#3 邂逅の城塞
翠嶺城/司令室
オペレーターの手元のランプが赤く点滅し、警報音が指令室に鳴り響いた。
「H-HEオゥク・モデル影鋼、全機沈黙! 第6格納区画より報告です!」
「……早すぎる。あれでも精鋭のはずだったんだぞ……」
司令席の男が呻くように呟いた。震える指先で煙草の火が揺れる。
「オゥガ・モデルは!? 起動はまだか!」
「現在調整中。制御系の最適化が完了しておらず……実戦は困難です!」
「くそ……まだ数も揃っていないってのに……!」
一拍の沈黙。
司令の目が鋭く光る。
「撃破された影鋼の霊嚢――どうなってる!」
「二つは自動射出済みですが……一つは、未確認です!」
「貴重なリソースを……むざむざ!!」
タバコを握り潰すように机へ叩きつけ、吠える。
「回収は!?」
「無理です! まだ敵のハイエルフが――」
「だったらオゥガ・モデルを急がせろ! 異世界人もだ……!」
思わず机を叩きそうになる手を、ぐっと握る。
「……遊びで召喚したわけじゃないでしょうが!」
「異世界人三名、現在準備中。
工業区画へ向かわせていますが……」
監視カメラが城内を走る2人を映し出す。
「エルフの狙いは――捕虜の奪還、か。……いや、まさか“アレ”の存在まで知られてるってのか……? それは――」
***
――人は、過ちを繰り返す。
あれは、誰かの罪。
あれは、誰かの祈り。
あれは、誰かに課された、罰だった。
すべては、ただ一つの“選択”から始まった。
――霊環歴248。 科学の灯が絶えて、五百年。
人類は、かつての大戦――《赤い冬》により理を捨て、 新たな力“霊弦霧”に縋る魔法文明へと変貌を遂げた。
魔法のようでいて、科学ではない。 理に抗い、奇跡に縋った結果が、今の世界だ。
世界は三つに分かれ、互いに覇を競い、 均衡の名のもとに、殺し合いを続けていた。
世界樹――人類が発見した古代の遺産。 だがその聖域には、先住者がいた。
エルフ。 人ならざる存在。
人類は対話ではなく、争いを選んだ。 そして、後悔した。
エルフが応えたのは、祈りではなく、兵器だった。
――霊環駆動装体。
数の優位など、何の意味もなかった。
戦局は膠着し、泥濘の中で腐り続けた。
残されたのは、止まぬ銃声と、 それでも戦うしかないという“理由”だけ。
そして―― あの少年と、あの少女が出会う。
運命は、静かに回り始めた。
誰も望まなかった戦いが、 またひとつ、始まろうとしている。
……それでも、誰かは、抗わずにはいられなかった。
***
司令室にオゥク・モデル全滅の報告が届く少し前。
「敵襲だァッ!敵襲!テイマーは配置につけ!繰り返す、敵襲だとッ!」
耳障りな警報が、天井のスピーカーからがなり立てている。
揺れる床。どこかで爆発。火薬と金属の臭いが鼻を突く。
――手を引かれ、走っていた。どこへ?誰に言われたわけでもない。
だが、脚は勝手に動いていた。行き先なんて、知らない。
「ノイズが、でかすぎる……無線、入らないじゃないかっ!」
「当たり前でしょ!あっちのハイエルフ、あの装甲、アレが霊弦霧撒いてるんですよ!
そりゃこっちだって、霊弦霧使って通信してんですから、こうもなります!」
霊弦霧? いや、そんなものに――
否、今は思考している場合じゃない。
横を駆け抜ける廊下。半開きのドア。中から怒声が漏れてきた。
「こっちの波長が食われてるってのに、連絡よこせってのかよ……!」
「こっち!」
引かれる。男の子の手だ。強い。戸惑う間もなく、廊下の角を――無理矢理に曲がった。
足が――足が追いつかない。
曲がれない。間に合わない。
視界が傾く。床が来る。落ちる。滑った。わかった、これは――
転ぶ。ぶつかる。痛い、はずだった。
でも、違う。
柔らかい。
受け止められてる。腕、まわされてる。
この腕――この匂い……甘い。
鼻の奥がざらついた。
男の子? 本当に?
