#4 翠の瞳に、僕を映して
「……近い。近すぎる」
視界の端で、金の髪が揺れていた。
鼻をかすめる甘い匂いと、熱を帯びた肌の気配。
静かに触れるだけで、思考が──溶ける。
密着しては離れる、背中の柔らかい感触。
……死ぬかもしれない。でも今──
どうして僕はエルフのお姉さんの膝に座ってるんだ!?
──たしか、始まりは。あの箱だった。
***
光の中から現れた、真紅のヴェール。
人のようで、人ではない。
金髪で、下着よりも薄い服をまとい、翠の瞳で、僕を見た。
それは──エルフだった。
隣に、もう一人。武装したエルフがいた。
僕を庇い、倒れかかった身体を、受け止めてくれた。
そのエルフが……箱を指さす。
(ああ、そういうことか)
手の甲を口に近づけたのは、命令じゃなかった。呼んでたんだ、アレを。
箱。
小さい。でも、光ってる。……なんか、やだ。
拾った。
僕が拾ったんだ。誰の指図でもない。死にたくなかった、それだけだ。
赤い巨体──動いた? 手を伸ばしてきた?
「来い」って、ことか?
あれが地獄の入り口なら。
せめて、背中は見せたくなかった。
僕は、歩き出した。
拒否する理由も、止まる理由も、もう、なかった。
***
情報兵からの緊急コールを受け、真紅のハイエルフが動く。
操縦者ヘイラ・メイラ。その双眸が、静かに見開かれる。
子供……。
エルフから見れば、人間は皆未熟だ。
だが、それにしても小さい。
栗毛で、痩せている。肌も、荒れていた。
“選ばれた器”。
霊弦霧に導かれた媒介。
そう仮定するしか、説明がつかなかった。
それに──
エルサインの女が、人間を庇った?
この戦場で? そんな奇跡、そうあるものじゃない。
意味が重なる。偶然ではない。
そう思ったとき、通信が割り込んだ。
「隊長、緊急です。こちらを」
ミナラの声は硬い。“姫様”でなく“隊長”。本当に緊急だ。
「霊相眼で視界を共有します」
視界が切り替わる。
1枚の画像が、霊導視録装置から投影される。
──人類製。未確認のハイエルフの頭部。
「……だから妙に守りが堅かったのね」
ヘイラが、低く呟いた。確信ではない、勘に近い。
「隊長、いかがします? 本部に報告を──」
リュラが控えめに言う。
「遅いわね」
間髪入れずに、ヘイラが言った。
「これは勘。だけど、おそらく試作品。ここで見逃せば、次はない」
画面の向こうで、誰もが息を呑んだ。
「リュラ、突入準備を。セリラ、あのエルサインを──霊核共鳴室へ。負傷してるわ、手当ても。ミナラ、侵入経路を案内して」
即断だった。
だが、的確だった。
ヘイラは、もう指揮の中にいた。
──問題は、あの子供。
兵士じゃない。
でも、この国には“異世界より召喚された者”がいると聞く。なら……?
あの機体。あの子供。
繋がっている。
「……念のため、連れていくわ」
一拍置いて、続ける。
「セリラ、その子も。私の方に。責任は……私が取る」
誰も反論しなかった。
「人類の新型 霊環駆動装体──我々の手で奪取する」
***
下着よりも薄い──いや、もうこれは布じゃない。
光沢のある装甲服。肌と布の境界がわからない。
その指先が、ためらいもなく僕を掴んで──引き上げた。
軽かった。自分でもわかるくらいに。
拒めなかった。体が勝手に、動いた。
力強い。けれど、やさしい。
拒絶のない指。拒絶されなかった僕。
……その時だった。
目の前で、大きく揺れた。
柔らかそうな──いや、柔らかい。揺れた。胸が。お姉さんの。
「う、うわっ……!」
目を逸らそうとして、逸らせなかった。
そんな暇もなかった。気づけば僕は、引き込まれていた。
真紅の巨体のなか。
そこは、ほんのりと緑がかった光に満ちていた。
天井も壁もないような、透明な──だけど密閉された空間。
僕は、腰を落とす。
ふわり。
柔らかい。
いや、これは……どう考えても、太ももだ。
エルフのお姉さんの。生まれて初めて、そんな実感があった。
膝じゃない。骨の硬さがない。あたたかい。
なにこれ、柔らか──って、落ち着け!落ち着け僕!
「ど、どうして!? なんで僕、座らされてるの!?」
声が裏返った。けど、お姉さんは何も言わなかった。
ただ、静かに腕をまわして、僕を包んだ。
ぴったりと。
密着した。
匂いがする。甘い。花みたいで、でも少し汗っぽくて。
耳元が、熱い。もう、やだ、これ。
箱。そうだ。箱を開けよう。
気分を変えるように、気まずさを振り払うように箱を開ける。
入っていたのは──巻物のようなものと、小さな金属の塊。
丸みを帯びた楕円形で、先端がうっすら光っている。なんだこれ?
