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「氷など雪が降れば手に入る」と笑われましたので、夏の薬と葡萄酒と御遺骸はお守りいたしません

作者: 歩人
掲載日:2026/05/11

御遺骸の前に、氷が一粒もなかった。


 ノルディアは、その光景を、自分の目で見たわけではない。半年前に王宮を辞してから、彼女が再び王都の地を踏むことはなかった。けれど、ある修道女から届いた一通の手紙が、その夜の景色を、彼女の中に静かに引き入れた。


 手紙を書いた老婦人は、かつて王太后の侍女頭であった人で、引退してから南方の港町ポルテ・サリーナの修道院に身を寄せていた。崩御の知らせを受けて急ぎ王都へ戻り、御遺骸の側に立ち会った——その夜のことを、震えるような筆跡で記してきた。


 ノルディアは、海風の匂う窓辺で、その手紙を読んだ。


---


 盛夏の昼下がり、王宮の医薬庁の地下では、宮廷医ガリアスが長卓の前で平伏していたという。


 白の医衣に金の縁取り、胸に医師組合の銀章。あの慇懃いんぎんな医師殿が、額を石床に押しつけ、震える声で告白したそうである。


「殿下、御遺骸を、お守りする氷が……ございませぬ」


 長卓の上には、薬瓶が並んでいた。

 解熱柳皮げねつやなぎかわの樹液は、瓶の内側に青黴あおかびを浮かせていた。血止め苧麻ちどめからむしの凍結濃縮は、黒く変じ、栓の蜜蝋みつろうが溶け落ちていた。肺薬の葛根かっこん湯は、瓶の底に沈殿物を作り、上澄みは白く濁っていた。


 葡萄酒蔵の方では、もっと容赦のない有り様であったらしい。


 樽から立ち昇るのは、酢の臭い。赤葡萄酒は酸化し、半年熟成のはずの白葡萄酒は香りを失って、ただ黄ばんだ水のようになっていた。


 窓の外では、蝉が鳴き続けていた。


 御遺骸室——王宮地下の最深部に設けられた、氷の部屋。本来であれば、藁を敷き、氷塊で四方を囲い、銀箔ぎんぱくの上に御遺骸を安置する場所。そこに、氷が一粒もなかった。


 王太后の御遺骸は、絹のしとねの上にそのまま横たえられていた。盛夏の盛りに、三日。御遺骸の頬には、すでに薄く青黒い影が差していたという。


 マクシミリアン王太子殿下は、御遺骸の脇に立って、しばらく動かなかった。


 ガリアスの声が、震えながら続いた。


「氷は、雪が降れば手に入ると、仰せでございました」

「冬になれば、また切り出せるでしょうかと、申し上げかねます」


 マクシミリアン殿下は、ぽつりと、こうお漏らしになったそうだ。


「なぜ、こんなことが、半年で」


 手紙の文字は、そこで一度途切れていた。

 次の行に、老婦人はこう書いていた。


「殿下のあのお声を、わたくしは、ヴェントレースのお嬢様にお伝えしなければなりません。許されるなら、お知りになっていただきたい」


 ノルディアは、手紙を膝に置いた。

 窓の外、ポルテ・サリーナの夏の海が、白い帆船を二艘、ゆっくりと運んでいた。


 半年前の春の夜会のことを、もう一度書き留めておこうと思った。

 誰のためでもない。自分のために。氷河湖の朝の冷たさを、自分の指がまだ覚えているうちに。


---


 半年前の春。王宮の春の夜会。


 大広間には、シャンデリアの蝋燭ろうそくが三百本灯っていた。緋色ひいろ絨毯じゅうたん、金糸の刺繍の卓布、銀の燭台。白磁の皿には、若鶏のロースト、葡萄を散らしたチーズ、新鮮な菜花のサラダ。


 長卓の中ほどに、ノルディアは着座していた。


 淡灰の絹のドレス、頸の付け根で結った霜色の髪、首から下げた真鍮しんちゅうの温度計。ヴェントレース伯爵令嬢として、千年続く氷室守の家の娘として、彼女は静かに食卓を見渡した。