目が合う。まっすぐに、心配そうに見てくるその瞳。
「大丈夫?」
――声が、優しい。けど、強い。
「あ、ありがとう……」
言えた。けど、喉がひりつく。
乾いてる。息が詰まる。
どうして――こんなに緊張してるんだ、僕。
「ここからは、歩けるよ」
男の子が言った。やさしい笑み。けど、どこか――さびしそうで。
手を引いたまま、階段の先を示す。
僕は、ただ頷くしかなかった。
「――異世界人、勇者、英雄……言葉ばっかり並べてさ」
ぽつりと、彼がこぼした。
「要は、自分の子供を戦場に出したくない。そういうこと、なんだよね」
それが、この世界の現実。
遠くの誰かを、血の代わりにするってだけの。
無茶苦茶だ――!
叫びたくなる。でも、叫んだところで何も変わらない。
わかってる。だから、ただ、黙って――階段を下りた。
靴音が、無意味に響く。
「僕は、テオ。テオ・結城」
男の子が振り向いて言った。
非常灯が彼を照らす。
浅黒い肌に、黒いけど、どこか青い髪。
はっきりとした輪郭。どこか、作り物みたいに整っていて――
人間じゃない、って言われても、信じるかもしれない。
「ユウキ……?」
問い返すつもりじゃなかった。
でも、自然に口から出てた。
「そう。僕が覚えてる言葉を、組み合わせただけだけどね」
そう言って、テオは、ちょっとだけ笑った。
悲しいのか、諦めてるのか、なんでもないのか――。
わからなかった。
……わからないのは、自分も同じだった。
僕は――。
どんな顔をすれば、いいんだろう?
でも、ついていきたい。
この子の隣に――それだけは、確かだった。
テオは、音もなく階段を下りていく。
その背中は、なぜか“知っている”ようで、安心できた。
僕は言葉を探した。
でも、出てこなかった。
「君の名前は?」
優しく微笑むテオ。
「うん。僕は――」
こたえようとしたけれど、それより早く――
「結城くーん! おーい、そっちじゃないってば!」
階段の上から、のんきな声が飛んできた。
顔を上げると、派手な上着を羽織った男が、こちらに手を振っていた。
僕たちと同じ“異世界人”らしい、薄い繋服を着ている。
「君の担当、向こうだったって。まだ全部、整ってないんだってさ。しばらく待機、って」
……“担当”?
“整ってない”?
まるで、物扱いじゃないか。
胸が、ざらついた。
一気に現実に引き戻される。
気づけば、テオは階段の途中で立ち止まっていた。
その背中から、さっきまでのあたたかさが消えていた。
「……そういうこと、らしい」
それだけを言って、テオは僕の手をそっと離した。
その指先が、やけに冷たく感じた。
たぶん――僕の心が勝手に、ぬるくなっていたせいだ。
「また、会える?」
そう聞いたのは、僕のほうだった。
テオは少しだけ目を細めて、僕を見た。
「世界が、まだ残っていればね」
そう言って、僕の頭をぽんと軽く撫でて。
手を振りながら、階段を上っていった。
「お前は――俺と同じ組だよ」
男が、わずかに鼻で笑うような声を出した。
その顎で、僕の背後を無造作にしゃくる。
嫌な感じだ。
男とともに一階へ降りたその時、玄関脇の曇ったガラスに、自分の姿がぼんやりと映っているのが見える。
背が、低い。顔つきも頼りない。
――でも、なんだろう。自分じゃない気がした。
戸惑いながらも、男の後を追って外へ出る。
その瞬間、地響き。
目の前を、巨大な“何か”の脚が、三人分くらいの高さで横切った。
「な……に、あれ……!?」
「さあな。俺だって呼び出されたばかりだ」
金属の塊とも木の根ともつかない“何か”を、男は当然のようにまたいだ。
浮かぶように動き出すそれを、僕は……“乗り物”と呼んでいいのか、わからなかった。
「乗れ。後ろ、空いてるだろ」
そう言って、振り返りもせずに跨がる男。
僕は――しがみつくしか、なかった。
「飲むか?」
