しそうにないな」
「形あるものはいつか滅びます。ただそれだけのこと。祖国も敵国もございません」
「だが滅亡を早めることはできただろう、お前になら」
王はポケットからあるものを取り出すと、机の上に放った。折り紙でできた白い鳥がぽとりと落ちる。王が折り目を広げ、一枚の紙になったところで裏返すと、図面と文字が現れた。城の見取り図だった。
「南への遠征中に、白い鳥の群れが我々を追い越していくのを見かけた。今の時期、その方面には珍しい鳥だ。一匹撃ち落としたら、あっという間にこの折り紙に変わった。まさに魔術のように」
王は続ける。
「思い当たることがあった。数年前から白い鳥を城の近くで見かけることが多くなった。他国に兵略が何故か漏れ、戦況が悪化し始めたのもその頃だ」
くしゃり、と王の手の中で紙が潰れる。
「これを描いて飛ばしたのはお前だな」
魔術師は首を傾けると、はじめて愉快そうに目を細めた。
「さすが王様、お見通しになられるとは」
「お見通しなものか。兵を半分残し、急いで馬で駆け戻ったらこのさまだ。まんまとはめられたというわけだ」
魔術師は椅子から立ち上がると、抽斗から紙を取り出し何事かを書きつけた。それを折り、息を吹きかけると、次の瞬間白い鳥が手の中から羽ばたいた。鳥は部屋の中を2度旋回すると、バルコニーから飛び去った。
王は眉根を寄せる。
「大した魔術だ」
魔術師はかぶりを振る。
「いえ、この程度は魔術とも呼べません。元々長い距離を飛べるものではないし、強い風に吹かれたり、雨に打たれればそこで終わり。敵国に確実に情報を届けようと思うなら、いかなる術師もこんなやり方はしないでしょう。ただ――」
「ただ?」
「手慰みに飛ばした紙の鳥が、めぐりめぐって行くべき場所に辿りつくなら、それもまた運命かと」
魔術師は捉えどころのない笑みを浮かべた。
「……塔にいるお前が城の見取り図など、いったいどうやって知った」
「10年もいれば自然と知識は深まるものですよ。王様の言葉の端から得たものもございます」
王が魔術師の元を訪れるのは、古代の学問や魔術について知りたいときだった。つまり、政治や戦に行き詰っているときだ。確かに、話の隙間に余計な情報を滲ませたことがなかったとは言えない。そんなつもりはなかったが、知らない間に魔術師に気を許していたのだろうか。それが10年の時が流れるということなのか。たとえ、王と捕囚という関係でも。
「何故、魔術で助けを求めなかった」
「それは私の望むところではありません。申し上げましたでしょう、お約束した魔術が完成するまで私はどこにも参りません」
「愚かな。そんなもの……」
勢いよく立ちあがった王は、突如動きを止めた。少しの沈黙のあと、「そうか」と唇をゆがめて笑った。
「これがお前の復讐か」
代わりに魔術師の整った顔から笑みが消える。
「鳥籠の中に閉じ込められながら私を追い詰めるのは、さぞかし楽しかっただろうよ」
王はテーブルに置かれた硝子製の卓上遊戯に手を伸ばす。正方形のマスが交互に描かれたボードの上に、白と黒の数種類の駒が載っている。塔を象った黒い駒に挟まれている白のキング。ボードの中央には黒のクイーンが位置している。
「間抜けな王だと笑っていたのだろう!」
王は白のキングを掴み取ると、思いきり盤面に叩きつけた。黒のクイーンに命中し、2体とも粉々に砕け散る。硝子の破片が王の頬を掠め、赤い一本線を描いた。
「魔術師よ、砂の民の王子よ。これで満足か?」
ぬるりと生温かい液体が頬をつたった。王は手の甲で強引に血を拭う。嗅ぎ慣れた鉄の匂いがした。ふと思った。もしかしたら、これは自分の身体そのものから発せられているのかもしれない。
先代の後継者争いで兄弟たちを手にかけて以来、ずっと殺し続けてきた。敵国や王族や臣下たちを黙らせるためには、それが一番有効だった。国王とは結果がすべて、実力本位の世界だ。目の前の敵を斬って斬って斬りまくった。疑問も躊躇もなかった。何も畏れていなかったから。
――そう、あの日までは。
「それでは傷跡が残ってしまいます」
「傷など今さら誰が気にする」
「私が気にするのです。美しいお顔にそのような傷はふさわしくありません、女王陛下」
王の息が止まった。
「……その呼び方は嫌いだと言っただろう。覇者に男も女もない」
それに、と続ける声はかすかに震えている。
「美しいなどと」
魔術師が一歩王に近づき、王は一歩後ずさる。
「いいえ、孤高にして美しいお方」
「違う」
もう二歩、三歩と下がり、王の背中が壁についた。影を落とす長身の魔術師を見上げる。
「美しいのはお前だけだ」
乱暴な口調に反して、顔にはため息をこぼしたような表情が浮かんでいた。
魔術師の手が頬に近づく。王はビクッと身体を震わせた。
「触るな!」
「触りません。お怪我の処置を」
頬に手をかざした魔術師が口の中で何かを呟くと、時間を巻き戻すように傷は消えた。気を鎮めるように王は大きく息を吐いた。
「何故、私を助ける」
「私からも同じ質問を。何故あのとき、私を殺さなかったんですか?」
王は視線をそらすが、魔術師の言葉は揺るぎがない。