 夏の薬の話はなかった。

 御遺骸の話もなかった。

 葡萄酒の樽の温度の話も、誰も口にしなかった。


 マクシミリアン王太子殿下は、長卓の上座で、料理長の説明にしきりに頷いておられた。料理長は新進派の名手で、宮廷で『新鮮素材主義』と呼ばれる流行を率いていた。


「殿下、本日のお肉は、いずれも今朝獲れたものでございます。保存に頼らぬ、新鮮なお食事こそ、王家の食卓にふさわしゅうございます」


 マクシミリアン殿下は、満足げに頷かれた。


「それでよい。冬の備えだの、夏の備えだの、古臭い家業を抱える時代ではない」


 ノルディアは、目を伏せた。

 胸の奥で、祖母の声が響いた——氷河湖は、足音で人の重さを聞き分けます。


 彼女は、静かに顔を上げて、口を開いた。


「殿下、夏の薬は、どうなさるおつもりですか」


 大広間が、わずかに静まった。

 近くの貴婦人方が、扇の陰でこちらを窺った。


 マクシミリアン殿下は、嘲笑ちょうしょう混じりに仰った。


「夏の薬? 夏の薬がどうした」


 ノルディアは、顎を引いて、淡々とお答えした。


「解熱柳皮の樹液は、マイナス三度で一年保存いたします。血止め苧麻は、マイナス二度で半年でございます。流行り病が出れば、それらが命を救います」


「ふん、医師に任せておけばよかろう」


 ガリアスが、長卓の端で慇懃に頷いていた。マクシミリアン殿下が寵愛する宮廷医である。


 ノルディアは、続けた。


「葡萄酒は、上層温度マイナス一度で熟成いたします。御遺骸は、マイナス三度で葬儀までお守りいたします」


 マクシミリアン殿下は、ふっと笑われた。


「ノルディア、お前のところは、いつまで冬の話をしている」


 彼女は、答えなかった。


 マクシミリアン殿下は、銀の杯を持ち上げて、続けられた。


「氷など、雪が降れば手に入る」


 大広間の空気が、わずかに張った。


「誰でもできることに、わざわざ家業を立てる必要が、どこにある」


 その瞬間、ノルディアは、自分の指先がいつもより冷えているのを感じた。霜焼けの痕が薄く疼いた。氷河湖の朝の風が、急に大広間に吹き込んだような気がした。


 貴婦人方の扇が、止まっていた。

 ガリアスは、目を伏せて、何も言わなかった。


 ノルディアは、ゆっくりと顔を上げた。

 マクシミリアン殿下を見つめた。


「左様でございますか」


 言葉は、それだけであった。


 マクシミリアン殿下は、頷きながら、続けて宣告された。


ゆえに、氷室守の家業は廃止する。ヴェントレース家との婚約も、本日限りとする」


 大広間が、再び静まった。

 ノルディアは、立ち上がって、深く礼をした。


「殿下、夏の薬と葡萄酒と御遺骸は、お守りいたしません」


 声は、震えなかった。

 ノルディアは、静かに大広間を辞した。


---


 その夜、ノルディアは王宮の地下へ降りた。


 階段は、十二段、また十二段と続く。三層に分けられた氷室の最下層、最深部の御遺骸室まで、合わせて六十段ある。各段の脇には、油のともしびが灯されていた。


 ノルディアは、最下層の氷塊層の前に立った。


 マイナス五度から三度の冷気が、彼女の頬を刺した。雪とわらで覆われた氷塊が、夏に備えて静かに眠っていた。氷板二百枚——昨冬、氷河湖シルベルゼーから六十日かけて切り出したもの。