後ろ手に差し出された、金属のボトル。
「ど、どうも……」
警戒しつつも、断る理由は見つからなかった。
手に取り、蓋を回す。口をつける。
――水。冷たくは、ない。でも、喉にしみた。
「俺の分、残しておけよ?」
ぼやく声。苦笑してる。けれど、どこか刺がある。
「……まったく、あの女。ちょっと記憶が多いだけで、威張りやがってさ」
「女?」
思わず、聞き返していた。
「そ。気づかなかったか?」
男が肩越しに、片眉だけを動かす。
なんだそれ。挑発か? いや、呆れてるだけか。
「無理もねぇな。俺も最初、わからなかったし」
足元で、鉄の塊のような乗り物が、小さく軋んだ。
動いているのか、揺れているのか、それすら判然としない。
「異世界――“ニホン”とか言うとこの記憶を持ってるらしい。ユウキ、って言ってただろ? あれ、名字だとよ。“カンジ”って文字で書くらしいぜ。こっちと同じでな」
顎で示された標識が、視界に入る。
――《緊急火災設備》。
なぜか、読めた。
当たり前みたいに、意味が浮かんだ。
「……読めるだろ? なら、そういうこった。俺も、お前も」
男が笑った気配。振り返らない。けれど、空気がそう言ってた。
「……で、お前はどこまで覚えてんだ?」
男が、不意に言った。 目は前を向いたまま、笑ってすらいない。
「……ああ、悪い。魔力値が低いんだったな。すまんすまん、つい」
ぜんぜん悪びれてない。
むしろ、愉快がってるようにすら見えた。
「教育だって、まともに受けちゃいねえんだろ? ま、文字が読めて、口が回るだけでも上等だわな」
笑って言った。冗談みたいな口ぶりだったけど、刺はあった。わかる。こっちに向けてるんじゃない。
でも、僕の胸のどこかがチクッとした。
――「君たちは、異世界からの召喚者である──」
頭の中で、あの声が響いた。どこかで聞いた、女の人の声。静かで、淡々としていて、それでいて、ぜんぶを決めつけてくるような声。
……教育。
確かに、そんなもの、受けた記憶はない。でも、言葉はわかる。文字も読める。
“なぜか”、なんてもう思わない。 だって、それが「そういうもの」だって、言われたから。
記憶がなくても、話せる。書ける。意味はわかる。……それで、十分なんだと。
――でも、それって、本当に“教育”されたことになるのか?
その時――
高音。鋭い。
金属を裂く、甲高い悲鳴。
遠い。けど、真っ直ぐに突き刺さる。
何かが、来た。いや――来てしまった。
次の瞬間。
衝撃。突き上げ。
機体が、傾ぐ。いや、跳ねた。
浮く。地面が、なくなる。
背中にすがる。男の身体。
でも――間に合わない。
吹き飛ぶ。
痛い。どこが? わからない。
床か、壁か、何かに叩きつけられた。
目が開かない。
音も、消えていく。
意識が――遠ざかる。
***
翠嶺城/工業区画
翡翠色の装甲が、静かに、確実に閉じていく。
「敵影、なし。クルガと精霊照応装置も無反応。……はいはい、あのじゃじゃ姫様、今日も元気に正面突破、と」
ぼやき半分、確認半分。
非殺傷出力に調整した《クルガ=リネア》は、今やほぼ索敵専門。
「“前に出たい病”って、ほんと治らないのよね……ま、目立ってくれてるぶん、こっちとしては助かるけど。バレたら即終了だけどさ」
真紅が花火を上げてるあいだに、翡翠は裏口からスッと滑り込む。
毎度おなじみの役どころ。もう台本はいらない。
「ま、こういう仕事はこの【セレス=ティリカ】の得意技だけどさ」
短く息をつくと、兵員輸送箱に指示を送る。
「向こうが派手にパッカーンなら、こっちもやるしかないでしょ! 展開、展開っ!捕虜は見つけしだい即解放、回収は例の箱で!手ェ抜かないでよ、こっちは静かに急いでんだから!」
ミナラの号令に応じ、兵員輸送箱の側面が静かに展開する。
中から現れたのは、フェルリア――霊導布と呼ばれる、下着かと見紛うほどに薄い装甲服をまとったエルフたち。
