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星のマフィン  作者: 嶋村成
1、ほうじ茶とキャラメル
2/3

 小学生の頃から、美点と言えば大人しいくらいの特別目立った存在ではなかった。両親には大切に育てられたと思っているが、過保護な両親は夕夏にあれをしたら駄目だ、これをしたら駄目だと色々口を出すような性格だった。門限は明確に決められ、高校生になっても顕在で、大学生になってやっと深夜零時となったくらいだった。だが夕夏自身も一度としてそれを破ったことはない。反抗期というものも存在しなかったように思う。ただ、比較的自由に過ごしている周りの友達を見て、憧れだけは年を重ねるごとに強くなっていった。大学を卒業したら独り立ちして、自分一人で暮らすのだと決めたことも不自然ではなかったし、その為に就職先は実家から離れた所にした。やっと頂けた給料は少なかったが、一人なんとかやっていこうと決めた矢先だった。会社には馴染めなかった。

 一社、二社と短期間での転職の記録が増えて行く度に絶望的な気持ちになった。増えて行く履歴書の項目は、まるで自分の負の歴史ようで、書くたびに生きているのが辛くなっていった。

 『ほしのマフィン』に出会ったのは、そんな絶望的な気分の時だった。マフィンは聞いたことがある。でも、市販で二つ百円前後で売っている物を一つ数百円出して買うのだろうか。そう思って何気なく店内を覗いてみると、数人のお客さんがいて、朗らかな男性店員が常連らしき年配の女性と楽しそうに話していた。

 二人の笑顔は、客と店員という域を超えた穏やかさがあって、素直に惹きつけられた。

 入口に張り付けられたアルバイトと正社員候補募集の広告をさり気にチェックしながら、自動ドアの前にたった。

「いらっしゃいませ」

 ドアが開くと同時に溢れ出るマフィンの香り。迎え入れる明るい声。アルバイトだろうか、女の子の笑顔は瑞々しくて晴れやかだ。

 店の入り口にはトングが置かれ、小さな敷地内に自分で好きなマフィンを取ってトレーに載せ、お支払いという形式らしい。パン屋さんみたいだった。夕夏は一番メジャーなチョコチップのマフィンと鮮やかな黄色に惹かれてカボチャのマフィンを二つ取り、レジに進む。

 レジにいた女の子は「お預かりします」と断りを入れ、トングで器用にマフィンを掴み、さっとフィルムの中に入れ、袋をくるくるっと器用に回し、ビニールタイで素早く空気を閉じ込めた。二つのマフィンを手提げの紙袋の中に入れ渡してくれた。

 店を出てから改めてその袋を確認する。『ほしのマフィン』。茶色い袋に黒い字でそう書かれている。星のマークは店のイメージなのだろう。夕夏は近くにあったベンチに腰掛け、チョコチップのマフィンを取り出した。ビニールタイを解くと、途端に甘い香りが鼻腔をくすぐった。甘ったるい香りではなくて、バターと小麦の少し上品で温かさがある香り。チョコチップの色味が食欲をそそる。

 美味しそう。

 嫌なことが全て吹き飛んで、空腹に思考が満たされた。

 行儀が悪いかもとは思いながらも、星柄のマフィンカップを軽く持ち、そのままかぶり付いた。最初に感じたのは、深みのある砂糖とバターの深いコク。それからこれでもかと入った多めのチョコチップ。チョコのザクザク食感と甘すぎない生地がマッチしていてとても美味しい。

 幸せを感じた。幸せってこんな小さな場所にも落ちている物なんだと初めてわかった。

 食べ終えてから、ネットで店の名前の検索をかけ、求人情報が出ていないかをもう一度探し、すぐに電話を掛けた。

 理由はとてもミーハーなものだが、どうしてもこの店で働きたいと思った。給料は今と殆ど変わらない、でもお金なんて一人暮らしができるくらいあればそれで良かった。別にキャリアが欲しい訳でもない。自分の肌にあった長く働ける場所が欲しいんだ。勿論、現実は理想とは違う。ほしのマフィンに受かったとしても、続けられるかどうかはやってみないと分からない。思っていたのと違うと悩むこともあるかもしれない。けれど、ここで受けなかったら、辞めたことよりも後悔すると思った。だから志望動機には熱が入ったし、就活していた頃よりも真面目だった。

 当時、既に二店舗を展開していたほしのマフィンだが、面接は本店で行われた。面接官はオーナーの浅山諒一人だ。

 初めて会った時のことは今でも覚えている。体つきは細マッチョという感じだったが、睨みつけるような鋭い目つき、威圧的なオーラ、しかも腕組みまでしていた。緊張は初めからしていたが、向かい入れる態度がまるでないことに夕夏はガチガチになってしまった。

 最初に簡単な計算問題と適性検査があったはずだが、どう乗り越えたか全く覚えておらず、面接が始まっていくつかの質問をクリアしたあたりでようやく緊張は少し収まった。だがその時点で面接の九割は終わってしまっていた。

「いや、堅苦しいことはもういいや。君が礼儀をわきまえている人なのは分かったから。本当に訊きたいのは一つだけだ」

 何を訊かれるのだろう。肝が冷えて目が冷め、不安からごくりと唾を飲み込んだ。

「うちのマフィンは食べたことはある?」

 その質問に夕夏の瞳は輝いた。

「あります! 本当に美味しかったです! 食べた瞬間に控えめな甘さが口の中に広がって幸せを感じました!」

 思わず大きな声を上げてしまった。

 やってしまった。どうしよう、落とされてしまうかも。

 心臓が縮んでいく。顔には出さないようにしていたが、最早泣きそうになっていた。けれど、視線を逸らすことはもっと悪い、とまた正面から見据えようと気を取り直した時、目の前の人が笑い出だした。

 顔を上げると、あれだけしかめっ面だったオーナーがくすくす肩を揺らしていた。

 わ、笑われた……。

 絶望とはこのことか、と打ちひしがれる。

「いや、すまない。梓馬さん、採用します」

 思わず、オーナーの顔を見る。嘘か本当か、とても信じられなかった。合否をその場で言い渡されたことにも茫然した。これまで受けた会社は、後日連絡します、結果不採用、というパターンばかりだった。

 我に返った夕夏は立ち上がり、かぶりを振って頭を下げた。

「ありがとうございます!」

「よろしく」

 そう言ってオーナーが微笑みながら手を差し出した。

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