「そして10年間、一度も触れもせず、私を生かし続けたのは何故ですか」
王は瞳を閉じる。己が土足で踏み荒らした聖なる土地が見える。砂は死体から流れる血をしめやかに吸った。叫びと祈り。殺戮の果ての静寂。そして、三日月のしずくを落としたような美しい子ども。
目を開いた。
目の前の子どもは成長した肉体を手に入れ、もう子どもではなかった。ただ変わらず美しい。
「私にとって、生きることは血を流すことだった。だがお前に会って、世界には別の理が存在することを知った」
王は魔術師をしっかりと見据える。
「私は畏れることを知った。お前は、私が唯一畏れるもの。私が唯一美しいと思うものだ」
まばたきと言葉を奪われたそのとき、すべては変わってしまったのだ。殺戮にしか興味のない女王がいよいよ狂った、愛玩用の少年を塔という鳥籠に閉じ込めたのだと、いくら言われても手放すことはできなかった。
王と魔術師は無言のままお互いを見つめていた。
そのとき、爆発音がとどろき、足元が揺れた。王はとっさに壁に手をつく。魔術師も床にしゃがみバランスを取る。
厚い木の扉の向こうに、遠くから炎の燃え盛る音が聞こえてくる。
「時間切れだ。火がここまで辿りつくのもすぐだ」
王は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「こんなところで私と死ぬのは本意ではないだろうが……」
「いいえ」
魔術師は立ち上がり、バルコニーへと歩いた。王もあとに続く。
「この高さから飛び降りるか? 身体がぐしゃぐしゃに潰れるぞ。焼け死ぬのとどちらがマシか」
「いいえ、死にません」
怪訝な顔をする王に魔術師は微笑んだ。
「部屋にいらっしゃる直前に、魔術が完成したと言ったら?」
一瞬何を言っているのかわからなかった。やや遅れて、王の表情が変化した。
「まさか」
「紙でできた白い鳥たちは、この研究の副産物のようなもの。私はこれを完成させるために10年間を費やしてきた。ようやく王様にお応えできます」
その魔術は、魔術師をより長く塔にとどめ置いておくために、王が出鱈目に命じただけのはずだった。神官の血族といえど、成し得られるはずのないものだった。
「こちらへ」
魔術師が手を伸ばす。王は吸い寄せられるように近づいていく。
バルコニーの向こう側には青い空と森が広がり、風が吹いていた。魔術師は気持ちよさそうに目を細めると、腕を広げた。
「落ちないように、しっかりと掴まってください」
呆然としている王の指先を絡め取り、己の胸に導く。強く抱きしめる。
「……やっと触れられた」
魔術師の声は、子どものように弾んでいた。
バサッという大きな音がする。王の視界が白で埋まる。夢とも現実ともつかない出来事を、王は必死で抱きしめた。
身体が浮きあがる。空気が頬をなでる。
“人間を鳥に変える魔術を”
遠い約束がこだました。
*
目を覚ましたとき、王は野営のテントの中に寝かされていた。
南に遠征する途中、城へ戻るために残してきた部隊だった。
「動物のような物音がして、見てみたら王様が倒れておいででした。駆けつけると、大きな鳥の影が横切っていきました」
大きな白い鳥だった。それはそれは美しい鳥だったと、兵士たちは言った。
制止を振り切って、王はテントを出る。緑の大地を踏みしめる。頭上には雲ひとつない青い空が広がっている。
「一緒に死なせては、くれなかったか」
それは優しさなのだろうか。もしくはそれこそが復讐なのだろうか。答えを知ることはできない。
だが抱きしめた身体の温かさは憶えている。耳の奥まで響いた最後の一言も。
ふわりふわりと、一枚の白い羽が舞い降りてきた。まっすぐ手を伸ばす。
王は思った。私は生き続けるだろう。この世界のどこかにいる魔術師を、きっと探しだすだろう。そしてそのとき、私は必ずお前を抱きしめる。
白い羽は手のなかで、泡のようにそっと消えた。
お読みいただきありがとうございます。
突然「魔術師と王様の話が書きたい!!」と思い立って、夏の終わりにひねり出した話です。ファンタジーはあまり得意分野ではないのですが、それっぽい雰囲気が出ていればいいなあ、と思っております。
途中に一応どんでん返しらしきものを配置しているのですが、当初は王様=男、魔術師=女のつもりで構想していました。4分の1ほど書いたところで、ふと「逆転させたほうがスリリングなんじゃないか?」と思い変更したのですが、個人的には気に入っています。
執筆中はFrank Oceanの「Swim Good」という曲をよく聴きました。静謐でメランコリックで詩的なミッドチューンです。
また、執筆には「小説家になろう」に掲載されている立田さんの小説「王様の鷹の話」に大変刺激されました。かなり影響されている部分があると思います。現実とお伽噺が入り混じる、とても素敵なお話です。ほか、塔の中の描写は、イタリアの作家カルヴィーノの小説「見えない都市」にインスピレーションを得ています。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ご意見・ご感想などお待ちしております。