透明感すら感じさせる布の下、肌の色や体温まで透けて見えそうなその姿は、どこか神秘的で、そして少し不穏でもあった。
彼女たちは、腕部に霊導式撃針を装着している。
銃のように見えて銃ではない、圧縮された霊弦霧を高速射出する霊弦兵装。
頭部には霊導思念装具を装着。
ヘッドギアともヘルメットとも違う、有機的な輪郭のその装置は、意識のリンクと情報共有のためのもの。
光沢のない金属色が、まるで装飾品のように彼女たちの額を飾っていた。
無言で、正確に散開する姿は、もはや舞うようでもあり、機械仕掛けの精霊のようでもあった
軽やかな動きで、建物の屋根へと跳躍していくエルフたち。
靴底には霊導力による減衰層が仕込まれており、着地音ひとつ立てることなく滑るように進む。
そのうちの三名が、工業区画の一角にある倉庫と思しき建物へと視線を向けた。外見こそ質素な資材庫だが、空調設備の構造があまりに過剰だった。
敵の熱源を避けるため、通風口から外部へ逃がされた霊弦霧の余剰反応を察知したのだ。
一人が手信号を出すと、残る二人が即座に展開する。
一拍後、排気ダクトの継ぎ目を霊導式撃針で撃ち抜き、鋭い裂け目を生じさせた。
無音のまま、そこから内部へと滑り込む。
空気の温度がわずかに変わった。湿気。汗。呼気。
間違いなく、生体反応があった。
その刹那、先頭の一人が腕を上げ、停止の合図を出す。
目標はすぐそこにいた。
捕虜の無事を確認。
部隊章を示し彼女達を安心させると、兵員輸送箱を誘導。
さらに探索を続ける。
そして――見つけた。
それは、箱とも、棺とも言い難い何かだった。異様に大きく、周囲の雰囲気とまるで馴染まない。
敵影なしを確認。最前のエルフがそっとその“物体”に登る。 ――姿を現した“それ”に、彼女の目が大きく見開かれた。
狼狽はない。訓練通り、霊導視録装置を展開。 人類のカメラ技術を逆解析して作られた装置が、“それ”を寸分違わず記録していく。
捕虜を輸送箱に回収し終えた隊員には即座に命令が下される。
「セレスのもとへ急行。全速で」
そして、翡翠色のハイエルフ――セレス=ティリカへの通信が入る。 内容は――まだ、誰にも、わからなかった。
兵員輸送箱の底部に設けられた浮力滑床が、微弱な霊弦霧場を発生させる。
箱はわずかに浮き上がり、音もなく滑るように移動を始めた。
目指すのは、セレスの元――翡翠の影が潜む、あの裏口のさらに奥。
到着と同時に、一人の兵士が霊導視録装置を起動。 すぐさま、先ほど撮影した映像データをセレスへと転送する。
異音ひとつ立てず、任務は着実に遂行されていた。
「捕虜の回収、ご苦労さま。カメラに写真……ほんと、人間って妙なもの作るのね。ま、それをこっちで作り直して“霊導視録装置”にした私たちのほうが、ずっと優秀だけどっ!」
通信を受け取った翡翠色の機体――セレスが、軽く鼻を鳴らす。
だが次の瞬間、画像を確認したその目がかすかに揺れた。
四角錐の頭部。その鋭角の先、口元にあたる部分を、そっと片手で覆う。
ため息か、それとも言葉を呑んだのか。
静かに、その場の霊弦霧が揺れた。
「……これは、隊長に報告しなくちゃ」
静かに呟くと、翡翠色の機体は頭部をわずかに傾ける。
その眼――霊導視界の奥で、微細に霊弦霧が揺れた。
真紅の指揮官機へ、緊急通信のチャネルを開く。
封じられた何かが、いままさに、再び表に出ようとしていた。
翠の影が動くとき、赤き炎もまた――揺らぎ始める。
***
銃声が鳴り響く。
耳の奥が震える。痛い。
でも、音は現実だ――夢じゃない。
目を開けた。霞んでる。いや、焦点が合ってない。
頭が……割れそうに重い。
あちこちが痛む。何かにぶつかった。いや、吹き飛ばされたんだった。
思い出す。乗ってた。どこかへ向かってた。誰かと一緒に――。
男、あの男はどこだ?
