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夕夏はその帰りの足であるものを買いに行った。どこにでもあるスーパーに売っている庶民的な値段のあるものであるが、夕夏にとってそれは自分へのご褒美である。心の中には罪悪感が芽生えるのだが、『ほしのマフィン』に勤める前から、これだけはどうしてもやめられないである。それを手に入れるとふくふくとした気持ちで帰路に着いた。
二号店の出勤日、戻ってきた夕夏をスタッフは温かく出迎えた。鬼のような忙しさだったモール店とは異なり、ビジネス街に立ち並ぶ2号店はいつも通り、お昼用に買いに来るビジネスマンと、近場の高層マンションに住むマダム達がおやつ用に買い求めに来るくらいで平和な時間が流れていた。時々、職場の差し入れやねパーティー用にまとめ買いがあるが、予約優先となっているので、店の状況は穏やかだ。
休憩時間、2号店の休憩室で夕夏はスーパーで手に入れたある物を手元に取り出した。
スーパーのパンコーナーでいつも売っている、アルミのカップに入った……マフィンである。
三個入、百数十円。
表面には控えめにチョコチップが数個振られていて、『ほしの』の商品とはチョコチップの数がもちろん違う。生地の質感も硬そうで、ふわふわを売りとしている『ほしの』とは違う。
『ほしのマフィン』が美味しいのは勿論、知っている。いくつも食べて来て、これ以上美味しいマフィンは存在しないとも分かっている。オーナーが作り上げたマフィンは世界一だ。
だが、このとても庶民的で手頃な値段で、しかも三個も入っているこのチョコチップマフィンがどうしてもやめられない。マフィン屋で働きながら、何たることと思うが、どうしてもこれだけは忘れられないのだ。
これを広げ、静かに休憩室内を振りかえる。
誰もいない。
休憩は交代制の為、必然的に一人でとることになる。一人の時間だ。
大丈夫、マフィン屋で違う会社のマフィンを食べていてもバレない。
「よし」
袋を開けて、一つつかみ、口に入れようとした。
「お疲れー、梓馬いるかー?」
「は、はいっ!」
オーナーの声だ。今日は来る予定はなかったのだが。まずい、と思った時にはもう遅い。オーナーは夕夏のそばまで歩みよっていた。
「お前、また他所のマフィン食ってるのかよ」
視線と言葉尻に軽蔑が含まれているのに、夕夏は思わず立ち上がった。
「す、すみません!」
思わず頭を下げる。だが、当のオーナーは興味なさそうに話を変えた。
「まあいい、ついでにこれも食え。さっき本店で作った所だ」
そう言ってカバンから取り出したのは、『ほしの』のマフィンだ。
「まだ試作段階でメニューにも上げていないが食べてみてくれ」
上部が良い色に焼けていると第一印象を持ったが、焼き色だけではないことに気が付く。
「上はキャラメル? ですか?」
「正解」
でもそれだけではない。生地の裂け目に茶葉が混ざっているのが見える。
とりあえず、と椅子に座り直し、ビニールタイを解く。香ばしい、何処かで嗅いだ香りが鼻腔をくすぐった。マフィンの生地に混ぜる茶葉といえば、一般的なのはアールグレイだが、アールグレイはもっと香りが強く、食べなくても香りを嗅ぐだけですぐに分かる。
なんだっけこれ。
先に尋ねようかとオーナーの顔を盗み見たが、オーナーは夕夏が食べるのをじっと待っている。食べるまで答えてくれなさそうだ。
他の紅茶だろうかと思いながら、夕夏は小さくかぶり付いた。
焼きたてだからだろう、表面で焦げたキャラメルがじわっと口に広がる。次の瞬間に柔らかさが口に含むと生地内部にもキャラメルが入っているのが分かる。キャラメル独特の深い苦みと甘い生地が絶妙に混ざるのと同時に、芳醇な茶葉の香りが口に広がった。主張は控えめだが確かに香る。それが生地とキャラメルの風味をより引き立たせている。