 彼女は、その中の一枚に手を当てた。

 冷たさは、痛みに近い。けれど、それは生きた氷の冷たさだった。


 彼女は、温度日誌を閉じた。

 四代分——曾祖父、祖父、父、自分。千年の中の、最後の四代の記録。


 彼女は、首から真鍮の温度計を外した。

 革紐をほどき、卓上に置いた。


 次に、鍵束を外した。

 氷塊層、薬瓶層、葡萄酒層、御遺骸室。四つの鍵が、銀のリングで結ばれていた。


 彼女は、それを、卓上に静かに置いた。


 氷室の燭を、一本ずつ消していった。

 最後の一本を消す前に、彼女は、最深部の御遺骸室の扉に手を当てた。


 冷たかった。

 藁の匂いがした。


「殿下が仰った通り、雪は降れば、手に入ります」


 彼女は、誰にも聞こえない声で、そう言った。


「けれど、夏まで届く氷は、冬の手がなければ、ございません」


 最後の燭を消した。

 氷室は闇に沈んだ。


 ノルディアは、地下を出た。


 階段を上がる足音が、十二段、また十二段と続いた。

 千年続いた『冬蔵ふゆぐら』の闇を、彼女は背に置いて、地上へ戻った。


 夜の空気が、肺に入った。

 春の夜風は、氷河湖の朝の風とは、違っていた。


---


 六歳の冬、父はノルディアを氷河湖シルベルゼーに連れて行った。


 まだ氷板の切り出しには参加させなかった。けれど、湖畔の小屋の縁側に、彼女を一日中座らせた。


「氷の鳴き音を、聞いていなさい」


 父は、それだけを言った。


 ノルディアは、雪の上で、耳を澄ました。

 湖の底から、低く長く響く音、高く短く弾ける音、細かく散る音——いろいろな音が、湖面を抜けて、彼女の耳に届いた。


 夜、小屋に戻った時、父は彼女に訊いた。


「どれが、危ない音だった」


 彼女は、答えた。


「低く、長く響く音でございました。低く、長く」


 父は、頷いた。


「お前の祖母上は、五歳でその答えを出した」


 九歳の冬、ノルディアは初めて氷板を切る父の隣に立った。氷鋸の引く音が、湖底に伝わっていくのを、彼女は手のひらで感じた。


 十六歳の冬、父はもういなかった。

 彼女は、一人で湖に立った。氷の鳴き音を聞き分けながら、最初の一引きを入れた。父の手の重さを思い出しながら、引いた。氷板は、夏まで持つ密度であった。


 そして、二十一歳の冬、最後の氷の切り出しを終えた。

 あの冬の朝、彼女は氷河湖の中央で、空を見上げた。

 空は、青かった。痛いほど青かった。


 その時の青を、彼女は、今でも覚えている。


---


 三層氷室の温度差は、雪と藁と松脂で管理する。


 最下層、氷塊層はマイナス五度から三度。雪を厚く敷き、藁で氷塊を覆い、松脂を塗った木板で蓋をする。藁は二週間ごとに新しく替える。古い藁は湿気を吸い、温度を狂わせるからである。


 中層、薬瓶層はマイナス二度から一度。最下層からの冷気を、孔のあいた銅板で調整する。銅板の孔の数で、上層への冷気の流量を変える。湿度の高い夏は孔を増やし、乾燥した夏は孔を減らす。薬瓶は硝子製で、栓は蜜蝋。栓の蜜蝋が溶け始めたら、温度が上がっている合図である。


 上層、葡萄酒層はマイナス一度から摂氏二度。外気に近いため、雪をまばらに敷き、樽の周囲を松脂塗布の木板で囲む。葡萄酒は温度の急変を嫌う。一日マイナス一度を超えれば、香りが抜ける。


 最深部の御遺骸室は、別室である。

 マイナス三度を維持するために、四方を氷塊で囲み、藁を敷き、御遺骸の下には銀箔ぎんぱくを敷く。銀箔は、肌の腐敗を遅らせる古来の処方である。


 ノルディアは、二十一歳までの六年間、この四つの空間の温度を、毎日二度、計測してきた。朝の六時と、夜の十時。一日も休まなかった。


 雪が足りなくなれば、北方の万年雪『ノルトホーン』から補充した。

 藁が湿気れば、新しいものに替えた。

 松脂が乾けば、塗り直した。


 誰も、彼女のこの仕事を、見たことはなかった。

 誰も、見ていない場所で、千年の温度は守られていた。


---


 解熱柳皮げねつやなぎかわの樹液は、マイナス三度で一年保存する。


 樹液は、夏の流行り病で熱に苦しむ平民の子供たちに、薬として用いられる。一さじで熱が下がる。一年分を一夏で使い切る家もある。


 ノルディアは、毎年、夏の終わりに王都郊外の柳林を訪れていた。樹齢五十年以上の柳の幹に切り込みを入れ、樹液を集める。集めた樹液は、その日のうちに王宮の薬瓶層に運ぶ。マイナス三度の硝子瓶の中で、樹液は一年、効能を保つ。


 血止め苧麻ちどめからむしは、凍結濃縮する。

 苧麻の葉を冬の朝に摘み、すぐに薬瓶層で凍らせる。葉の水分が結晶化する過程で、薬効成分が濃縮される。マイナス二度で半年。栓を蜜蝋で封じ、六ヶ月以内に使い切る。


 肺薬の葛根湯、皮膚薬の蓬軟膏——いずれも、温度を一度でも誤れば、効能は失われる。


 二十一歳までの六年間、ノルディアは、これらの薬瓶の管理を一人で担ってきた。瓶ごとに、貼り紙の色を変えた。赤は解熱、青は血止め、緑は肺、黄は皮膚。色で識別すれば、宮廷医が瓶を取り違えることはない——彼女が考案した工夫であった。