目の焦点が合うようになり、
ふらつく意識の中ゆっくりと首を右へ傾ける。
足だった。足と胴体。
その先は――瓦礫に潰されていた。
瓦礫からはみ出た服から一緒にいた男だとわかった。
鉄と糞尿の匂いに気づき、こみ上げてくる物を必死で押さえ込む。
死んだ、簡単に、こんなにも。
まだ、名前も、飲み物のお礼も言えてないのに……。
悲しみより先に、胸を支配したのは――恐怖だった。
僕も、ああなるんだろうか? 無様に、無言で、潰されて。
遅れて、体が震えだす。歯が鳴る。息が浅くなる。
――銃声。近い。さっきより、ずっと。
連射じゃない。単発。狙いを定めず、撃ってる。警告射撃?
……なんで、そんな言葉が出てくるんだ。
なぜかわかる。なぜかわかってしまう。
わけもわからず、僕の脳が“それ”を整理し始めていた。
チュン!
乾いた金属音。
何かが首元を掠めた。
跳弾――そうだとわかった。
でも、体は動かなかった。硬直したまま。
「こっちはどうか?」
男の声。低い。怒ってるわけじゃない。けど、切迫していた。
「ダメのようです。完全に潰れています」
別の声が応える。若い。落ち着いているようで、焦っている。
「もう一人は!」
「……生きてます!」
僕のことだ。誰かが、僕を見ている。
「おい! 生きてるか! 聞こえるか!」
呼ばれる。
必死な声が、どこか遠くから響く。
でもそれは、すぐそばかもしれない。距離感が掴めない。
頭の中で、何かが回り始める。
「その服、異世界人だろ!」
一人が叫んだ。興奮か、警戒か。息が荒い。
「さっきのガキ! 生きててくれたか!」
もう一人の声――
聞き覚えがある。
この声、どこかで……
目をやる。
そこにいたのは、眉を寄せた大男だった。
思い出す。
さっき、タオルをくれた人だ。
あのときは、ただの通りすがりだと思ってた。
でも今は――この声が、やけに心強く感じた。
「異世界人なら――これがいるだろ!」
男が、金属の箱を僕に差し出した。
けれど、うまく起き上がれない。 体が言うことを聞かない。
「ちょっと待ってろ、いま……!」
もう一人が僕の身体を支えようと――その瞬間だった。
チュンッ!
乾いた銃声。耳を裂く金属音。
――男が、崩れ落ちた。
箱を抱えたまま、ゆっくりと倒れる。額。血が、流れていた。
息を呑む。声が出ない。 鼓動が、どこか遠くで鳴っているように響いた。
音のしたほうへ、目をやる。
そこにいたのは――
身体の線を強調する、異様に薄い服をまとった人影。
腕に、金属の塊のようなものを装着していた。 それを、まっすぐにこちらへ向けている。
「くそっ、エルフが――!」
怒声。銃口が向けられる。 次は、僕――?
そう思うよりも早く、
もう一人の男が、先に引き金を引いた。
パン、パン、パンッ!