この香りは。とおもいつく限りの茶葉を連想している内に、夕夏は答えに辿り着いた。
「もしかして、ほうじ茶?」
「正解だ。一昨年に、きなこほうじ茶をやっただろう? その応用でキャラメルを使ってみたんだが、思いのほか合ってな」
以前のきなこほうじ茶は、きなこソースを作って、今のほうじ茶マフィンの要領で出来上がった一品だ。きなこの香ばしい味がほうじ茶を引き立たせるマフィンだった。しかし、口にした人は美味しかったと言ってくれたが、若年層に受けず、全体の売り上げは芳しくなかった。現状、お蔵入りとなっているメニューだ。
今回はキャラメルを使っていることから、前回より期待できるだろう。キャラメルとほうじ茶。洋と和という組み合わせも、人の好奇心を刺激してくれるかもしれない。
晴れやかな夕夏とは対照的に、諒は顔色に渋みを残して続けた。
「問題は冷めた後だ。キャラメルが香ばしいのは最初だけで、冷めた後は柔らかくなる。だから生地の水分量を調節するか、もうちょっとキャラメルを厚く塗って、ガスバーナーで炙るかなと考えてる」
「でも、冷めても生地にキャラメルが染みて美味しそうですよ。焼きたてなら、〝焼きたて〟とか〝キャラメルがじゅわ〟とか食欲をそそる見出しを付けてケースに出して、それ自体を付加価値にするのもありだと思います」
見出しに頼らず、お客に直接伝えても良いだろう。会話にもなるし、希少価値にもなる。
夕夏の発案に、オーナーが満足そうにうんと頷いた。
「なるほど、それもありだな。じゃ、候補に入れておこう。ほうじ茶と言えば冬だろうな」
来期までにレシピを詰めよう。などと、諒はぶつぶつ呟きながら奥の洗い場に行った。
ならばこのマフィンとは来期の冬まで再会出来ないことになる。何だか贅沢な気分だった。
オーナーと商品開発担当者は、閃いた勢いで自ら数個分の材料を用意し、メニューとなる前のマフィンを適当なスタッフに試食させる。その中にはハズレも勿論あるが、当たりだった時の感動は他の人には話せない。まだ店に出回る前の特別なマフィンを食べられるのだから。
残ったマフィンを何処となく寂しい気持ちで、でも喜びと共に食した。最後の一口を食べながら、ほうじ茶の余韻に浸っていると、目の前に緑茶が置かれた。
「これには日本茶が合う」
湯飲みなんて洒落た物は2号店にはないので、休憩室に設置されている紙カップとティーパックの緑茶だが、それが逆に楽しい。言葉と共にありがたく頂戴し、ゆっくり飲み下す。
「浮気はほとほどにしとけよ」
釘を刺されて、折角の緑茶がへんな所に入り、咳き込んだ。そうだった。夕夏は
「良いんですか?」
「何がだ?」
「いえ、マフィン屋さんが他所のマフィンを食べても」
「そこまでは縛れないだろう……」
「なんか、もっと怒られるかと思ってました」
もっと言えば辞めさせられるのではと危惧していたことだった。
「美味いのか? それ」
「美味しいです!」
強く断言すると、「ふうん」と言いながらオーナーが向かいの席に腰を落ち着ける。
そうして、じっと三個いり百数十円のチョコチップマフィンを見つめている。
「……食べて、みますか?」
「良いのか?」
「3つ入なのでどうぞ」
控えめに差し出したが、オーナーは拒否を見せず受け取る。もぐもぐ咀嚼する間、なんとなく就職の面接を受けた時の気持ちを思い出しながら見守った
「……まあ、美味い」
ほっと胸を撫で下ろす。
「だが、うちのマフィンは世界一だからな」
続けた言葉には、負け惜しみでもなんでもなく、自信に漲っていて、夕夏は少し笑った。
「そうですね」