 ガリアスは、その色分けを、一度も褒めなかった。


---


 翌朝、彼女は馬車に乗った。


 荷物は少なかった。父の遺した氷鋸こおりのこ、母の温度計、祖母の銀の量り。曾祖父の代から続く温度日誌の写し。それから、淡灰の木綿の衣を二着。


 馬車は王都の南門を出て、街道を六日かけて南へ向かった。


 ノルディアは、車内で温度日誌の写しを開いていた。

 文字は、季節ごとに違う筆致で並んでいた。曾祖父の角張った字、祖父の流麗な草書、父の几帳面な楷書、自分の少し細い字。


 ページの余白に、祖母が書き込んだ言葉が残っていた。


——氷河湖は、足音で人の重さを聞き分けます。

——氷は、冬の手で、夏まで届く。

——手渡せる人がいる土地に、わたくしの孫を送り届けたい。


 ノルディアは、最後の一行で、しばらく頁を閉じることができなかった。

 誰に、と書いてはいなかった。けれど、祖母は、誰かを思って書いていた。


 彼女は、目を伏せた。

 馬車は、塩湖領ポルテ・サリーナへ、ゆっくりと近づいていった。


---


 ポルテ・サリーナは、塩湖と氷河湖の中間にある領であった。


 南方の塩湖『塩白えんぱく』、北方の氷河湖『カランタ』、両方を統べる辺境伯領である。塩商と氷商が交易の合流地点として集まり、市場の立つ街には、塩の白と、氷の透明と、葡萄酒の赤が、混ざり合っていた。


 馬車が館の前に着いた時、辺境伯バルダザール・ポルテ・サリーナは、自ら玄関に立っていた。


 日に焼けた肌、肩までの黒髪、深い緑の瞳。背は高く、肩幅は広い。質素な麻と毛織りの上下、革のベルトに塩の小袋を下げていた。


 彼は、馬車を降りるノルディアに、深く一礼した。


「ヴェントレースのお家の方を、十年お待ちしておりました」


 ノルディアは、礼を返した。

 声は、出なかった。


 バルダザールは、家令を呼んだ。

 老齢の家令ヨアヒムが、革張りの箱を抱えて現れた。


「お嬢様。三代前、お祖母様がわたくしの先代に下さったお手紙でございます」


 箱の中には、十数通の書簡があった。封蝋の色は、年代によって違っていた。

 ノルディアは、一番古い手紙を開いた。


 祖母の筆致であった。


——お孫様の代に、もし、王都が氷を要らぬと言い始めたら——その時は、こちらでお迎えくださいませ。


 ノルディアは、その文字を、長く見つめていた。

 胸の奥で、何かが、静かに緩んだ。


 バルダザールは、横で短く言った。


「春のうちに、氷河湖カランタを見ていただきたい。来てくださって、よかった」


 ノルディアは、頷いた。

 声は、まだ出なかった。


---


 ポルテ・サリーナでの最初の三月みつき、ノルディアは三つの仕事を始めた。


 一つは、漁師の魚保存用氷の作り方であった。


 夏の漁獲を市場まで運ぶには、氷が要る。けれど、ポルテ・サリーナの漁師たちは、氷の比重と保存日数の関係を知らなかった。ノルディアは、修道院の地下に小さな氷室を作り、氷板の選び方を漁師たちに伝えた。


「気泡が少ない氷を選んでくださいませ。色が青いほど、夏まで持ちます。白く濁った氷は、二日で溶けます」


 漁師たちは、ノルディアの言葉を、最初は半信半疑で聞いていた。けれど、夏の盛りに、彼女が選んだ氷で運んだますだけが、市場で腐臭を立てなかった。それから後、彼らは、毎朝ノルディアに氷板の選定を求めるようになった。


 二つ目は、修道院の薬草冷凍法であった。


 ポルテ・サリーナの修道院長は、ノルディアの祖母と書簡を交わした老修道女の後任で、もう七十を超える老婦人であった。彼女は、ノルディアを地下の薬草庫に案内した。


「お嬢様、ここに氷を入れて、薬草を保存できる場所を作りたいのです」


 ノルディアは、薬草庫を見渡した。石壁、藁の天井、銅板の棚——いずれも、氷漬け用としては条件が足りなかった。彼女は、修道院長に、三層構造の氷室を作る手順を、ゆっくりと説明した。


