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星のマフィン  作者: 嶋村成
1、ほうじ茶とキャラメル
1/3

 ビニールタイをほどくと、甘いマフィンの香りがした。できたてのマフィンは、まだ温かくて強いバターの香りがする。それを胸いっぱいに吸い込むと、自然と頬がとろけた。大きく口をあけて、一口分かみちぎると、ふわふわしつつもしっとりさを忘れていない生地が頬をとろけさせる。

 なんて幸せな瞬間だろう。噛み締めながら次のひとくちへと進みかけたところで、手元に置いていたスマホが振動した。画面には新店の店長の名前が表示されていて、夕夏はひとまず口に入っているマフィンをゆっくり飲み込み、電話を取った。

「はい」

「あ、梓馬さん、休憩中に申し訳ありません」

「いえ、全然大丈夫ですよ。どうされました?」

「確認したいのですが、オープンに合わせて他店から助っ人来られるのは、梓馬さんあわせて三名でしたよね? 三名のシフトのポジションどうしたら良いのかなと思いまして」

「三名はどのポジションでも担当できますので、何処に割り振っても大丈夫ですが、手が回ってなさそうなところに自動的に入りますので、基本的にはシフトに組まなくても大丈夫かなと思います」

「なるほど、かしこまりました。ありがとうございます」

「いえいえ」

 電話を切って我に帰る。 まずい、時間を忘れていた。

 焦ってスマホを確認して、まだ休憩時間中であることに胸を撫で下ろす。マフィンを前にすると時間の感覚が鈍くなるのは悪い癖だ。

 夕夏が勤めているのは、小規模ながら各地にチェーン展開しているマフィン専門店、『ほしのマフィン』である。今の新店は本店から二つ県を跨いだ先に、新たにオープンするショッピングモールに出店、オープンは五日後に迫っていた。夕夏がいる休憩室は、そんなショッピングモールのスタッフの為に設けられている共同の休憩室だ。今も服飾関係のお洒落なショップ店員や、飲食、大本となる量販店のスタッフ、など色々な人がささやかな自分の時間を楽しんでいる。間仕切りで仕切られた端のスペースではミーティングも行われている。

 この出店で『ほしのマフィン』は五店舗目。夕夏は新店で雇用されたスタッフに、店の運営に必要な知識を教えるトレーナーとしてに出張している。

 トレーナーとしては二回目の出張で、以前よりはスムーズに伝えられたと思っていた。スタッフ自体のスキルも元々高い人が多く、接客経験のない真っさらな新人と言えば高校生くらいだ。それぞれ能力の差はあるが、慣れれば問題なく回せるだろう。

 夕夏はここのオープン前からオープン後一週間までをサポートをし、少しだけ休みを貰ってから所属している本店に戻る。間違いなく仕事は、これからが本番だ。

 モールの中はもろもろの設置が同時に進められていた。華やかなイメージがあるショッピングモールだが、今はあちらこちらに巨大な脚立が置かれ、廊下は傷や汚れを防止する為のシートで覆われており、煌びやかさはない。

 夕夏が三階の店舗ベースに戻るとスタッフたちが各々に練習を繰り返していた。接客班と調理班に分かれいて、接客班はレジの操作や接客用語の確認とマフィンの包装、調理班はマフィンづくりに取り組んでいる。

 『ほしの』の店舗工事はほぼ完了し、現在はスタッフ教育の段階に入っていた。店長、副店長候補は一ヵ月前から本店で研修を受けていたが、他のスタッフは新人だ。

 副店長がレジ付近で、接客班に説明している所をすり抜け、調理班の下に向う。

「梓馬さん、味見して下さい」

 調理スタッフに差し出されたのは、でき立てほかほかのチョコチップマフィンだ。プレーンの生地にいっぱいのチョコチップが混ぜられている。定番だが一、二を争う人気商品だ。

 トレーに置かれた一口大に切られたマフィンを口に入れる。ふっくら仕上がった生地を噛むと、きび糖の深い香りが広がる。そこにチョコチップが混ざる。ほしのがこだわっているのはこのチョコチップの多さだ。生地を邪魔しない程度の、だが他の店舗でも何度も食べた味だが、こちらも何個でも食べられそうな絶妙な甘さに仕上がっていた。