乾いた連射音が、空気を裂く。
細い身体に、次々と穴が穿たれる。
薄布のような装甲服が裂け、血が噴き出す。
人影が、音もなく崩れ落ちた。
物陰から、もう一人が姿を現す。
さっきと同じ、血に染まった装甲服――。
銃声が交錯する。
男の胸に、穴。
ひとつ。それだけで、すべてが止まった。
男は、倒れた。動かない。
……怖い。はずなのに。
僕の感情は、なぜか――何も、動かなかった。
肩を押さえる装甲服の人物が、ゆっくりと蹲った。
さっきの銃撃――あれで負傷したのかもしれない。
僕は、ふらつきながら身を起こす。
手足はまだ痺れていたけれど、這うようにして近づいた。
「ねぇ、大丈夫?」
口から出た声が、震えていた。
でも、それは恐怖じゃない。たぶん……心配だったんだ。
この状況で、なぜかは自分でもわからなかったけれど。
顔が、上がる。
目が合った――驚いたように、彼女は目を見開いていた。
フェイスガード越しに覗く、端正な顔立ち。
――けれどどこか、現実離れした美しさがあった。
その額を包む装置は、たしかにヘルメットのようでもあったが、有機的な造形をしていた。
光沢のない金属が、アッシュグレーの髪と肌のあいだに滑らかに溶け込み、まるで“彼女の一部”のように見えた。
そして――そこから、のぞいていたのは。
……耳?
長い。人のものじゃない。
その曲線が、彼女が“こちらの人間じゃない”と告げていた。
彼女は、左手の甲をゆっくりと口元へ持ち上げた。
まるで、祈るような、あるいは――命令するような仕草。
何事か、短くつぶやいた。
言葉じゃなかった。音のような、響きのような、けれど意味を感じさせるなにか。
中指の関節に、ひときわ目を引くものがあった。
光に照らされ、それは一瞬だけ、淡く――鋭く、輝いた。
指輪。いや、違う。
ただの装飾とは違う、なにかが込められたそれは、まるで……装置のようで。
「こっちだ!」
「向こうは殲滅したんじゃないのか!?」
「――あのオゥク・モデルが全滅だよ! 全滅! こっちに人員、割けないってさ!」
怒号がコンクリの通路に反響し、重い足音が迫ってくる。鉄靴の響きが、床をたたいてる。早い。多い。逃げ場なんて、ない。
僕は思わず身を縮めた。けれど……聞こえてきた声に、覚えがある。さっきの――タオルの人と同じ繋服だ。味方、のはずなのに――
「異世界人だ! 死んでるんじゃないのか!?」
「大尉……?くそっ……あぁ……二人とも……」
「エルフだ! 横にいるのも仲間か!?」
――違う、違うよ。
でも、言葉は出ない。喉が凍りついて動かない。
遠くで、誰かが銃を構えているのが見える。 僕に? それとも彼女に?
勘違いしてる。たぶん、全部。
でも、その引き金が引かれたら――
僕は……殺される?
その時だった。
――高音。
耳に刺さるような鋭い音が、また鳴った。
さっきよりも……少し低い? でも確かに、同じ“何か”の気配。
反射的に顔を上げた、その瞬間だった。
目の前の――あの指輪の彼女が、素早く僕に覆いかぶさる。
細い身体とは思えない力で、僕の胸を押し、地面に倒した。
瞬間――彼女の目が、こちらに向けて、ふっと細められる。
安心させるように。静かに、「大丈夫」と言っているように。
視界が、空と、彼女の髪で埋まる。
頬をかすめる匂いは、鉄とも花ともつかない。
そのまま、耳を両手で包み込まれる。
――爆発音。
世界が震えた。地面が跳ねる。けれど、音は……遮断されていた。
10秒ほどだっただろうか。
やがて彼女がそっと僕から身を離し、気遣うように僕の身体を支え、ゆっくりと起こしてくれる。
辺りを見渡すと、男たちが倒れていた。
あの怒鳴っていた人たち――さっきまで銃を構えていた彼らが、地面に横たわっている。
……死んではいない。
胸が上下している。意識を失っただけのようだった。
それに、血の匂いもしない。
代わりに、焦げた空気と、金属の匂いだけが漂っていた。
――そして、振動。