 最下層に氷塊。中層に薬瓶。上層に葡萄酒、あるいは果実酒。

 各層の温度差を、雪と藁と松脂で調整する。


 修道院長は、頷きながら、彼女の説明を細い指で書き取った。


「お祖母様が、あの方にお書きになっていた通りです。あなたの手は、お祖母様の手と、同じ動きをなさる」


 ノルディアは、初めて、わずかに口角を緩めた。


 三つ目は、葡萄酒蔵の地下温度設計であった。


 ポルテ・サリーナの領内には、小さな葡萄酒蔵が三軒あった。いずれも、夏の盛りに香りを失う酒を作っていた。ノルディアは、三軒の蔵元を訪ね、地下の温度を計測した。


 そして、上層温度マイナス一度から摂氏二度の安定領域を作るために、雪をまばらに敷き、樽の周囲を松脂塗布の木板で囲む手順を伝えた。


 夏の終わり、三軒の蔵から、初めて『香りの残った白葡萄酒』が世に出た。


---


 ノルディアの仕事が増えるにつれて、夜の作業時間は長くなった。


 夜半、修道院の地下氷室で、彼女は温度計の針を見つめていた。マイナス二度、マイナス一度の境目を、藁の量で微調整していた。指先は冷えて、かすかな鈍痛が奥に残った。


 扉が、静かに開いた。

 バルダザールが、ともしびを持って入ってきた。


 彼は、黙って、ノルディアの隣に立った。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 やがて、バルダザールは、上着のポケットから、温められた手拭いを取り出した。革袋の中に、湯で温めた石を仕込んだものであった。


 彼は、それをノルディアの手に押し当てた。

 温かい。痛むほど、温かかった。


「これは祈りに似ている」


 バルダザールは、低く言った。


「氷を、夏まで届ける手仕事は、祈りに似ている。あなたの祖母上が、以前の手紙でそう書いておられた。意味が、ようやく分かった」


 ノルディアは、温度計の針を見つめたまま、口を開いた。


「祈りは、誰にでもできるものでしょうか」


 バルダザールは、首を横に振った。


「俺は、できなかった」


 彼は、続けた。


「五年前、夏の流行り病で、妻を看取った。薬の冷却が間に合わなかった。氷さえあれば、と何度も思った。けれど、俺たちは氷の作り方を知らなかった。氷を売ってくれる商人はいたが、夏まで届く氷を見極めるのは、商人の仕事ではない」


「氷板の選定は、氷室守の仕事でございます」


「そうだ。だから、お祖母様の手紙を、俺は今でも仕舞っている。いつか、お孫様がいらっしゃる日のために」


 ノルディアは、温度計の針を見続けた。針は、マイナス一度の線で静止していた。


 彼女は、初めて、声を出した。


「閣下、お礼を申し上げてもよろしゅうございますか」


 バルダザールは、頷いた。

 ノルディアは、深く頭を下げた。


「迎えてくださって、ありがとう存じます」


 バルダザールは、燭を持ったまま、しばらく沈黙していた。

 それから、短く言った。


「ここにいてくれ。あなたの仕事を、俺は知っている」


 ノルディアは、頷いた。

 夜の地下氷室の、藁と氷の匂いの中で、彼女の指先は、温められた手拭いの温度に、ゆっくりと馴染んでいった。


---


 夏は、ゆっくりと深まっていった。


 ポルテ・サリーナの市場には、ノルディアが選定した氷で運ばれた魚が並び、修道院の薬草庫からは、夏の流行り病に備えた解熱柳皮の樹液が必要な家々へ届けられた。葡萄酒の蔵元たちは、夏の終わりに香りの残った酒を世に出した。


