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就職してから既に3年だが、後悔はまったくなかった。働きやすい職場に、美味しいマフィン。唯一苦手なオーナーもたまに視察にくるくらいで、基本的に本店にいる。二号店に在籍している夕夏とは顔を合わすことも少ない。二号店はスタッフ間も仲が良く、この上なく恵まれた職場環境だ。
「梓馬」と呼び止める声がして夕夏は振り向いた。
紺のスリーピーススーツに鍛えているのだろう、無駄な贅肉が一切ない体型。足も長く、着ているスーツが映える。顔つきは鋭い目つき以外は整っていて、モテるだろうなと容易に想像がつく風貌。オーナーの浅山涼だ。
一瞬、あの情景が思い浮かび、顔が引きつったが、難なく笑顔を作り出した。
「オーナー。おはようございます。早かったですね」
手にはスーツケースを引いて、慌ただしさが感じ取れる。
「急いで来たからな。スタッフの様子はどうだ?」
夕夏の横に並ぶと腕を組んだ。オーナーの態度に変化はない。
「雰囲気良いですよ。試作のマフィンを持って帰って貰ったら、凄く美味しいって言ってくれてました。何よりメニューが豊富で飽きないって言っています」
「うちのマフィンは世界一だからな」
さらりとそういうことを言うオーナーは本当にそう信じて疑っていない。オーナーらしく、『星のマフィン』への愛情が深い……いや、深すぎる人だ。
「皆、定着してくれたら良いんだが。オープン直後は想像を絶する忙しさだろうからな」
「ショッピングモールですもんね。私もこれまで経験した中で一番の忙しさなんじゃないだろうかと予想してます」
ショッピングモール開業が大型連休の初日ということもあって、『星のマフィン』始まって以来の賑わいになるだろうと予測されていた。
「ああ、俺もいる間はキッチンに入るつもりをしている」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
さすがオーナーだ。ちなみにマネージャーの佑真も店の一通りの作業はこなせる。オーナーの教育方針だ。
「なかなか出来上がっているな。これが六号店か」
六号店を目にして考え深げに呟いた。初めて目にした自分の店の六号店は、こじんまりしているが、どこの店舗よりもおしゃれに仕上がっている。
「あのー……所でオーナー」
「なんだ?」
ギロリと細い瞳が睨みつけたように映る。相変わらず、目つきが悪い。オーナーに対して未だに萎縮してしまうのは変わっていなかった。
「い、いえ何でもありません」
慌てて口を閉ざした。オーナーは不思議そうにしていたが、気にしていないなら、こちらからわざわざ振るような話題でもない。
夕夏はとりあえず何もなかったような振りをした。
そうしてやってきたオープン当日。
開始早々、ショッピングモールは人に溢れかえった。
本店や他の店舗はパン屋のように自分で選んで会計するという形式だったが、モール店は沢山の人々が出入りする空間なので、衛生面を考えてショーケース型になった。ケーキ屋さんのようにお目当ての品を言って頂く形だ。
当初、もしかしたらメニューを選ぶのに時間がかかるかもしれないと危惧していたが、最初の人が時間かかっただけで、それほど時間は取られなかった。というのも行列が即座にでき、お客様は並んでいる間にお目当ての品を決めてしまっているからである。マネージャーの佑真が店の前で呼び込みも兼ねて、メニュー一覧を印刷した広告を配っているのも影響しているだろう。
メニューを受け取った人は、パンでもケーキでもドーナツでもない商品に興味を惹かれている様子で、またそのバラエティーの豊かさと、インパクトのある見た目に吸い寄せられるように列に並んだ。単に並んでいるからという理由で列に加わる人もいる。列は縮んだり増えたりを繰り返しながらも、途切れることはない。作った物が作っただけ売れる状態だ。
今は味を覚えて貰うことが優先なので、どのマフィンも廃棄のことを考えずに全力で作っている。それでも品物はどんどんお買い上げされて行った。品物一つずつとしてもオーブンもレジもスタッフもフル稼働で一日が終わり、行列が少しずつ途切れ始めたのは夜の二十時を過ぎた頃。オープンが朝の十時で、混雑し始めたのが十一時。およそ九時間も列が途絶えなかった計算になる。
忙しさのあまりに延長してくれていたスタッフに感謝を伝え、帰途に着いて貰うと、夕夏も少し休憩に入った。といっても、夕方からのスタッフはまだ初めてで、学生が中心だ。忙しさはマシになったが、お客さんはそれなりに来る。何かあればすぐに駆け付けられるように、店舗裏にある従業員用の通路の壁に背を預けた。
「思っていた以上でしたね」
ペットボトルのお茶を口にしていると、バックヤードに繋がる扉からマネージャーの佑真が顔を見せた。
「本当です。流石に疲れましたね……あ、マネージャー、店舗前でのメニューの配布、ありがとうございました。お陰でレジ前でそれ程お客さんが固まらずに流れてくれていました」
「ああ。最初、並んでいるお客さんが揃ってショーケースを凝視していましたからね。お客さんも混雑を察っして早めに注文を済ませてくれていましたが、それなり時間は取られます。オープンですから当然ですけど、こちらとしてもじっくり吟味してお持ち帰り頂きたいのが本音です。メニューを多め刷っていて良かったです。持って帰って貰えればリピートにも繋げられるでしょうから」
メニュー一覧を持って帰って貰って、次はどれを買うか吟味して、またご来店して頂ける。これぞ一石二鳥だ。
「二人ともお疲れ」
と二人の空間に割って入ったのはオーナーだった。




