第7話 甘すぎる毒と、飢えた希望
魔力酔い事件から一ヶ月。魔王城は、かつてないほどの平穏に包まれていた。
ゼノ様はすっかり健康を取り戻し、今や君主としての威厳と聡明さを発揮されている。そして、俺の料理はついに城の兵士たちにも提供されることになったのだ。
「うおおぉぉ…!この『肉じゃが』なる料理…!煮崩れた芋の甘みが、故郷の母の温もりを思い出させる…!」
「馬鹿言え!こっちの『カボチャの煮っころがし』こそ至高!心が、こう…じんわりと解きほぐされるようだ…!」
魔王城の大食堂は、もはや屈強な兵士たちの野太い声が響く社交場と化していた。以前の、骨付き肉を無言で引きちぎり合うような殺伐とした雰囲気はどこへやら。誰もが皆、俺の作る素朴な家庭料理に舌鼓を打ち、うっとりとした表情を浮かべている。
「みんなに喜んでもらえて、よかったなあ」
厨房の入り口からその光景を眺め、俺は心からの喜びを感じていた。料理人冥利に尽きる、とはまさにこのことだ。まさか、この和やかすぎる光景が、新たな火種になろうとは、この時の俺は夢にも思っていなかった。
異変を最初に察知したのは、魔王軍きっての武闘派、ガルバス将軍だった。
城壁のように分厚い胸板に、顔には幾多の戦で刻まれた古傷。その声は、雷鳴のように練兵場に轟く。
「だらぁぁぁんとしおって!貴様らは魔王軍の兵士か!それとも飯の炊けるのを待つだけの雛鳥かぁッ!」
「「「は、はいぃぃっ!」」」
「返事だけは一丁前だ!だがなんだその緩みきった剣筋は!腹が満ち足りて、牙まで丸くなったか!」
ガルバス将軍が嘆くのも無理はなかった。兵士たちの訓練には、明らかに身が入っていない。それどころか、訓練の合間には「今日の炊き出し、なんだろうな」「健太殿の新作シチューだと嬉しいんだが…」などと、食事のことばかり話している始末。
その会話を耳にした瞬間、ガルバス将軍の堪忍袋の緒は、見事にブチ切れた。
その日の午後、ゼノ様の前で緊急の御前会議が開かれた。
「陛下ッ!断じて申し上げます!このままでは、我が魔王軍は内側から崩壊いたしますぞ!」
ガルバス将軍が、玉座のゼノ様に激しく詰め寄る。その剣幕に、穏健派の将軍がたしなめた。
「ガルバス将軍、少し言葉が過ぎるぞ。陛下のご前である」
「黙れッ!貴様には分からんのか!原因は、あの人間が作る『料理』にございます!あんな腑抜けた飯を毎日食わされ、兵士たちの闘争心はすっかり削ぎ落とされてしまいました!」
穏健派が反論する。「何を言うか!兵の士気はむしろ上がっておる!何より、陛下のご健康を取り戻されたのは、まさしく健太殿の功績ではないか!」
「戦場で腹を満たすことしか考えぬ兵に、何ができるというのだ!我ら魔族の誇りはどこへ行った!」
激しく対立する両派。健太の料理という、本来なら喜ばれるべき善意が、皮肉にも軍を二つに引き裂こうとしていた。ゼノ様は、こめかみを押さえて深く頭を悩ませている。
俺がその話を聞かされたのは、夕食の準備をしている最中だった。
「え…?俺の料理のせいで、軍がバラバラに…?」
手にしたお玉を、危うく取り落としそうになる。そんな俺の背後で、厨房の隅に腕を組んで立っていたボルカンが、苦々しく吐き捨てるように言った。
「…言わんこっちゃない。料理は、時として毒にも薬にもなるのだ。貴様の料理は、兵士にとっては甘すぎる毒だったというわけだ」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。
◇
そして、その甘すぎる毒は、遠い人間界では、全く別のものとして認識されていた。
ボロを纏った斥候が、人間界の王城で、王と将軍の前にひざまずいていた。彼の目は飢えで窪んでいるが、それ以上に、狂信的な光を宿している。
「見てまいりました!魔王軍の兵士どもは、何か新型の兵糧を食しております!」
「兵糧だと…?」
「はっ!それを食べた兵士は、見るからに活力を取り戻し、士気も高い様子!あれは、間違いなく兵士を強化する“魔法の兵糧”にございます!」
斥候が見たのは、俺の料理を食べて「明日も頑張ろう」と元気になった兵士たちの姿に過ぎない。しかし、飢えと絶望の中にいる彼らには、それが驚異的な効果を持つ、起死回生の魔法のアイテムにしか見えなかったのだ。
将軍が、玉座の王に進言した。その声は、乾いているが、強い決意に満ちていた。
「陛下。これこそが、我らに残された唯一の希望。神が見捨てなかったのであれば、あれは我らのために現れた奇跡に違いありません」
「……」
「あれを、奪うのです。民を救うために!」
◇
魔王城の厨房で、俺は立ち尽くしていた。
良かれと思ってやったことが、魔王軍を分裂の危機に陥らせている。
そして、俺の知らない場所では、その同じ料理が、飢えた人々の最後の希望となり、今まさに戦争の引き金になろうとしていた。
「俺…どうすればいいんだ…」
自分の無力さに、途方に暮れる。
平和な食卓を届けたい。その願いは、この複雑に絡み合った世界では、あまりにも純粋すぎたのだろうか。
答えは、どこにも見つからなかった。