 領内で、夏の流行り病による死者は、前年の三分の一であった。


 修道院長は、ノルディアの手を取って、こう言った。


「お祖母様の言葉通りでございました。氷は、冬の手で、夏まで届くのですね」


 ノルディアは、答えなかった。

 ただ、修道院の窓の外、塩湖の浅瀬の色を見つめた。


---


 その盛夏の終わり、王太后崩御の知らせが、塩湖領にも届いた。


 使者は、王宮の若い従士であった。彼は、ポルテ・サリーナの館でバルダザールに頭を下げ、それから、ノルディアの方をちらと見た。


「ヴェントレースのお嬢様に、王太子殿下より、ご来訪のお伝えがございます」


 ノルディアは、温度日誌を閉じた。


「いつでございますか」


「五日後、ご到着の予定でございます」


 ノルディアは、頷いた。

 使者を辞させた後、バルダザールが、館の窓辺で短く言った。


「会わなくてもいい」


 ノルディアは、首を横に振った。


「お会いいたします。氷の話を、最後にしておきとうございます」


 バルダザールは、それ以上は言わなかった。


---


 五日後、王太子マクシミリアン殿下が、ポルテ・サリーナの館に到着された。


 旅装は塵にまみれ、頬はやつれていた。香油で整えていたはずの金髪は、汗と砂で乱れていた。瞳には、書斎で過ごしていたあの頃の光は、もうなかった。


 ノルディアは、館の中庭に面した小さな部屋で、彼を迎えた。


 部屋には、長卓が一つ。卓の上には、何も置かれていなかった——ただ、二つの氷塊が、白磁の皿の上に並んでいた。


 マクシミリアン殿下は、卓の向こうに座られた。

 ノルディアは、卓のこちら側に座った。


 しばらく、沈黙が続いた。

 窓の外で、蝉が鳴いていた。


 マクシミリアン殿下が、口を開かれた。


「ノルディア、戻ってきてくれ」


 声は、低かった。

 ノルディアは、二つの氷塊を、卓の中央に静かに押し出した。


「殿下、どちらが、夏まで保つ氷でございますか」


 マクシミリアン殿下は、二つの氷塊を見つめられた。

 しばらくして、首をかしげられた。


「同じに、見える」


 ノルディアは、頷いた。


「同じでございます。ただし、片方は——」


 彼女は、左の氷塊に指を当てた。


「冬至の朝、氷河湖カランタの中央で、厚さ三十センチの氷板から切り出したものでございます。気泡が少のうございます。色が青く、密度が高い。夏まで、保ちます」


 次に、右の氷塊に指を当てた。


「こちらは、立春過ぎ、湖の縁の氷から切り出したものでございます。気泡が多う、白く濁っております。三日で溶けます」


 マクシミリアン殿下は、二つの氷塊を、長く見つめられた。

 ご自身の指で触れようとなさったが、途中で手を止められた。


 ノルディアは、続けた。


「殿下、氷河湖は、足音で人の重さを聞き分けます。冬の朝、氷板の上を歩きながら、氷の鳴き音を聞き分ける——高い音は安全、低く長い音は危険、短く細かい音は割れる前兆。これを聞き分けられるのは、氷室守の家系だけでございます」


「ノルディア」


「氷板の比重を見抜き、夏まで保つ一枚を選ぶのも、氷室守でございます。三層氷室の温度差を、雪と藁と松脂で管理するのも、解熱柳皮の樹液をマイナス三度で一年保存するのも、御遺骸を葬儀までマイナス三度でお守りするのも、氷室守の仕事でございます」


 マクシミリアン殿下は、目を伏せられた。


 ノルディアは、二つの氷塊のあいだに、静かに自分の指を置いた。


「殿下」


 彼女の声は、震えなかった。


「氷は、冬の手がなければ、夏まで届きません」


 マクシミリアン殿下は、しばらく動かれなかった。


 ノルディアは、続けた。


「王太后陛下の御遺骸を、三日でも、五日でも、十日でも、肌の色を変えずにお守りする方法は、氷以外にはございません。マイナス三度。藁。銀箔。氷塊で四方を囲うこと。それを管理する者がいなければ、御遺骸は、盛夏の二日で変色いたします」


 マクシミリアン殿下が、絞り出すように仰った。


「祖母上は……三日目に、肌が、変わっていた」


 ノルディアは、頷いた。


「夏の流行り病で、平民の死者が増えていると、わたくしも聞き及びました。解熱柳皮の樹液が黴び、血止め苧麻が黒変したのでございましょう。マイナス一度を超えれば、効能は失われます」


「医薬庁の薬瓶は、すべて、駄目になっていた」


「葡萄酒の樽は、酸化なさったでしょう。赤葡萄酒は酢に。白葡萄酒は香りを失います。上層温度を管理する者がおりませねば、夏の盛りに、必ずそうなります」


 マクシミリアン殿下は、卓の上に両手を置かれた。

 その手が、震えていた。


 彼は、ぽつりと仰った。


「俺は、知らなかった」


「左様でございましたか」


 ノルディアは、答えた。

 声は、淡々としていた。


 マクシミリアン殿下は、目を閉じられた。

 しばらくして、目を開けて、彼女を見つめられた。


「ノルディア、戻ってきて……」


 ノルディアは、首を横に振った。


「申し訳ございません」


 彼女は、卓の上の二つの氷塊を、静かに片付けた。


「氷は、冬の手がなければ、夏まで届きません。わたくしが王都へ戻りましても、もう、冬は半分過ぎております。今からシルベルゼーで氷を切り出しても、夏までは届きません。来年の冬、また誰かが、氷を切り出すしかございません」