「うん、とても美味しいです」

「ありがとうございます」

 トレーナーの仕事は、かいつまんで言えば教育係と言った所だ。店長から学生スタッフまで、請け負う仕事は時間帯や配置によって異なるが、それぞれに効率的な仕事のこなし方を伝える。調理スタッフは特に重要だ。

「梓馬さん、見て下さい! 自信作です!」

 次に差し出されたのは、パンダを模したマフィンだ。夕夏に見てもらろうと思っていたのだろう、制作した女性スタッフうきうきとした様子で見せてくれた。

 生地には純ココアを使い、パンダになるように目の黒い部分を残した上で、ココナッツフレークで白化粧。口はチョコレートペン。後は既成のチョコレートを耳として装飾している。

「可愛いですね!」

 自信ありげなスタッフのように、ややニヒルに曲がった口元が可愛らしい。

 子供に受けが良いキャラクターマフィンである。他にもパンダマフィンが六個ほどできあがっていた。可愛い子もいれば、少し口元がずれている子もいる。でもそれはそれで愛嬌があって可愛いかった。

 でき上がった試作のマフィンは、木目のトレーに並べられ、開店さながらショーケースに入れられていた。ショーケースには既に色の異なるマフィンが並ぶ。プレーンから、南瓜、人参、紫芋などの野菜を練り込んだ物。林檎やブルーベリーの果物は勿論、塩系のマフィンでは、ベーコンと玉葱を生地にまぜ、マヨネーズをかけたマフィン、ジャガイモと明太子を合わせた物もある。今は少ないが、『ほしの』は常時、二十種類程のマフィンを用意する。

 マフィンは簡単に言えば、混ぜて焼くだけというシンプルなお菓子だ。一般家庭でも作りやすく、失敗も少ない。商品として成立させるには、どれだけ魅力的な付加価値を付けられるか、この店だけでしか手に入らない商品を打ち出せるかに掛かっている。故に、食材には徹底的に拘り、国産小麦を使用。野菜の一部は地産地消を目指し、店舗ごとに仕入れ先を変えている。メニューもお客を飽きさせないよう、季節ごとに検討し、入れ替えもしている。

 並べられた色とりどりのマフィンを見ているだけでもきっと楽しい気持ちになる筈だ。

 そんな時、統括マネージャー、浅山佑真が疲れた顔をして出勤して来た。顔を見て、夕夏は店舗ベースから外に出る。

「おはようございます。少しは休めました?」

「はい。お陰様で」

 佑真はそうはにかんだが、目元にあるくっきりとした隈はまだ取れていない。

 身長はすらりと高く、優し気な顔立ちをしていて見栄えはするが、身体の厚みが薄く、何処か骨っぽく見える。甘いお菓子を取り扱っている店の統括マネージャーとは思えない体型だ。けれど、仕事量を考えれば無理もないと夕夏は思う。マネージャーは、新店のスタッフミーティングや設備業者との話し合い、設備の搬入の指示もしていて、ここ一ヵ月働きっぱなしだ。少しでも休んで貰う為に、今日の午前中はスタッフ育成で来ている夕夏が代わりに対応していた。と言っても、スタッフ教育以外は販売ベースの簡単なレイアウトだけだった。

「レイアウトの方はどうですか?」

 佑真が夕夏に尋ねた。

「問題ありません。ショーケースに使う、木目のトレーが一部破損していましたが、すぐに対応して頂けるそうです」

「分かりました」

 スタッフが各々の作業に打ち込む中、佑真と共に『ほしの』の店舗を眺める。

「だいぶ仕上がりましたね」

「いやー、毎回本当に感慨深いです。何もない所からここまで変身するんですね」

 夕夏はオープンに立ち会うのは三度目だが、本店から関わっている佑真の感動はひとしおだろう。

 『ほしのマフィン』はその名の通り、星をモチーフにしたデザインで統一されている。と言っても、弾けるような星ではなく、肌色の木目に焼き印で施した温かみのある星だ。ベースの上部に掲げられた店舗名も、木目の板に『ほしのマフィン』と黒の優しい文字で盛り上がっている。決してパッと人の目に留まるような店舗ではない。けれど、しなやかな強さを持った木のように、安心感を覚える何故だろうか。そういう部分も小さいが五店舗まで発展させられた所以なのかもしれない。

