お母さんの思い出
「タダシちゃん。あんたは小学生の頃、かけっこが速くてね。いつも運動会で1等だったよ。」
「近所に住んでいたサチコちゃんは、とっても美人で優しくてね。私にもよくしてくれたよ」
母のこのような昔話を聞くのは、何度目だろう。集団就職の思い出やら、頭が良かったから高校に進学したかったとか。
母はインターネットを知らない。知ってはいるだろうが、使えない。定年して仕事をやめてから、TVばかり見ている。たまに、様子を見にくれば同じ話の繰り返しだ。
いつもは聞き流しているのだが、最近の仕事の不調で俺は虫の居所が悪かった。思わず大きな声を出してしまった。
「母ちゃん。いい加減にしてくれよ。何回同じ話をするんだよ。ボケちゃったんじゃないの」
母はビックリした顔をして「ごめんね」と言った。
俺は居心地が悪くなって、母の家を後にした。
母は、別れ際にもう一度「ごめんね」と言った。
あの時、俺はどうして謝れなかったのだろう。
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病院に母の見舞いに行くと、母はスッカリ無口になっていた。認知症が進んだ母は入院をしている。
「母ちゃん」と俺が声をかけると、母ちゃんは「怖い」と言った。
「母ちゃん、俺だよ。タダシだよ」
「怖い。怖い。タダシちゃんはどこなの?怖い人がいるの」
母が何度も何度も語ってくれた家族の思い出はもう聞けない。
いや、違う。
「俺は、タダシだよ。俺は小学生の頃はかけっこが速くてね。いつも運動会は1等だったよ。あの時の母ちゃんの弁当は美味かったな」
母ちゃんは、きょとんとして俺の話を聞いていた。そして、にっこり笑った。
これからは、俺が何度でも何度でも母ちゃんの思い出を話してやるよ。