「誰が」


 マクシミリアン殿下が、震える声で訊かれた。


 ノルディアは、答えた。


「ヴェントレース家の氷鋸は、もう、わたくしの手にしかございません。父の遺品でございます。これを王宮へ戻すことは、いたしません」


 マクシミリアン殿下は、頭を下げられた。


 深く、深く——王族として、人に頭を下げた最初の場面であった。


「申し訳なかった」


 声は、震えていた。


 ノルディアは、見送らなかった。

 ただ、温度計の針を見つめ続けた。針は、零下一度に止まっていた。


 マクシミリアン殿下は、しばらく頭を下げたまま、立ち上がった。

 部屋を、静かに辞された。


 扉が閉まった。

 窓の外で、蝉が鳴いていた。


 ノルディアは、温度計の針を、見つめ続けた。


---


 その夜、バルダザールが、ノルディアの部屋の前に立った。


 彼は、扉を叩かなかった。

 ただ、扉の向こうに、低く声をかけた。


「殿下は、お帰りになった」


 ノルディアは、扉を開けた。

 バルダザールの顔が、燭の光に照らされていた。

 彼は、何も言わずに、ノルディアの手を取った。


 冷えた手であった。

 彼は、それを、両手で包んだ。


「来年の冬、カランタの氷切り出しは、俺も同行する」


「左様でございますか」


「お祖母様の手紙の続きを、俺は、書き継ぎたい」


 ノルディアは、頷いた。

 その夜は、それ以上は何も言わなかった。


---


 冬が、来た。


 氷河湖カランタの湖面が、薄く凍り始めた朝、ノルディアは、湖畔に立った。

 厚手の毛織りの外套、毛皮の手袋、首から下げた真鍮の温度計、腰に提げた氷鋸。父の遺した道具が、すべて、彼女の体の上にあった。


 バルダザールは、彼女の隣に立っていた。

 修道院の老修道女が、若い修道女たちを連れて来ていた。漁師たちが、運搬用のそりを曳いてきていた。塩商の若い番頭が、塩を白い布に包んで、お供えのように湖の縁に置いていた。