「……え?」
思わず手に取った。
そのときだった。
「リィア=サリ=ナ=アレシュ=エル!(これ私に渡して!)」
お姉さんが、急に叫んだ。
何語? なんて言ったの今?
「……え? ごめん、わからない……」
僕が戸惑っていると、その指先がスッと動いて──
「わっ!」
小さな金属の塊が、あっさり奪われた。
速い。優しい顔して、えげつない反応速度。
怖い。けど……ちょっと、格好いいかもしれない。
お姉さんは慣れた手つきで装置を弄る。
巻物も開いて、なにか確認してる。
一人で納得してる。なんか不安になってきた。
鼻歌まじりに、彼女はしばらく装置をいじっていた。
ご機嫌だ。戦場の中で、なんでそんなに余裕があるのか不思議なくらいに。
パチン。満足そうに頷いた彼女が、装置を僕に差し出した。
その指が、耳を指して──
(ここに、つけろってこと?)
僕がおそるおそる装着すると──
「聞こえる? こんなもの、簡単よ」
──どういう……。
「翻訳。霊導式の。言語の違いなんて、データ変換すれば済む話よ。……理屈? 説明しても、あなたには無理」
はあッ!?
言ってないのに答えてきた!?
なにそれ! 頭の中、覗いたのか!?
それに──なんだ、その顔。
鼻で笑うな!
ちょっと得意そうな顔しないでよ……!
「あなたは──私と来てもらうわ」
……どういう、こと?
「君は、たぶん、要るのよ。わかる? 私にもまだわかってないの」
別の声。冷たいくらいに冷静だった。
「でも、だからこそ──君に拒否は、させない」
やさしく、でも有無を言わせない。
包み込むようで、突き放すような──そんな声だった。
「なんなんだよ……なんなんだよこれ、僕だけ、僕だけ!」
「死にかけて、知らないとこに飛ばされて……!」
「それで、今度は、お姉さんの膝で!? 勝手に翻訳されて、勝手に決められて……!」
「いい加減にしてくれよ!僕の頭の上で! 頭の中まで!」
誰が悪いとか、そんなのじゃないのに。
わかってるのに──でも、でも。
もう、ぶつけるしかなかった。
「だいたい僕には!君やあなたなんかじゃなく名前が……」
──名前?
「……っ、あれ? なんで……出てこない……?」
口の中で音を探す。けど、何も浮かばない。
音がない。形がない。
最初から──なかったのかもしれない。
「思い出せないんじゃない。思ったこともない。
……僕、自分の名前を──知らないんだ……」
お姉さんが、息を呑んだ気がした。
「ねえ……あなた……」
静かに、でも確かに腕が回ってきた。
「……えっ?」
ぐいっと、引き寄せられる。
抱きしめられる。あたたかい。やわらかい。
「いい子ね。よく、ここまで来たわ」
頭が撫でられた。
撫でられるたびに、なにもかもが流れていく気がした。
撫でていた手が、ふいに止まった。
耳の近くで、あの声がささやく。
「……あなたに名前がないのなら。私が、与えてあげる」
緑色の光が、かすかにゆれていた。
空気が、静かに、音もなく震える。
「──ミルネ。ミルネ・リヴィ」
言葉だった。けれど、呪文のようにも聞こえた。
ひとつひとつが風みたいで、ぬくもりがあって、
聞いたことのない響きなのに、なぜか胸の奥が――騒いだ。
「……ミルネ……?」
思わず、口に出してた。反射みたいに。
笑ってた。あのお姉さんが。
ほんの一瞬、目の奥に光が差した気がして、
僕はその顔を忘れたくないと思った。強く。
「そう。意味は、"霧の彼方に射す微光"――私の故郷の言葉よ」
そんな意味なんて、僕にはまだよくわからないけど。
でもその時、確かに思ったんだ。
“この名前で、生きてみたい”って。
そんな時間が、しばらく続いた。
静かな、温かい沈黙。
でも、長くは続かない。
「泣き止みましたか?」
ふいに、別の声が落ちてきた。
少しだけ呆れてるような、でも、やわらかい。
声が全体に響いてるようだ。
「リュラ・フィラです。よろしく」
さらりと名乗られた。
僕は反応できなかった。さっきまで泣いてたのがバレてた。
バレバレだった。
「……よろしく……おねがいします……」
情けない声が出た。
リュラって人は、少しだけ、笑った気がした。
でも、笑われた気はしなかった。
「リュラの声、優しく聞こえるでしょう? あの子、さっきまで大暴れしてたの」
お姉さんからさらっと放たれたその言葉に、僕の心臓が跳ねた。