 星のデザインはマフィンの乾燥を防ぐフィルムから、持ち帰り用のボックスも同じように統一されており、持っていてもお洒落で人目を惹くと評判も良かった。

「あ、先ほど店長からフィルムの在庫のこと聞きました。今日はギリギリもちそうなんで、明日本店に戻るついでに取って来ます」

 佑真の機転に、夕夏は頭を下げる。

「ありがとうございます。宜しくお願いします」

「後、明日オーナーが見に来るそうです。今朝、連絡がありました」

 夕夏は、オーナーという単語に頭を上げかけた状態で一瞬固まった。今一番、顔を合わせたくない人物だ。

 不思議そうにする佑真に気付き、慌てて顔を上げ「そ、そうですか」と返事をした。

 オーナーが新店舗に顔を出すのは当たり前のことだ。来ると分かっていたし、知ってもいたが、いざ顔を合わせるとなると拒否反応が出てしまったのだ。名前を聞いただけで顕著に反応してしまう自分に、余程堪えているらしいと気付く。

 落ち着け、落ち着け、と呪文のように言い聞かせる。

 あんな場面を目撃されたのだ。もしかしたら、辞めろと言われるかもしれない――

 不安が脳裏を過る。

「何か……あったんですか?」

 夕夏の動揺ぶりを見て、佑真が恐る恐る尋ねた。あったと言えばあったが、他人に話せるようなことでもない。でも答えない訳にもいかない。

「……少し、顔を合わせ辛いのかもしれません」

 これ以上は突っ込まないでくれ。との意思表示に顔を逸らした。

「うーん、詳しくは聞きませんが、何かあったら伝えて下さいね。僕からもオーナーに伝えますので」

 詫びるから、辞めさせないでくれと言ったら伝えてくれるだろうか。淡い期待を込めて佑真を見た。

 この店のマネージャー浅山佑真と、オーナーの浅山諒は実の兄弟だ。

 兄弟と言っても、この二人正反対の兄弟である。何処かおっとりしていて柔らかな印象がある弟と違い、兄の方は常に瞳を細めていて、怒っているのかと勘違いしそうになる男だ。簡単に言えば、人畜無害な弟に対し、敵意剥き出しの兄という所だろう。しかし、諒もその見た目に反して周りの意見には耳を傾けないようなワンマンな人間ではない。良く人の動きを見ているし、観察している。必要な場面では必ず助け、助言をくれる。だから決して嫌いではない。それどころか尊敬している。ただ、出張前にあったある出来事がきっかけで、夕夏が一方的に恐れ慄いているのだ。

 佑真が言えば、流石にオーナーも辞めろなどと言い出さない。勿論、会社が強制的に解雇するのは法律に接触する筈だったので、滅多なことがない限り、辞めさせられないとは思う。だが、冷たい視線を感じながら働くのは嫌だ。辞めたくなくても、プレッシャーに耐え切れず自主退職せざる負えなくなる。

 辞めさせないでくれと、言い出そうかと考えたが、すぐにやめた。これはあくまで自分の問題だ。自分でオーナーと向き合い、自分で解決するのが道理という物だ。とはいえ、狡猾な考えも過り、明確に断るのも止めた。

「ありがとうございます。心強いです」

「いえいえ。梓馬さんがいないと、社員勢に華もありませんしね」

 そう言って、佑真は微笑んだ。

 『ほしの』に勤める社員は夕夏以外、男性で構成されている。甘いマフィンを取り扱う店舗がむさ苦しい男だらけなことに、オーナー以外の社員は嘆いていたらしく、夕夏の入社は諸手を挙げて喜ばれた。夕夏自身も、『ほしの』に入って良かったと思っている。繁忙期は休みはなかなか取れないが、それが気にならないくらいに働きやすいし、居心地も良い。お陰で勤続三年目だ。これまでは職場に馴染めず、一ヵ月や三ヵ月そこらでポンポン仕事を変えていた。それを思えば雲泥の差。今の所、辞めるつもりはさらさらない。

 だから今、オーナーに見限られては困る。

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