 ノルディアは、湖面に下りた。

 表雪を二寸ほど掻き、氷の結晶を見た。

 厚さは、三十二センチ——夏まで持つ厚さである。


 彼女は、氷鋸を構えた。

 最初の一引きが、氷板に深く入った。


 氷の鳴き音が、湖底から響いた。

 高い音であった。安全である。


 彼女は、氷板を一枚切り出した。

 縦九十センチ、横六十センチ、厚さ三十センチ。重さおよそ四十貫。


 漁師たちが、橇を寄せて、氷板を載せた。修道女たちは、静かに祈りを唱えた。塩商の番頭は、塩を一掴み、湖にいた。


 ノルディアは、二枚目の氷板を切り出した。

 三枚目を切り出した。


 昼までに、十枚の氷板が、橇で運ばれていった。


 休憩の時、家令ヨアヒムが、革張りの箱を抱えてやってきた。

 彼は、ノルディアに、一通の手紙を渡した。


「お嬢様。お祖母様の最後の手紙でございます。先代様のお手元から、この日までお預かり申しておりました」


 ノルディアは、雪の上に座って、手紙を開いた。

 祖母の筆致が、細く、けれど確かに、紙の上を走っていた。


——お孫様の手が、氷河湖カランタの湖面に立つ日、この手紙をお渡しくださいませ。

——氷は、冬の手で、夏まで届く。それを知っている人がいる土地で、お孫様には、新しい温度日誌を書き始めていただきたい。

——わたくしは、王都の三層氷室で、千年の記録の最後の一節を書きます。けれど、千年の続きは、王都の外でも、書くことができます。

——振り返らないで、よろしゅうございます。振り返らずに済む冬を、お孫様には、迎えていただきたい。


 ノルディアは、頁を膝に置いた。

 雪の上に、一滴、涙が落ちた。


 半年前の春から、彼女は一度も泣かなかった。

 婚約破棄の夜も、王宮の地下氷室を辞した時も、馬車で南方へ向かった六日間も、彼女は涙を流さなかった。


 けれど、この朝、雪の上に、一滴だけ落ちた。


 バルダザールが、横に座った。

 彼は、何も言わずに、彼女の肩に、温められた革袋をそっと当てた。


 ノルディアは、頷いた。

 涙は、それ以上は流れなかった。


 彼女は、立ち上がった。

 氷鋸を構え直した。


 午後の一引きが、氷板に深く入った。


---


 夕暮れ、湖畔に橇が並んだ。

 二十枚の氷板が、運搬の準備を待っていた。


 バルダザールが、ノルディアの隣に立って、湖を見つめながら言った。


「氷は、冬の手で、夏に届く。それを知っている人がいて、よかった」


 ノルディアは、頷いた。

 胸の奥で、ある言葉が、静かに動いた。


 振り返らない、と決めていた。

 けれど、振り返らずに済む冬を、わたくしたちは、毎年、迎え続けている——彼女は、そう感じた。


 湖の向こう、夕陽が、雪の表に淡い赤を染めていた。

 風が、塩の匂いを運んできた。塩湖から、氷河湖へ、風が抜けていた。


 ノルディアは、温度計の針を見た。

 針は、マイナス三度の線で、静かに止まっていた。


 彼女は、温度日誌を開いた。

 白紙の最初のページに、新しい筆致で、彼女は一行を書きつけた。


——氷は、冬の手で、夏まで届く。


 その下に、もう一行を、彼女は書いた。


——手渡せる人がいる土地で、わたくしは、冬を迎えている。


 日誌を閉じた。

 バルダザールが、橇の最後の一枚を結び終えた。

 漁師たちが、運搬の合図を送ってきた。


 ノルディアは、湖を後にした。

 振り返らなかった。


 振り返らずに済む冬を、彼女は、これから毎年、迎え続けるだろう。

 その冬の手で、夏まで届く氷を、彼女は、これからも切り続けるだろう。


 夕陽が、湖面の縁に、最後の赤を残していた。


---


【あとがき】


 お読みくださって、ありがとう存じます。歩人あゆとでございます。


 この作品は、シリーズ「捨てられ令嬢は最後に笑う」の第九十二作目でございます。今回は、専門職型ざまぁの王道——「冬の労働の背後にある夏の恵み」を主題にいたしました。


 氷というのは、夏には当たり前にそこにある存在です。けれど、その背後には、冬の凍てつく湖で、足元の鳴き音を聞き分けながら氷を切り出す手仕事があります。塩漬け師(前作シリーズP91)や薬師(P25 kusushi)と同系統の Tier S 専門職型として、今回は氷室守を選びました。


 三人称一元視点で書きました。地の文は「ノルディアは〜」「彼女は〜」、内心は推測形——感情の表出を最小限に抑え、描写の解像度で温度を伝える書き方を試みました。GP三万を超えた kusushi と同じ視点で、もう一度最高峰を目指したい、という思いを込めております。


 核心の台詞「氷は、冬の手がなければ、夏まで届きません」は、書きながら何度も書き直しました。シリーズを通して言いたかったことが、この一行に集約されているように思います。誰でもできることに見えるものほど、誰かの冬の手がなければ、夏には届かない。


 次作以降も、捨てられ令嬢シリーズを書き続けてまいります。


 もし本作が心に残りましたら、★評価・ブックマーク・感想・キーワード「歩人」での作者検索など、いずれかの形で応援いただけますと、続きを書く力になります。


 また別の冬の手の物語で、お会いできれば幸いでございます。


 歩人

お読みくださって、ありがとう存じます。歩人あゆとでございます。


 この作品は、シリーズ「捨てられ令嬢は最後に笑う」の第九十二作目でございます。今回は、専門職型ざまぁの王道——「冬の労働の背後にある夏の恵み」を主題にいたしました。


 氷というのは、夏には当たり前にそこにある存在です。けれど、その背後には、冬の凍てつく湖で、足元の鳴き音を聞き分けながら氷を切り出す手仕事があります。塩漬け師(前作シリーズP91)や薬師(P25 kusushi)と同系統の Tier S 専門職型として、今回は氷室守を選びました。


 三人称一元視点で書きました。地の文は「ノルディアは〜」「彼女は〜」、内心は推測形——感情の表出を最小限に抑え、描写の解像度で温度を伝える書き方を試みました。GP三万を超えた kusushi と同じ視点で、もう一度最高峰を目指したい、という思いを込めております。


 核心の台詞「氷は、冬の手がなければ、夏まで届きません」は、書きながら何度も書き直しました。シリーズを通して言いたかったことが、この一行に集約されているように思います。誰でもできることに見えるものほど、誰かの冬の手がなければ、夏には届かない。


 次作以降も、捨てられ令嬢シリーズを書き続けてまいります。


 もし本作が心に残りましたら、★評価・ブックマーク・感想・キーワード「歩人」での作者検索など、いずれかの形で応援いただけますと、続きを書く力になります。


 また別の冬の手の物語で、お会いできれば幸いでございます。


 歩人

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作者名、ずっとホビットさんだと思ってた! あゆとサンだったのですね。
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