「そ!それは! セレスが負傷して、仕方なく!」
声の主があわてて否定する。……いや、否定じゃない、言い訳だ。
「ふーん?」
お姉さんの声が、ほんの少し楽しそうだった。
「そんなことより──」
不意に、別の声が割り込んだ。少し低くて、冷静で。
「いい加減、名乗ってあげたらどうですか?」
ツッコミが入る。
「──ヘイラ・メイラ。そういえば、名乗ってなかったわね」
お姉さんが僕を抱きしめる腕に、ぐっと力をこめた。
苦しい。あたたかい。でも苦しい。
そんな状況を、冷静な声は気にも留めず。
「セリラ・ヴェラです。……さっき、エルサインの子を助けてくれて、ありがとうね」
きっちりと、でも、優しさをにじませて名乗った。
「あ……ど、どうも……」
また、情けない声が出た。
セリラさんは、一度だけ、軽くうなずいた。
「では──、ヘイラ隊、移動開始!」
まるで何事もなかったかのように、ヘイラさんはそう言って、すぐに指示を飛ばした。
淡々と。でも、迷いはなかった。
僕たちは、工場区画へ向かう。
──あの場所へ。
そう。僕が、
“彼”と行くはずだった場所。
もう、いない“彼”と。
飲み物を渡されたまま、お礼も言えず、名前も知らないまま、
あっさりと、瓦礫の下に消えた。
……あんなの、ないよ。
***
揺れてる。
……胸が、じゃない。いや、胸もだけど。
霊核共鳴室──つまり、コクピット。
ほのかに緑がかった光に満ちた、やわらかい空間。
でも、外の景色は見えなかった。
そして、膝。
そう、膝の上にいた。さっきまで。
いや、今も厳密には、そこにいる。ちょっとズレたけど。
気まずさに負けて、少しだけ体を動かしたのがまずかった。
ズレた先で──柔らかい感触が、もっとダイレクトになった。
あ、やばい。
これはやばい。思考がバグる。脳が溶ける。
「……おとなしくしてなさい」
耳元に、お姉さんの声。
囁くように、命令のように。優しいのに、逆らえない。
おとなしくするしかなかった。
その時──衝撃。
「うわっ!」
不意の揺れに、姿勢を崩す。
踏ん張れなかった。どこにもつかまれなかった。
そして──僕の顔を受け止めたのは、
……やわらかかった。
温かくて、沈んで、弾力があって。
感触だけで理解した。
あ、これ、胸だ。
「っ……!!」
慌てて離れようとして、でも動けない。
距離感も、タイミングも、なにもかも崩壊してる。
「……気をつけて」
静かに、でもしっかり言われた。
怒ってはいない。でも笑ってもいない。
むしろ──困ってた。
ちょっとだけ、恥ずかしそうに。
その顔に、思わず見とれてしまう。
そして──目が合った。
翠の瞳。静かで、深くて。
僕をまっすぐ、見ていた。
逃げられなかった。
目を逸らせなかった。
「あっ……」
ヘイラさんが、ふいに気づいたように眉を上げる。
周囲が少し明るくなった。
見えなかった外の光景が、静かに、浮かび上がる。
「ごめんなさい! 気づかなかったわ。外、見たかったのね。これで見えるようになったから」
しゃべりながら、手元でなにかを操作していたらしい。
霊核共鳴室の視界が、ぱっと開けた。
「大丈夫。あなたの見てる方向しか表示されないから、邪魔にはならないわ!」
妙に早口だった。慌ててる? いや、ちょっと照れてる……?
映像の端。
通信用の画面に分けられたそこに映る──エルフたち。
「…………」
全員が、こっちを見ていた。
そして──
「はぁぁ~~……」
ため息。全員分。ユニゾン。見事に揃ってた。
「え、ちょ、ちょっと!? 見てたの!?」
「ええ、しっかり。セリラが中継してたから」
「してません! 隊長が自分で全開放してただけです!」
「どのみち、この機体の霊相眼、共鳴モードでバリバリ共有されてますけど」
「黙りなさいミナラ!」
「はーい」
……どこから突っ込めばいいかわからなかった。
「ご……ごめんなさい……」
とりあえず謝っておいた。なんかもう、それしかなかった。
次回予告 影鎧、目覚める
記録装置に残された、幻のハイエルフ。
命を繋ぐ霊核と、未だ動かぬ影。
交わされた言葉が、少年に名を与える。
そして今――その名が、機体に刻まれる時が来た。
次回――
聖弦のレクイエム 〜異世界転生したら記憶喪失のショタになって エルフのお姉ちゃんに誘拐されて心中する話〜
「影鎧、目覚める」
動力、起動。霊弦、共鳴。
戦いは、ここから始まる。