足元から伝わってくる、小刻みな震え。
それは一つではなかった。いくつも。ばらばらに、けれど確かに、近づいてきている。
――何かが、来る。
――音が、止まる。
そして、見えた。
目の前に、赤い“なにか”が立っていた。
見上げる。
それは、巨大だった。
巨人。
僕には、そうとしか思えなかった。
騎士と呼ぶには、恐ろしすぎた。
悪魔と呼ぶには、あまりにも、美しかった。
赤い装甲が、光を弾く。
四肢は人型で、だが人間とは似ても似つかない。
どこか、神話の像のように整っていて、完璧で、容赦がなかった。
――そんな“巨大”が、三つ。
静かに、こちらを見下ろしていた。
モスグリーンの巨体が、左右に一体ずつ。
それぞれが、ゆっくりと周囲を見渡す。
しばらくして――二体は、赤い巨体に向かって、何かしらの合図を送った。
声ではない。けれど確かに、意思のやりとりがあった。
赤い巨体は、わずかに頷く。
そして――
その巨体が、僕の前に、跪いた。
僕は、跪いた赤い巨体を見上げながら――ふと、寒気を覚えた。
おそろしさ、だけじゃない。
体の奥底に、冷たいものが触れたような……そんな感覚だった。
本当に、ほんの少しだけ。でも、それは確かに「寒さ」だった。
その寒さの“根源”が、僕を見ていた。
前方に尖った、四角錐のような頭部。
赤い、透明な装甲で覆われている。
だけどその奥は、何も見えない。
景色だけが、薄く反射している。
まるで、自分自身を隠しているかのように。
そして巨体は、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
同じく四角錐にせり出した胸部装甲が、ギィ……と音を立てて前方へ滑る。
装甲がせり出し、下へとスライドしていく。
やがて、胸の天面が傾き――
それは、小さな“足場”となって、僕の前に現れた。
巨人の、胸の奥。
せり出した装甲の向こうに見えたのは――
深く、静かな“暗闇”だった。
光のない、色すら感じない空間。
まるで、飲み込むために口を開けた、巨大な生き物のようで。
「セリ!セリル=リ?(あなた!聞こえてる?)セリ=セリル、リィ=レイ=リ?(この声、聞こえてる?)エルファ=ノア=サリ=セリ=リ?(大丈夫?)」
意味は、わからない。
でも、声の響きには――不思議と、怒気も、威圧もなかった。
むしろ……優しさ?
そんなものを、僕は感じ取ってしまった。
そして。
その巨大な胸部の、闇の中に、光が満ちていく。
緑がかった淡い光。冷たくも、あたたかくもない、不思議な感触。
けれど、確かに――“生きている”と、思った。
光の中から現れたのは、
紅。燃えるような、真紅のヴェール。
服と呼ぶには薄すぎて、飾りと呼ぶには神々しすぎた。
金色の髪。
夜明けに燃える太陽のように――いや、違う。もっと鋭く、もっと高貴に。
彼女と、視線が合った、その一瞬。
僕の中で、何かが、焼き切れた。
そして――
紅の光の中で、彼女は、微笑んでいた。
名前も、言葉も、なにも知らないのに。
ただ、目が合っただけなのに。
世界の音が、遠のいていく。
まるで、僕の全身が――書き換えられていくようだった。
なにかが、壊れていく。
なにかが、始まっていく。
それだけは、確かだった。
――彼女が、世界を変えると、知っていたから。
次回予告 翠の瞳に、僕を映して
傷ついた心に、差し伸べられた手。
初めて触れた、あたたかさ。
そして、名もなき僕に与えられた──名前。
エルフのお姉さん、ヘイラ・メイラ。
彼女の声、瞳、ぬくもりが、
心の奥で何かを変えていく。
でも僕はまだ、知らない。
彼女たちが背負うものも、
あの箱の正体も──
「彼」が遺した、あの日の真実も。
次回
聖弦のレクイエム 〜異世界転生したら記憶喪失のショタになって エルフのお姉ちゃんに誘拐されて心中する話〜
『翠の瞳に、僕を映して』
それは“始まり”より、もっと手前の、約束の場所。